ナゴヤ再訪 2024〜臥薪寮の消失〜
年月を経るとさまざまなことが変わっていく。
環境も変われば、自分も変わる。
自分が変わることのひとつに、過去の記憶が薄れていくことがある。
もちろん忘れられないこともたくさんある。
たとえばぼくが浪人時代、名古屋で過ごした一年間。
時計じかけの闇にひそんで何度も聞いた爆音のケイト・ブッシュ、ジョイ・ディビジョン、エリオット・マーフィー。
その一方で、細かいディテールはどんどん失われていく。
思い出そうとその場所を訪れようとしても、すでにその場所は失われてしまっている。
失われた時間と同様に。
久しぶりに名古屋を訪れた。
5日間の出張で、仕事先は東山線の終点からバスで30分ほどのところだった。
帰り際、東山線で名古屋駅に向かう道すがら、ふと思い立って上社駅で降りた。
1986年、昭和61年。
ぼくが浪人時代に住んでいた予備校の寮、河合塾臥薪寮はちょうど一社と上社の中間にある。
東山線が地下から地上に出ると、まっさきに左側にあらわれてくるのが臥薪寮だった。
上社駅で降り、スーツケースを引っぱって高架線沿いを歩く。
高速道路、当時はあったのだろうか。憶えていない。
10分ほど歩くと、やがて見知った坂道の一帯にたどり着いた。
臥薪寮は、もうどこにも見あたらなかった。
寮のあった場所はマンションが建ち、敷地の一部は分割されたのだろうか、個人住宅になっていた。
ぼくは裏手の道路に面した部屋に入居してて、そこから道路をはさんで迎え側にはラブホテルが建っていた。
そのラブホテルもなくなっていて、代わりに瀟洒なマンションが建っていた。
有刺鉄線で入寮者の脱走を阻んでいた高い塀も、もちろんなくなっていた。
寮の向かい側の公園には、近所のマンションの住人だろう、若い母親と子どもたちの声があふれていた。
すさんだ雰囲気の予備校の寮とラブホテルが並ぶ場末の空気は、どこにもなくなっていた。
ぼくはしばらく行ったり来たりして写真を撮り、少しでも当時の面影を思い出そうとした。けどまったく雰囲気の変わったその一帯から、当時の空気を思い出すのは困難だった。
うろうろしているとマンションの住人らしき母親にうさんくさそうな目で見られ始め、ぼくはいごこちが悪くなってその場を立ち去った。
当時と同じ空、昭和61年と同じ強烈な太陽。
でもそこには高層マンションが、はじめからそこにあったかのように立っているだけだった。
巨大な西日が、冬だというのに真夏のような日射しを投げかけていた。
自分のブログの過去記事を引っ張り出してみる。
ちょうど20年前。2004年の記事だ。
そのころにはまだ臥薪寮の建物は残っていた。
過去記事には、寮の面会室の公衆電話、疑いに満ちた目をした初老の寮長、狭い寮の部屋のことが書いてある。
でも、過去記事を読み返してもそういった風景はもうよみがえらない。
記憶をたどっても、そこはがらんとして何もない。
でも、当時の感情はまだ残っている。
孤独と空腹、自由と不安。
なけなしの小銭でロック喫茶「時計じかけ」にこもっていた日々。
高校の教師を見返すために机にかじりついて解いていた問題集。
蹉跌と涙。
日々は戻らないが、夢と感情はまだここにある。
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