2017年4月21日 (金)

巨大ブリトーと格闘しながら思うこと

きょうの昼食はブリトーであった。

いや、そう言うことではない。そう言うことを言いたいのではない。
順を追って話そう。

ここ1年ほど、ランチを食べる習慣がない。
理由はふたつある。
一。外食が高くて量が多い。
職場のカフェテリアで食べると、だいたい10ドルから15ドル。日々の昼飯に千円以上というのは、ちょっとサイフに厳しい。
オマケに、やたらと量が多い。うまく言えないんだけど、どのランチもカツ丼大盛りくらいのボリュームがある。食べようと思えば食べられないことはないんだけど、毎日のお昼ご飯にその量を食べるのは明らかにオーバーカロリーだし、午後に眠くなる。
二。職場のランチグループに混ざりたくない。
じゃあお弁当か何かを持ってきて食べれば、とも思うんだが、ぼくの職場には若い職員たちのランチグループがある。やっかいなことに、ぼくのデスクのすぐそばだ。
一度だけグループに混ぜてもらったが、会話がまったく聞き取れなかった。どこの国でも、若者たちが早口でおしゃべりに興じるのは共通である。共通であるんだけど、そこに言葉の不自由な外国人が一人だけ混じるのはどう考えてもムリだ。だいたい日本でも職場の若者ランチグループなんて怖くては入れないのに、異国でできるわけがない。
まったく聞き取れないマシンガン英語が頭上で飛び交うのを聞きながら、ひたすら硬直した笑顔で昼休みが終わるのを待ち続けた。ええ、一回でやめました。

そういうわけで、昼休みはランチを取らずに仕事を続けている。英語の読み書きが他の人よりものろいので、昼休みを返上しても仕事は遅い。アメリカ人が1時間で終わる仕事が1日かけても終わらなかったりすると、泣きたいような気持ちになるが、まあそれはまた別の話。

で。きょうはたまたま、朝食を食べずに出勤した。
夜も予定が入っている。帰宅は9時過ぎになるだろうし、それまで何も食べないわけにはいかない。
と言うことで、深く考えずにカフェテリアに行き、目についたブースで料理を頼んだ。

出てきたのは、巨大なブリトーであった。


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ペーパートレイに乗った、白いブリトー。
長さは18センチくらいだろうか。太さはだいたい、一般的なコーヒーのタンブラーくらい。
全体に、ヤマザキのロールケーキを一回り大きくしたくらいのサイズである。

食べましたよ。ええ。食べましたとも。がんばりました。全力を尽くしました。
後半は失速気味でしたが、手を休めずに食べきりました。
値段は、コーラとセットで10ドル50セント。

いつも思うのだけれども、アメリカの外食業界はなぜ値段と量を半分にしないのか。こんなメガ盛りみたいな量をどこでも出してくるのはどうなのか。
この辺のことをアメリカの人に聞くと、だいたいいつも同じ答が返ってくる。
「誰かとシェアして食べればいいのよ」あるいは「コンテイナーを頼んで、余った分を持ち帰ればいいのよ」である。
しかしですね。職場で手の空いたときにさっと食堂に行ってランチを食べるのに、シェアして食べる相手を見つけるのはたいへんですよ。ていうか、ランチをシェアして食べるほど仲のよい人は職場にいないわけですよ。
それから、持ち帰ればいいって言われても、ランチの残りを持参して午後の会議に参加したくないわけですよ。だってブリトーですよ。においだって会議室に充満するわけですよ。
そして何よりも、巨大ブリトー1本とコーラがランチって、なんかいろいろな意味でまちがっている気がするわけですよ。ブリトーは三分の一でいいから、その分、こんにゃくの煮物の小鉢とかミニサラダとかミニ冷やしとろろそばとか杏仁豆腐とか、そう言うものを付けてほしいわけですよ。

と言うことで、案の定午後には眠くなり、会議はまったく頭に入らなかった。
何か自分の名前を呼ばれた気がするが、深く考えないでおこう。

ちなみにカフェテリア、まわりのアメリカ人はみんなもりもりとメガ盛りランチを食べていました。
そりゃー肥満と心筋梗塞が増えるワケですよ。

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2017年4月 2日 (日)

恐ろしきかな縦列駐車

縦列駐車がこわい。
アメリカはクルマ社会である。銀行とかスーパーマーケットとか、たいがいの場所には駐車場が用意してあるが、都市部ではそうも行かない。あえて駐車場の少ない中心部に来るまで出かけなければならないこともときどきある。
そこで問題になるのは、縦列駐車である。
今のところ、まだ縦列駐車の技術を習得していない。や、やればできないこともなくはないが、切り返しだのやり直しだの、やたら時間がかかる。道路の流れをせき止めて縦列駐車のやり直しを何度もやっていると、後ろから容赦のないクラクション攻撃を浴びる。なかなかにストレスである。
できれば縦列駐車はしたくない。多少不便でも、縦列駐車をしなくちゃいけない状況なら最初からバスか徒歩を選ぶ。

縦列駐車に気が乗らない理由はもうひとつある。それは、前後のクルマである。後先考えずに、やたら車間を詰めて駐めてくる。
写真を見てほしい。あり得ないほどのすき間でびっしりと縦列駐車が並んでいる。
うまいドライバーは、キュキュッと数回切り返して魔法のように脱出できる。が、へたなドライバーも多い。
どうなるか?
もちろん、前後のクルマにぶつけて脱出するんである。

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クルマを傷つけたくない日本人としては、こういう状況はストレスなのである。つらいのである。避けたいのである。
中には前後のバンパーに厚いゴムパッドをつけて(そういうグッズが売っているんです)、縦列駐車のぶつけ攻撃に備えている人もいる。

それから、道路沿いのパーキングメーターはほとんどが25セント硬貨対応である。が、たまたま25セントを切らしていたりすると支払えなくなる。
自分はやったことがないが、ほとんどのパーキングメーターにはカメラが取り付けてあって、支払いが足りないドライバーの住所に、あとで罰金の支払い状が送られてくる。
アメリカはカード社会なので、ふだん現金を使う機会はほとんどない。何も考えずにクルマで出かけて25セントを持ち合わせておらず駐車できない、あるいは駐車したあとで支払いができないという事態も容易に発生する。

まあ、そうは言ってもやはりクルマは便利だ。
ライブハウスに出かけるときなど、終演後に疲れて電車で帰ってくるのはしんどい。
ガソリン代も安いし、電車は遅れがちだし、ついついクルマで出かけてしまうのである。
しかしそれにしても縦列駐車は(最初に戻る)

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2017年3月28日 (火)

休日の午後はコーヒーを

アメリカはコーヒー大国だ。お茶と言えばほぼコーヒーしかない。緑茶、紅茶、中国茶のたぐいはほとんど流行っていない。たまにバーガーショップなどで紅茶が置いてあるが、うっかり頼むと異様に甘い紅茶フレーバーの砂糖水が出てくる。ほとんど炭酸飲料のあつかいだ。お茶と言えばコーヒーなのである。
で、コーヒーがまたピンキリなのである。渡米して半年ほどして、わが人生最大級のまずいコーヒーを体験した。とあるサンドイッチショップでふとコーヒーを頼んだら、なぜここまでと言うくらいひどい代物が出てきた。これがよく推理小説などで出てくる、泥水と例えられるアメリカのコーヒーかと、妙に感動したくらいである。

一方で、ものすごく美味しいコーヒーにもありつける。インディペンデント系のコーヒーショップも多く、その大半は豆から焙煎から店の雰囲気から、ものすごく凝っている。
ぼくがよく行くのはそのひとつ、Vと言うコーヒーショップだ。車で40分と遠いのが玉に瑕だが、行くだけの価値がある。
アメリカのコーヒーはとても安くて、レギュラーサイズで2ドル前後というところが多い。が、Vの最上級コーヒーは5ドル。2倍半。でもそれだけの価値がある。
オーダーを受けてから一杯ずつ目の前で淹れてくれるし、量も大ぶりのマグカップにたっぷりと入れてくれる。店員さんもとても愛想がいい。ぼくのたどたどしい英語でもにっこり笑って茶目っ気たっぷりに返事してくれる。チェーン店の店員さんが英語のおぼつかない客に冷たいのとは対照的だ。

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アメリカのコーヒーショップの多くは電源コンセントが豊富にあり、無料Wi-Fiを提供している。勉強している人、仕事をしている人も多い。けどスノッブな印象はなく、パソコンに黙々と向かっている人もいれば友だちと楽しくおしゃべりしている人、コーヒーを飲んで物思いにふけっている人、それぞれが好きなことをしている。店が広くて席数が多いせいか、長時間いても変な肩身の狭さは感じない。
まあ、仕事や勉強の人もだいたい2,3時間で帰って行くようだ。さすがにまる一日コーヒー一杯で粘っている人はいない印象だ。

と言うわけで、淹れ立てコーヒーを飲み、アサイーのシャーベットを食べ、仕事の資料などを読みつつ周りの人々を観察していると、なんとなく休日の午後が終わる。
午後の光が差し込み、表に誰かが駐めたピックアップトラックの濃いブルーに反射している。
落ち着くひとときです。

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2017年2月 7日 (火)

Women's march - 多様性と民主主義 -

少し前になるが、米国新大統領が就任した翌日、2017年1月21日。ワシントンDCでの大規模な市民行進に参加してきた。

Women's March on Washington

ある女性の呼びかけがきっかけで、全米、ひいては全世界中での同時開催になったこの集会。
日本では「反大統領集会」と報道されているようだが、少しちがう。
この集会の主張、意味を、当日あの場所にいたひとりとして伝えておこうと思う。

前日の就任式は、近辺の地下鉄は閑散としていた。余裕で座席に座れ、混雑もない。翌日のWomen’s Marchも同じだろうと高をくくっていた。が。
駅の構内からして、ただならない人出である。電車に乗り込むと、あり得ないほどの人混み。日本の通勤電車並みだ。
乗客はみな一様に、この集会の参加者であることを示すピンクのニット帽をかぶり、手には思い思いのプラカードを持っている。
男女比は、6:4くらい。女性の方がやや多いが、女性ばかりというわけではない。人種は白人が7割、残りがアフリカ系アメリカ人、中東、アジアンと言うところだろうか。
雰囲気は明るく、平和的だ。コンサートに向かう人たちの集まりという感じで、見知らぬ同士が談笑している。
行進のスタート地点近くの駅に着く。ピンクのニット帽をかぶった参加者で、東京駅並みの人混み。
あまりの人混みに、メイン会場には近づけず、目的地がどこなのかもハッキリ分からない。
右を見ても左を見ても、プラカードを掲げた大勢の人たち。
主張はさまざまだ。
「賃金を上げろ」
「移民、避難民を排除するな。私たちは彼らを歓迎する」
「女性の権利を守れ」
「LGBTQに権利を」
「多様性を守れ」
「温暖化対策を守れ」
「オバマケアに触らないで」
そしてもちろん、新大統領をこき下ろすプラカードも。

予定では、メイン会場で2時間ほど代表者のスピーチがあり、それから行進が始まるはずだった。
が、スピーカーの方々がみな興奮して話が延びまくる。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」で有名なマイケル・ムーア監督も、異様に力を入れて(長々と)スピーチをする。
2時間の予定が3時間を過ぎ、シンガーのアリシア・キーズの演奏が終わったあたりからまわりがじれてきた。
We want march! We want march!の大合唱が始まり、メイン会場の行事が終了していないにも関わらず行進が始まる。
個人的にはマドンナのパフォーマンスが見たかったのだが、まわりに押され、自分も人波に飲み込まれる。

大通りに出ると、首都を埋め尽くす勢いの、大量のピンク帽である。
これだけのデモだと反対派とのいざこざがあるのではないかと心配したが、非常に平和的だった。
ちなみに、大統領に対するプラカードやシュプレヒコールも、揶揄はあっても「死ね」だとか、人格を否定するような文言はない。この辺はとても安心できる要素だった。

大勢のピンク帽にもまれ、山ほどのシュプレヒコールを聞き、プラカードの文言を読んだ。
彼らは、単に新しい大統領とそのやり方に反対しているのではない。
堕胎をふくめた女性の権利、LGBTQをはじめとするマイノリティの権利、環境問題、移民の強制排除、色んな問題が混じり合っている。
でも、根っこのところでは、アメリカの国民性そのものである「多様性」と「民主主義」が脅かされつつある。それに対する抗議であり意思表示だと、ぼくはとらえた。

アメリカは多様性の社会である。
それは、日本人が日本で使う多様性という言葉と、少し意味がちがう。
もともと今のアメリカ合衆国は、ヨーロッパからの移民が作った。フランス、イギリス、オランダ、ヨーロッパ各地のさまざまな他民族が集まって建国し、そこにアフリカ系アメリカ人が加わり、南北戦争があり、いまのアメリカ合衆国が生まれた。
多民族国家としてはじまったアメリカという国は、最初から「ちがう人たち」の寄り合い所なのである。
生まれも文化も価値観もちがう人たちが寄り集まってできた国アメリカ、そこでは「自分と他人はちがう」と言うこと自体が価値あることだとされている。
現に、アメリカの教育場面では、とにかく「人とちがうアイディアを発想し、ちがう角度からの意見を積極的に述べること」がよしとされている。
「他人と同じであること」は、アメリカではネガティブなことなのだ。この国では「空気を読んで周囲に同調すること」には、なんの価値も置かれない。どんな問題に対しても賛成なら賛成、反対なら反対、別意見なら別意見と、誰でもしっかり意思表示する。他人の発言をなぞるだけのひと、独自の意見を持たないひと、発言を求められてなんの意見も表明できないひとは「何も考えてない人」と見なされるである。
そういう多様性が重視され、ひととちがうことが良いこととされ、色んな意見をわあわあと述べ合って問題解決を図るのが伝統とされる国で、新大統領のやり方は反感を招いた。
それは彼のやり方が、多様性を否定し、反対意見との対話を拒んでいるようにしか見えないからである。
多様性と民主主義、対話の否定は、アメリカ人のアイデンティティの根幹に関わる問題である。だからあれほど大勢の人たちが、この抗議集会に参加したのだと思う。
もちろん地球温暖化の否定、性の多様性の否定、移民の強制排除、特定の宗教の背番号制など、国際協調や人権を否定するような個々の問題も大きい。
しかしこの反対運動のうねりは、米国のアイデンティティに根ざしているのだとぼくは思う。

それにしても、新大統領の矢継ぎ早の新政策には驚かされる。
今のところ暴力的な事態は起きていないが、このまま不満が高まっていけば目に見える形での衝突が生じないとも限らない。
閣僚もまだはっきり決まっておらず、個々の政策が実務レベルで機能しているようには思えない。
早く混乱が収まってくれるのを願うばかりである。


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2017年1月28日 (土)

できないことを認める

異国に暮らしていると、「できないこと」に直面してばかりだ。
例えばいま、上司にミーティングキャンセルのメールを書いた。このメールを書くのに1時間かかった。
1時間も何をしていたのかと言えば、業務進捗状況の確認に15分、自分の感情と折り合いをつけるのに40分。メール書きは5分だ。
なにせ、上司からの課題が遅れに遅れている。すでに数ヶ月。とうに仕上がっていなければならない。しかし、そのためには大量の書類を読み、分からないところがあれば知っていそうな人に問合せ、書類の草稿をまとめ、また訂正という作業を繰り返す必要がある。
これを英語でやるというのは、非常につらい。
つらい上に、アリが這うほどの速度でしか進まない。そしてできた英文の文書は、自分で読んでもいやになるほどクオリティが低い。
日本にいて、日本語で、日本人の同僚に同じことをやるのは造作もないことだ。ちょっと、ここ分かんないんだけど、知っていたら教えてくれないかな?いま詰まっちゃってるんだけど、どうしたらいいかな。ちょっとこれ、読んでみてもらえる?
しかしいまは人にものをたずねるにも、質問事項をまとめ、英語の言い回しを考え、その上で話を持って行かなければならない。頭に浮かんだことをそのまま口に出すということができない。
そして往々にして、そうやって求めた返事も、何を言っているのかよく分からない。
会話の質が低く、聞き漏らしが多い。母語なら当然の、考えながら話す、聞きながら考えるということができないからである。

昨年末から、フィンランドから別の担当者が来た。
フィンランドでは、かなりの人が英語を自由に使えるらしい。
彼は、ぼくが1年ちょっとかかってやってきたことを難なく数ヶ月で達成し、さらにその上を行っている。
彼は英語の文書が苦もなく大量に読め、大量に書け、周囲と込み入った会話ができる。
ぼくはその脇で、ひたすら黙って辞書を引きながら込み入った文章を解読している。
全体会議では流れについていくのがやっとで、意見など言うヒマなどはない。あるいは、意見を頭の中で英語に直している間に、あっという間に話題は飛び去って行ってしまう。

いま、ぼくはこの職場環境で「いちばん貢献していない人」である。
そして、それを解決する見通しが見えていない人である。認めざるを得ない。
自己憐憫に陥るものかと思いつつも、気がつくとまわりと自分を比べている。
無力である。
そして、無力を認めるというのは、こんなにもきついものなのかと思う。
期せずして、酒をやめたばかりのころを思い出す。

無力を認めるには、代わりになる何かが必要だ。
AAでは、アルコールに対する無力を認めれば自由に生きられる、アルコールなしの新しい生き方が手に入ると言う光が見えた。それは、AAにつながりつづけている仲間の姿から感じることができた。そして、彼らの助けの手があった。
ただ単に無力を認めろと言っても、認められるわけがない。その代わりになる希望、酒をやめたあとにある光が見えなければ、とてもできるわけがない。
「無力を認める」のと「解決がある」ことは、同時に示されなければならない。
どんなに進歩しても、酒をやめたあとの希望、酒を手放すに値すると思える生き方、笑顔、よろこびを医学は提供しない。それはやはり、自助グループと仲間だけが見せることができるのだ。

と、AAのありがたみを再確認したところで、きょうも孤立無援の職場でがんばるわけです。
12のステップとハイヤーパワーがあれば、きっとだいじょうぶ。

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2017年1月24日 (火)

新大統領就任式、取り残された人たちの声

2017年1月20日、大統領の就任式を見てきた。
会場はワシントンDCの中心地、国会議事堂とその前に広がる広大な敷地、ナショナル・モールである。
チケットを持ってれば国会議事堂でオバマやトランプを間近に見れるのだが、市民権がないとチケットが取りにくい。
と言うことで、ナショナル・モールの広大な緑地帯で就任式を見た。

ワシントンDC市内は何重にもフェンスが張られ、すべての交差点を軍が警備している。
Isisもテロ予告しているし、まあ当然の措置だろう。

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歩行者の導線を制限しているため、最寄り駅からナショナル・モールへは、大きく迂回路を通らなければならない。そしてチェックポイントで手荷物検査を受ける。
手荷物検査は厳しいと言えば厳しく、甘いと言えば甘い。
すべてのバッグは徹底的に検査される。デジカメは係員の前で撮影して見せて、偽装品でないことを証明しなくてはいけない。スマホ、タブレットも同様。小包の類いは、爆弾の可能性があるため持ち込み厳禁。
その一方で、ポケットの中身などはチェックされなかった。これで大丈夫なのかと思う。
まあ、大統領やVIPからは遠いからなのかも知れないが。
チェックポイントを通過して会場に入ると、中はガラガラ。思った以上に人がいない。
が、これはチェックポイントの荷物検査が厳重なこともあるだろう。事実、ぼくと妻は1時間以上行列に並んでやっと会場に入れた。
ぼくたちよりあとに並んだ人たちは、式の半分以上進んでからようやく中に入れたと思う。

巨大スクリーンに、前大統領の顔が浮かんだ。
いくつかの引き継ぎの儀式のあと、新しい大統領のスピーチがはじまる。
ゆっくりと話し、単語も分かりやすい。画面下には字幕も出る。おかげで内容がよく分かった。
会場にいるのは、ほとんどが新大統領の支持者だ。みなおそろいの赤いキャップをかぶり、思い思いのアメリカ国旗をモチーフにした服を着ている。

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スピーチが進む。
いままでアメリカの主体はワシントンだった。ワシントンDCの少ない人たちが国の意志決定をしてきた。それをいま、あなたたちに返すことを私は約束する。
沸き上がる歓声。
これからはアメリカが第一だ。なぜ自国の富を、ほかの国にまっさきに分け与えないといけないのか?私はアメリカのしあわせを優先する。
こぶしを突き上げ、USAコールを繰り返す支持者たち。

ここにいると、自分の立ち位置を考えざるを得ない。
新大統領のスピーチは、もちろん保護主義的であり、一国主義であり、前大統領の国際協調路線とは意を異にする。
しかし、この大統領を支持する人たちは、アメリカの国際活動の割を食って自分たちが損をしていると、腹を立てている。
富が余っているならほかの国に分けるのもいいけど、自分たちが職を失い、世帯収入が下がり、あるいは収入の伸びから取り残され(アメリカはここ10年で物価も賃金も上がっている)、以前ならできた仕事も移民に取られている。なぜなのか?政治は俺たちを見捨てるのか?
彼らの叫びは、ぼくにはそう聞こえる。

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客席がひときわ大きな歓声を上げたのは、新大統領がアメリカ各地の名前を挙げたときだ。
ネブラスカ、デトロイト。どちらもラストベルト、つまりかつては工業地として繁栄し、いまは衰退した地域である。
新大統領が予想を覆して得票したのも、ラストベルト地帯だ。
これらの地域は衰退の波に呑まれ、貧困と失業にあえいでいる。かつてはアメリカの繁栄の象徴だったのに、いまは企業が工場を移転し、広がる廃工場の風景の中にたたずんでいる。
しかしそう言う人たちの不満の声は、ともすれば人種差別と揶揄される。
アメリカには色んな人種が混在している。中でも「中産階級未満の白人」は事情が特殊だ。
彼らは白人であるがゆえに、人種がらみの不満が言えない。不満を言えば、白人による差別ととらえられてしまう。
デトロイトなどは特に、かつては自動車工場で繁栄していたにも関わらず、いまは米国有数の犯罪都市だ。日本に自国の自動車産業がつぶされた、あるいは移民に仕事を奪われたと感じるのも致し方ない面がある。
新大統領は、この層の支持を得た。
ネブラスカやデトロイトのような地域、ここの人たちを自分は見捨てないと、彼は声を強めた。

ぼくは日本人で、アメリカに車を売っている国から来ている。
ぼくから見れば、むちゃくちゃな保護貿易をしかけたり、相手のおごりで国境に壁を作れと言ったり、特定の宗教の信者に背番号を義務づけるような公約はとても受け入れがたい。多くのリベラル層からも、新大統領はすこぶる評判が悪い。
しかし彼を支持する人たちの声なき声、彼の政策に怒りとともに大きくうなづく人々。星条旗を身にまとい、新大統領に熱い視線を投げかける人々。
そこにぼくは、アメリカの光と影を見たように思う。

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2016年11月29日 (火)

サンクスギビング明けのミーティング

サンクスギビングデイは一大連休シーズンだ。公的には祭日は一日だけだが、多くの人が一週間ほどの休みを取る。だいたいは家族と旅行に行ったり、家族親戚の家を訪れたりするようだ。
そういうわけで、サンクスギビング前後のミーティングは人が少ない。
きょうはぼくとJだけだった。
二人ミーティングをやるような気分も盛り上がらず、ぽつぽつと話をする。
サンクスギビングデーの由来。ブラックフライデーの狂乱ショッピング。
Jは、サンクスギビングデーは感謝、協働、分かち合いの日だという。
ヨーロッパからアメリカに渡った人々がインディアンに助けられ、暮らしを立てることができるようになった。感謝の意を込めて、収穫物をインディアンたちと分かち合ったのが始まりだという。
だから分かち合うことのたいせつさを知る日なのだと。
だが多くのアメリカ人には、ターキーを食べてショッピングをする日になってしまった。
自分は家族とターキーを食べて、静かに過ごした。

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コロラドに生まれ、近くの山でスキーをして育ったJは、現代のアメリカに上手くなじめていない印象だ。
皮肉なことに、サンクスギビングデーはJのような精神主義的な考えとは逆の、物質主義的な、消費社会の象徴的な側面が大きくなってしまったように思う。
サンクスギビングデーの翌日はブラックフライデー。国中のショッピングセンターが年に一度の大幅値引きをし、買い物客が殺到する日だ。開店時間は年々早まり、いまや夜中の0時、日付が変わると同時に28時間の突貫営業に入るところもある。
ぼくも物見遊山で行ってみたけど、あまりの混雑に、クルマを駐めることさえできずに帰ってきた。
Jは、そんな消費社会をクレイジーだという。
消費行動は、満足するということがない。ひとつを手に入れれば、もっと多くのものが欲しくなる。
消費しきれないほどたくさんのモノに囲まれて暮らすのがしあわせなんだろうか?
おれはそう言うものに荷担したくない、と彼はいう。
ブラックフライデーもきらいだし、クレジットカードもきらいだ。あれは借金なんだと言うことをみんな忘れている。なぜ感謝と分かち合いの日に、そんなものに振り回されなくっちゃいけないんだ。と。

ぼくは興味深く彼の話を聞く。
いうまでもなく、現代の消費主義社会はアメリカが作り出したものだ。それをアメリカに生まれて育った人がどう見ているのか、かねてより興味があった。
Jのように、過剰な消費行動に疑問を持っている人がいるのだということに、ちょっと驚いた。
もちろん多様性の国アメリカでは、人の数だけ考え方がある。Jのような精神主義的な考えの人もいれば、家族で元気いっぱいにブラックフライデーのショッピングモールに突入していく人たちもいる。
どちらが良いとか悪いとかじゃない。要は自分次第、自分がどの考えを支持し、基準とするかがたいせつなのだ。

ふだんのミーティングもたいせつだけど、対話で人の考えを知るのもいいね。
それにしても、祭日の本来の意味が失われて消費社会のイベントと化していくのは、日本のクリスマスによく似ているなと思いましたよ。
Happy Thanksgiving day to you.

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2016年9月13日 (火)

またまた久しぶりに

またまた久しぶりの更新になってしまいました。
なんとか元気でやっています。みなさんは、元気ですか?

早いもので、いつの間にか夏が終わりかけている。
先々週まではひどい暑さだったんだけど、先週くらいから朝晩が涼しくなり、駅のプラットフォームにセミの遺骸が目立つようになってきた。今週からはぐっと気温が下がり、通勤する人々も長袖がちらほら。
秋なのである。

AAの方は、あいかわらず週1ペース。3人ほどのメンバーが、いまは5人前後まで増えた。ミーティング会場も、地下室→野外(公園のベンチ)→会議室、と、転々とした。ちなみに今日のミーティングはまたまた野外だった。まあ、野外もいいんだけどね。そばを通行人がよくとおる以外は。
ミーティングのテーマは、ほとんどフリートークだ。今週は自己憐憫と神の意志に沿うこと、についての話が多かった。
先日、誰かがこんなことを言った。「孤独はわたしたちのまわりに透明な壁を作り、ほかの人たちから孤立させてしまう」と。
誰かが自分を孤独にさせるのではない、自分が自分で孤独を作り、他の人との間に壁を作り、孤独に追い込んでしまう。
考えてみたら、自分もそうだった。壁があると感じたときは、往々にしてその壁は自分が作っていた。
いまもそうだ。
あいかわらず英語に関しては劣等感が強くて(というよりは恐怖感、おそれかな)、なかなか他の人に話しかけられない。アメリカは自分が困ったときに「まわりが察してくれる」ということは100%ないので、何かがあったときは自分からまわりに働きかけていかないといけない。英語で。これがつらい。
で、「なにか困ったこと」は、しょっちゅう起こるんである。
クレジットカードによく分からない引き落としが発生する。スマホがある日突然つながらなくなる。同僚にプロジェクトの進捗状況をメールで問いあわせたけどまったく返事をよこさないので、直談判に行く。
身振り手振りを交えてつたない英語で用件を話すが、たいがい「ふん?」みたいな対応をされる。ガックリ落ち込んで、我が身の英語力のつたなさを呪う。
しかし考えてみたら、萎縮する必要はないのである。萎縮してビビればビビるほどに話は伝わらなくなり、コミュニケーションは行き詰まり、劣等感はさらに深まっていく。

ここでひとつ、思い切って断言しよう。
アメリカ人は、テンションが高い人が好きである。
とくに何もなくても、2割増しくらいのテンションで「ハーイ!」と会話を切り出すと、とりあえず何とかなる。ような気がする。
わざとらしいくらいの笑顔で、相手の目をしっかり見て、はきはきと切り出すといい。
疲れるんだけどね。

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と言うことで、日々を仕事の壁、習慣の壁、言葉の壁に苦しみながら過ごしている。
アメリカ人はおしゃべりが大好きで、放っておくとずーっとおしゃべりをしている。そういう国で言葉が不自由だというのは、なかなか忸怩たるものがある。

けど、壁なんてしょせん、自分が作っているのである。ミーティングで仲間が言ったとおりだ。
壁なんてあると思えばあるし、ないと思えばない。「ぼくの言っていることが分からない?じゃああとでメールしてね」くらいの勢いでいいのである。
少なくとも、自己憐憫におちいって立ちすくんでいたら、一歩も進まない。
アメリカは助けを求める人には誰かしら助け船を出す。だったらどんどんコミュニケーションを求めれば良いのである。

そんな感じで、ミーティングで気づきをもらい、日常生活で疲れ果て、また気づきをもらい、のくり返し。
考えてみたら、日本でやっていたのと同じだね。
そんな感じで、なんとかしぶとく生きのびています。

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2016年7月12日 (火)

ローン・ウルフ型とローン・パック型のテロ

ここんところ、物騒な事件が相次いでいる。
フロリダ州オーランドではナイトクラブで50人以上がテロの犠牲になった。ルイジアナとミネアポリスでは警官が丸腰の市民を射殺し、それに怒った若者が警官7名を射殺し、立て続けに血なまぐさい事件が続いた。
日本大使館からも、在外邦人向けの注意喚起メールが届いている。いわく、週末に人の集まる場所に近寄るな、デモを見かけたら興味本位で近寄らず、身の安全を確保せよ。
ニュースを見ていて思うのは、銃による事件は非常に唐突だと言うことだ。
平和な日常のある瞬間、突然銃撃が始まり、あっという間にまわりが死んでいく。同僚が死に、友人が死ぬ。楽しいドライブの最中に、となりの恋人が突然に血まみれの死体に変る。二度と戻ることはない。
そういうことが日常的に起こりうるのだということを、一連の事件は見せつけた。

きょうの朝刊で、となりの州でテロを企てた男が逮捕されたというニュースを読んだ。
犯人は、テロのターゲットとなる建築物を撮影していたところを捕まったという。この男は、Twitterでイスラム国への共感や、テロを思わせる発言をしていて当局から目をつけられていたそうだ。
先日同様に逮捕された男の、どうやらシンパらしい。二人組、いわゆるローン・パック(孤立部隊)型だろう。

昨今のテロリズム事情は、悪化しているように思う。
皮肉なことに、イスラム国の本体が弱体化するとともに、オーランドの事件のようなローン・ウルフ(一匹狼)型、あるいはローン・パック型のテロは増えている。
彼らは組織化されず、イスラム国との直接の関連もない。なにせ一人ないし数名程度なので意志決定は早く、活動を事前に察知することも困難だ。

組織化されていない、イスラム国への共感を示す、一人か二人のテロ活動。防ぎようがないと思う。

テロとの戦い、と言う言葉をはじめて聞いたのは、ジョージ・ブッシュ政権の時だろうか。ぼくが最初にこの言葉を聞いたとき、かすかな疑問をおぼえた。われわれはテロリストとそうでない人を、いったいどのように区別するのだろうか。
たとえ銃を持たなくとも、潜在的なシンパ、例えばテロリストに自分名義の携帯電話を貸す人はテロリストだろうか。それを黙認する家族もテロリストだろうか。
あるいはまだなんの行動も起こしていないけど、こころの中でアメリカや西側諸国にはげしい嫌悪感を感じている人は、潜在的テロリストだろうか。

テロリスト、テログループ、イスラム国、そういった人や集団は、われわれとはちがう、狂気の集団。奴らをやっつければ悪は消え、世界は平和になる。そんなカリカチュアライズされたイメージを、テロとの戦いという単純な言葉の影に感じる。背景にあるのは、非常に単純な善悪観、二分法だ。ハリウッド映画、たとえばエアフォースワンのように「悪いテロリスト」と「それ以外の善意の人たち」がはっきりと別れていれば、こんなに楽なことはない。
でも現実には、テロリストとそうでない人との境目は非常にあいまいだ。悪人をやっつければ世界に平和が訪れるというのは、アメリカという超大国がずっと昔から持っていて、そしてずっと失敗し続けているマインドセットだ。幻想と言ってもいいだろう。

今回逮捕されたローンウルフ型の犯人は、アメリカ人だ。彼の先祖は中東の出身かも知れない。名前も先祖にあやかって中東風の名前がついている。でも、アメリカで生まれ、アメリカの市民権を持つものはすべてアメリカ人だ。もし犯人の父母が中東出身だからと言う理由で、彼をアメリカ人ではないと断じれば、アメリカはアイデンティティを失うだろう。この国ではネイティブ・アメリカン以外の人間は、すべて移民か移民の子孫なのだから。
つまり、イスラム国やテロとの戦いは、どこか遠くにいる悪いテロリストが攻撃してくるのではなく、いまやアメリカ人がアメリカ国内でアメリカ人に銃を向け、引き金を引く。そういうものすごく分かりにくく、あやふやな戦いに変質してしまった。
潜在的テロリストとは、アメリカ中に散在している「こころの中でイスラム国への共感を抱いている者」「こころの中でアメリカを憎悪している者」たちだ。そんなものを一人残らずあぶり出すことが可能なのだろうか。
テロとの戦いとは、いまや内戦ですらない、「人の心のありよう」という、観念的で内面的な問題になってしまった。

今回、となりの州で未遂犯が捕まった事件は、Twitterのつぶやきが決め手だった。しかし、不用意なTwitter使用が逮捕につながると報道された以上、同じ手は通用しないだろう。残りのローン・ウルフたちは黙って銃を手に入れ、現場を選定し、引き金を引くだろう。
アメリカはどうするんだろうか。
最適解は分かりきっている。銃を規制すること。そして中東出身者やイスラム教徒への風当たりや弾圧がないように呼びかけること。調和と平和の方針を強く打ち出すこと。
でもおそらく、銃による大量殺人が起こるにつれ、銃の購入は増えるだろう。そして某大統領候補のように、イスラム教徒排斥を公言する人も増えるだろう。
疎外され、不当に差別されていると感じれば、それは怒りにつながる。アメリカ社会に対する不満や怒りが募り、そこに簡単に自動小銃が入手できる環境が加われば、あっという間にローン・ウルフ型テロリストのできあがりだ。

なんとなくなんだけど、オーランド事件の犯人や今回となりの州で捕まった犯人は、崇高な理念を持っているようには思えない。イスラム国へのシンパシーなんてのは後付けで、結局は社会に対するフラストレーションが犯行の直接の原因ではないだろうかと思う。
アメリカに来て感じるのは、この国の独特のコミュニケーションスタイルだ。
この国では、みずからコミュニケーションを求めるものにはみな応えてくれる。しかし、コミュニケーションを求めない人、コミュニケーションが不得手な人、内向的で人に話しかけられない人には冷たい。
いや、冷たいというのとはちょっとちがうな。
自分からアクションを起こさない人、人に話しかけない人には「誰も気がつかない」のである。そこにその人がいること自体が忘れられ、あたかも存在しないかのようにあつかわれる。もちろん、誰も悪気はない。悪気はないんだけど、黙っているだけで誰かが気にかけてくれる、などということはあり得ない。
そういう社会にあっては、積極的に人と関わるのが苦手な人は、あっという間に社会からこぼれ落ちて行ってしまう。人が生きていくためにはなにがしかのアイデンティティが必要だ。そしてイスラム国は、周囲を憎む者にその怒りの正当性を与え、イスラム原理主義(ですらないのだけど)という新しいアイデンティティを与える。そして、テロリストが生まれていく。
突き詰めるところ、オウム真理教に惹かれていった若者たちと共通した心理なのではないだろうか。
だとしたら、銃規制とともに、テロリスト予備軍へのサポーティブな働きかけが必要だと思う。
ちゃんと仕事があり、話し合える家族や友人がいて、社会に参加している実感が持てれば、人混みに向けて銃を撃つなどと言うことはなくなるのではないかと思う。
甘い?そうかも知れない。しかし少なくとも、イスラム教を弾圧したり、イスラム風の名前を持つ者を白眼視すれば、今後ますますローン・ウルフたちは増えていくだろう。そして安価で軽くて精度が高い銃の販売は、次の大量殺戮を引き起こすだろう。
平和的な解決策が執られることを願ってやまない。

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2016年5月13日 (金)

チケットマスター、アメリカの音楽興行システム

アメリカで楽しみにしていたことのひとつが、音楽ライブである。
安い、日本では滅多に見れないアーティストが見れる、ライブハウスがたくさんあって有名ミュージシャンも小さな箱でやってくれる。などの日本にはないメリットがある。
事前情報を得てワクワクしていた。
じっさい、こちらにきて何度かライブハウスに足を運び、アメリカのライブの良さを堪能している。さすがロックの本場だ。

きょうは音楽とは少しちがうこと、アメリカの音楽興行業界のことを書きたい。
アメリカの二大音楽興行業者と言えば、TicketmasterとLive Nationだ。
ほとんどのライブが、この二つのどちらかを通じてチケットを売っている。オンラインを通じて購入を行う。
アマチュアバンドのライブでもほぼ同じ。この二社のどちらかを通じてチケットを発売し、完売しなければ当日窓口で発売する。この二社、日本で言えばチケットぴあとローソンチケット、あるいはイープラスと言ったところか。
が、この両社、どうもダフ屋とつるんでいるようなのである。

先日、ブルース・スプリングスティーンのツアーが発表になった。うちの近くにもツアーが来る。
チケット発売日、開始時間と同時にパソコン2台態勢でチケットマスターのHPにアクセスした。
2時間近くリロードを繰り返すも、結局ゲットできず。完売。まあ、人気のライブだから仕方がない。
と思ったら、ソールドアウトする前から、続々とダフ屋(Scalper)のサイトにチケットが出品されているではないか。
それも、あきらかに個人のレベルではない。100枚単位、それも一列丸ごととか、1ブロック丸ごととかの単位で転売されている。
あり得ない。あきらかに、発売元とダフ屋とがぐるになっているとしか考えられない。
最終的には、たとえば転売サイトStubhubでは、スプリングスティーンのチケットがニューヨークでは軒並み5,000ドル(55万円)、最高7,100ドル(77万円)まで上がった。元値はせいぜい150ドルと言ったところである。

New York targets ticketers after Springsteen prices soar

瞬間ソールドアウト。同時にダフ屋サイトで数百枚、数千枚の転売。同じ現象は、有名シンガーのAdelでも起きた。こちらは2,000ドル(22万円)。
Ticketmaster cracks down on scalpers for Adele, Springsteen concerts | Toronto Star

チケットマスターは以前にもダフ屋とぐるになっている疑いでFBIの捜査を受けているが、状況は改善していない。

さらに先日。
また別のライブのチケットを取るため、チケットマスターに発売と同時にアクセスしたら、Tickets Nowという転売サイトに飛ばされた。
また瞬間ソールドアウトだから、自動的に転売サイトにリダイレクトされたんだろう。転売価格がそう高くなかった(元値が70ドルくらい、転売99ドル)ので、そのまま購入。
転売屋から買うのは気が進まないが、ぐずぐずしていると、転売サイトの価格もどんどんはね上がる。
が、数日後に別のサイトに行ったら、なんとチケットはまだ余っていた。それもかなりの数である。つまり、チケットマスターはまだ席が残っているにもかかわらず、転売サイトにリダイレクトを飛ばしたのである。
(チケットマスターが興行を仕切る場合、そのライブは全席がチケットマスターの管轄だ。あるいは複数の興行会社が仕切っている場合でも、お互いのシートを融通しあっているようである。日本のように複数の興行会社がそれぞれにちがうブロックの席を握っていると言うことはない)
買い直そうかと思ったが、転売サイトは返品が効かない。TIckets nowで自分が転売するという手もあるが、ダフ屋に手を貸すなんてまっぴらである。

ちなみにチケットマスターは、自分でもリセール代行をやっている。ライブに行けなくなったファンのチケットを代行販売していると言うのが名目のようだ。
それにしたってずいぶん高い。ライブに行けなくなったファンのシートを買い上げて二次販売するのなら、元値プラスいくばくかの手数料、くらいが妥当だと思うのだが。

ダフ屋問題にはさすがにアメリカ人も黙っていないようで、「チケットマスターとライブネイションはダフ屋行為をやめろ!」というfacebookのサイトもできている。まあ、誰だってそう思うだろう。

Ticketmaster and Live Nation need to END scalping NOW!

まあしかし、FBIの捜査を受けても改善しなかったんだから、苦情程度で治るわけがない。ほんとうに行きたいライブは我慢してダフ屋から高額で買うか、さもなくばあきらめる、というのがアメリカの実状である。
こういう状況を体験すると、日本はまだ健全だと痛感する。チケットぴあが転売業者とぐるになって人気ライブのチケットを数百枚単位で横流ししたりしたら、きっと会社がつぶれるくらいの大問題になるだろう。

何でもお金次第のアメリカ。有名アーティストでも40ドルくらいで見れるのに、スプリングスティーンのライブはダフ屋で買わないと見れないアメリカ。

ちなみにアーティスト側にも動きがあるようだ。Adelはチケット購入時のクレジットカードと写真付きID(運転免許証やパスポート)を持参、照合するシステムを導入した。たいへんな手間である。お金も人手もかかるだろう。それでも断行するところに、彼女の強い意志が見える。
しかしほかのアーティストの動きは鈍い。きのうきょうの問題ではないはずなのだが、おおっぴらに声を上げる人は少ない。音楽業界全体の、何か表に出しづらい事情などもからんでいるのだろうか。アーティスト側も相応のキックバックをもらっているとか。勘ぐりすぎかな。
日本では優先チケットの横流しがばれたらファンクラブ会員権剥奪など、相応に厳しい処分が取られているようだ。
カオル個人の意見としては、程度にもよるだろうけど、個人間の売買は多少目をつぶってもいいと思う。
けど、瞬間ソールドアウト→同時にダフ屋サイトで数千枚発売、これはダメでしょう。
しかしどうも音楽興行業界の考えはちがうらしい。「自由市場」(アメリカの大好きな「自由」「民主主義」)の原則が左右するのだから、アーティストが価格をコントロールしようとするのはおかしい、と言う理屈だ。
自由市場って、アメリカ人はみんな株やトレーディングのように、最初から転売利益を得ることが目的でチケットをゲットしているのだろうか?音楽興行業界のCSRはどうなっているのか?

アデルは1週間に300万枚以上のアルバムを売り上げることができる、世界で最もビッグなポップスターの一人であるにも関わらず、このようなチケットの販売方法についてコントロールできる部分はほんの少しに限られている。「画期的な解決策はないんだ」と、See Ticketsのウィルムシャーストは語る。「会場には様々な契約上の関係があり複雑だ。厄介な世界なんだよ」。
中略)
再販業者らは、アデルの戦略について、チケットセールスにおける自由市場を操作しようとしていることが問題だと指摘する。需要が多ければ供給は減り、価格は高騰する。アデルのチームが、どんなに50ドル~150ドルという定価のままの価格範囲を順守しようともだ。「そのような目標が市場のなかで達成されることはないだろう」と、StubHub社長のスコット・カトラーは語る。

アデルとダフ屋の総力戦、その内幕 | Rolling Stone(ローリングストーン) 日本版

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