2024年12月 6日 (金)

読書記録をつけたいが

さいきん、アウトプットばかりで自分の中身が空っぽになっている気がする。

新しい知識や気づきが得られていない。インプットが足りない。

アイディア出しとかブレインストーミングとかの場でも、過去の二番煎じ、三番煎じばかり。

これはいかん。

まずは読書。本を読みたい。読みあさりたい。

空いた時間を使って本を読むのではなく、本を読むために時間を空けたい。

そう思って、近ごろは読書の優先順位を上げております。

 

が、ここで問題が。

本棚を眺めていると未読のおもしろそうな本がたくさん並んでいるんだけど、読んだはずの本の背表紙を眺めても中身がまったく思い出せない。

わずか半年ばかり前に読んだはずの本が、ほぼ記憶に残っていない。

これではよくない。

以前から読書ノートをつけようとは思っていたが、めんどうでまったくやっていなかった。

今回こそ読書ノートプラン、発動!

 

…と思ったが、ここで問題が。

手書きノートは、いまや字があまりにも汚くなりすぎてて論外。

となるとExcelか何か、あるいはWebサービスを利用するか。

はたまたMacかiPhoneアプリか。

ただ、アプリは廃番になるリスクもある。これから10年、20年経ったときに読み返せないと意味がない。

Webサービスは、調べたらnotionというサービスがよさそう。

ただ、Evernoteの前例がある。

あれほど大人気だったEvernote、いまや自分もまったく使っていない。日本法人も撤退し、オワコン化している。当然、有料プランも脱退した。

notionが数十年後に稼働しているかはまったくの未知数。

となるとExcelか。でもめんどうだなー。Excelのシートにポチポチ入力、うーむ。

 

となるとやっぱり手書きノートか。でも、書名や著者、訳者を書き写すのは手間なんだよなー。

うーんうーん。

 

などと悩んでいるとキリがない。

もしパソコンもWebサービスもない時代だったら、きっとこんなに悩まないだろう。

人間、選択肢が多いと逆に決められないものです。選択肢がひとつ増えるたびに、比較検討の組み合わせが等比級数的に増えるもんね。

いちおうnotionのアカウントを作ったけれど、まずは手書きノートかなー。うーん。

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2024年12月 3日 (火)

30年前のクリスマスの長く退屈な夜

あれはたしかもう30年以上前のことなんだけど、ぼくは何者にもなれず、何者にもなりたくなく、ただ日々をイラついて過ごし、しょっちゅう大量飲酒を繰り返していた。

20代半ばの日々。

ある冬の日、寒さと孤独に耐えかねて、友だちに電話して一晩をデニーズで過ごした。

Yくんはぼくよりも2歳か3歳年下で、要領よく実入りの良いアルバイトを見つけて、なんとなくリッチそうだった。

SくんはYよりさらに2歳か3歳年下で、高校を中退して大検受験を目指していた。

ぼくはと言えば、卒業する見込みのまったく立たない大学をやめようかどうしようか、出ない答えを探してぐるぐると同じところを回っていた。

そんな3人が集まった冬の夜。

話なんてない。話すことは何もない。

恋人なんて誰もいない。今みたいにスマホもない。

みんなぶ然として、ただひたすらに煙草に火をつけ、お代わり自由のコーヒーをがぶ飲みしていた。

そのうち、だれかが気がついた。

おい、きょうってクリスマスイブじゃなかったっけ。

見まわすと他の客席は、しあわせそうなカップルや夫婦、家族連れでいっぱいだった。

店内にはクリスマスソングが流れていた。

デニーズに入ってからすでに2時間ばかりが経っていたけど、3人のうち誰ひとりとしてそのことに気がつかなかった。

 

クリスマスなのにいっしょに過ごすガールフレンドもいねえのかよ。

知らねえよ。お前だっていないじゃないか。

オレは良いんだよ。いないんじゃなくてあえて作らないんだよ。お前とはちがうんだよ。

そんなこと言ったって、こうしてデニーズにボケッとしているのは変わりねえじゃねえか。

だからマインドがちげえんだよ。マインドが。

 

そんなことを繰り返し言い合っていたのをおぼえている。

どうやって家に帰ったのかはおぼえていない。

たぶん、どうでもいい与太話を繰り返したあげく、深夜か明け方に寒さに震えながら家に帰ったのだろう。

 

ほどなくYくんは仕事を見つけて他県に移っていった。

Sくんは自宅で受験勉強に励んでいると風の便りに聞いた。

ぼくはと言えば、いい加減留年を繰り返してもいられず、卒業しておいた方がいろいろ有利だろうという打算で、気が進まないまま大学に復帰した。

彼らと会うことも連絡を取りあうこともなくなった。

 

Sが焼身自殺を図ったと聞いたのは、それからしばらく経ってからだった。

Sはいつしかこころを病んで、精神科に通っていたという。

どこかで深く絶望して、自らに火をつけて自殺を図ったと、例の店のマスターから聞いた。

ときどきは店に来ていたけど、受験も将来もうまくいかず、将来が見えなくなっていた。

親からのプレッシャーもあり、苦しんでいたようだったと。

家は焼け、彼は助からなかった。

 

ぼくが彼の死を知ったときには、もう葬儀はすべて終わっていた。

マスターは彼の両親から連絡を受け、彼の葬儀に立ち会ったという。

その際に遺品をいくつかあずかってきたという。

 

これ、お前にやるよ。Sの形見だ。持って帰って弾いてやれ。

そう言ってマスターはぼくに、Sのギターをくれた。

オービル・バイ・ギブソンの、ダークチェリーレッドのSG。

出火元から近かったのだろう、ネックは一部が焦げて塗装に火ぶくれができていた。

ぼくはそれを近くの楽器店に持ち込み、修理を頼んだ。

これ、火の影響でネックの内部もダメージがありますよ。ネックごと交換した方が良いですよ。

いや、このままでいいんです。焦げもそのままにしてください。弾きにくいところだけ再塗装してくれればそれでいいんです。

 

冬が近づくたび、ぼくは彼のことを思い出す。

彼と彼の死と、いまも家にあるオービル・バイ・ギブソンのダークチェリーレッドのSG。

ぼくは彼のことが好きだった。

才能のある男だった。ぼくよりも年下なのに、ギター歴も浅いのに、味のあるブルースギターを弾くことができた。

言葉の端々に、ハッとするような鋭い批評と洞察が込められていた。

ブルースや古いフォークミュージックばかりのぼくの界隈で、彼は実験的なダンスミュージックにも精通していた。

直接は見たことはないけど、画が達者で美術の才能もあったと聞く。

生きていたらきっと、もっと彼の才能は花開いていただろう。

 

もしも叶うなら、もう一度あの夜に戻りたいと思う。

男3人が押し黙ってタバコをひたすら吸い続けた、あのクリスマスイブに。

ぼくはその時間が好きだった。楽しかった。

彼らと過ごす時間は、何も話さなくてもこころが落ち着いた。ささくれだった気持ちをひととき忘れることができた。

彼らも同じ気持ちだったのだろうか。分からないけれど、きっとそうだったと思いたい。

あのクリスマスの夜が永遠に続けばよかった。

 

30年以上の月日が経った。

Yはいまも独身だと聞いた。あのデニーズはリニューアルして、3人で座ったあの席はもうない。

ギターを修理した楽器店はとうにつぶれた。そこに楽器店があったことを知る人も、だんだん少なくなってきた。

ぼくはと言えば、こうしてデニーズに来るたび彼のことを思い出し、後悔をしている。何を後悔しているのか、自分でも分からない。

でも12月が来るたび、思いだし、後悔し続けるのだろう。

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2024年6月11日 (火)

She's lost control 彼女はコントロールを失った

Confusion in her eyes that says it all
She's lost control
And she's clinging to the nearest passerby
She's lost control

彼女の目の前の混乱がすべてを物語っている
彼女はコントロールを失った
彼女は近くの通行人にしがみついている
彼女はコントロールを失った
彼女はまたコントロールを失った
彼女はまたしてもコントロールを失ってしまった

Joy division She's lost control

ジョイ・ディビジョンのボーカリスト、イアン・カーティスは障害者雇用センターで働いていたとき、何度もてんかん発作を起こす女性利用者にインスパイアされてこの曲を書いた。やがて彼女はてんかん発作のために亡くなったという。
不穏なリフと無機質なビートが執拗に繰り返されるこの曲で、「彼女はコントロールを失った」というフレーズはどこか諦念をともなった呪文のように淡々と繰り返される。
言うまでもなくこの曲はジョイ・ディビジョンの代表曲で、他の楽曲と同じく死の影に包まれ、やがてバンドはイアン・カーティスの自殺で終焉を迎える。

私たちはいつもコントロールを失う。
ぼくもそうだ。
感情のコントロール、抑制のコントロール、日々それを求めては最終的に失敗する。
陰性感情やどうにもならない欲求を、誰もがコントロールしたいと願う。怒りや爆発や恨みを抱えたまま一生を過ごしたいと思う人など誰もいない。
でも結局は、過去にとらわれ、感情にとらわれ、コントロールを求めては失敗する。

てんかん発作に苦しんだあげくに亡くなった利用者を取り上げたこの曲は、悲しみや同情、その他どのような感情もすべて排している。
ただ「彼女はコントロールを失った」という呪文のようなフレーズを繰り返すだけだ。
そこにはコントロールを失ったイアン・カーティス、コントロールを失った私たちがいるだけだ。
亡くなった彼女が立っていた場所に、イアン・カーティスの感情を排したボーカルと無機質なビートは、ぼくたちを連れていく。

AAのプログラムでは、私たちはスピリチュアルに病んでいて、神だけが健康な心を取り戻してくれるという。
その考えを使ってぼくはここまで生き延びてきたけれど、その一方でこうも思う。
コントロールを失った、自分をコントロールできないというのは、なんとおそろしいことだろう。
私たちは肝心な時にかぎってコントロールを失い、怒りをぶつけるべきでない人に怒りをぶつけ、悲しませるべきでない人を悲しませてしまう。
コントロールを失った自分にうんざりして自己嫌悪にまみれ、でもまた月日が経てば同じことを繰り返す。
それでもそんな自分とともに、ぼくたちは生き延びていくしかない。
やっかいなんだけどね。

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2024年5月12日 (日)

初夏の日射しとコーヒー

長い長い冬がようやく終わり、気がつけば春も過ぎつつある。

初夏の日射しがまぶしい。

いま住んでいる北陸は、冬が厳しい。でもその分、春から夏に移る季節はとてもドラマチックで美しい。

家の中に差す日射しも、色模様を変えている。

初夏の光を浴びながら、お気に入りのコーヒー豆を挽いてハンドドリップで淹れる。

ちょっと前までは手挽きで豆を挽いていたんだけど、さすがに面倒になってきたので、近ごろはグラインダーを使っている。

それでも、ハンドドリップで淹れると豆が膨らんでドームを作り、あたりにコーヒーの香りがただよう。

お気に入りの音楽をかけるのも良いけど、こういうときは朝の静寂とコーヒーの匂いだけでじゅうぶん。

さて、やりかけの宿題をやらなくっちゃね。Dscf1907

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2024年2月 5日 (月)

ノスタルジックな写真、フジフイルム X-100V

富士フイルムのカメラが好きだ。

コンデジやミラーレスなどいろいろ試したけれど、今はもう富士フイルムのX-100V一本に落ち着いている。

X-Pro3も持っているんだけど、やっぱりボディにレンズを装着すると、いちばん小さいレンズにしてもかなりがさばる。

旅行や出張の時、さっとリュックサックや手持ちバッグに入れて持ち出せて、なおかつ写りがいいカメラとなると、X-100Vが今のところマイベスト。

何というか、ノスタルジックな写りがとてもいい。

写真は某新潟県内の田舎の蕎麦屋。

いろり席での一枚。

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こちらは天ぷら。ってそのまんまですね。

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小さいモニターだとただのボンヤリした写真なんだけど、少し拡大するとフィルムカメラの粒子感やきれいなボケ感が分かるかと思う。

なんてことない壁の突き当たりも、光が壁に散乱するグラデーションが何とも言えず、イイ。

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こちらはその辺の雪景色。

暗くてピントが甘い写真のように見えるかもしれないんだけど、これが良いんです。

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ちょっと暗い感じ、色があまりビビッドじゃない感じ、ピントがやや甘めで線が太い感じ。

どこか記憶の中の写真、ノスタルジーの中の写真のような雰囲気。

コンタックスT3に似ている。

 

コンタックスT3はお気に入りで、いまも2台持っているんだけどもうムリ。

何がムリって、フィルムも現像料も値段が爆上がりして、ちょっと日常使いはもうムリです。

カメラのキタムラのサイトで見たら、最安でフィルム1本が2,300円。探せばもっと安いところもあるんだろうけど、フィルムを2,3本撮って現像に出すだけで2万円弱くらいになりそうな勢いだ。

もうフィルムカメラはプロか好事家の領域に入ってしまったのだろうか。

昔話をしてもしょうがないんだけど、ちょっと前まで1本数百円だったものがここまで高騰するとは。

 

まあいずれまたコンタックスT3には活躍してもらう機会もあるだろう。

いまはX-100Vを相棒にして、あちこちで撮りまくるんだ。

いまは

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2024年1月27日 (土)

やっぱり床屋さんはニガテ

むかし、村上春樹のコラムで「歳を取ると床屋が好きなる」と書いてあった。

ちなみに村上春樹は床屋を取り上げたコラムを何本か書いている。どれもクスッとする、市民の日常を切り取った秀逸な作品である。

ぼくは子どものころから床屋が苦手だった。

じっと椅子にすわっているのも苦痛だし、耳もとでハサミがたてる金属音も苦手だし、お金はかかるし、いいことは何もない。

でも髪がサッパリする感覚はキライではなかったので、自分の中では「好ましい」と「好ましくない」が入り交じった、何とも言えない両価的な感覚だった。

ただそれでも歳を取るごとに床屋への苦手意識は減っていった。

たしかこのブログでも以前、その辺のことを書いたことがある。ような気がする。

苦手意識が減ったのにはいくつか理由がある。

ひとつは村上春樹的にオトナになったこと。しかしそれ以上に、なじみの床屋を見つけることで苦手意識が減ったこともある。

むかし郡山に暮らしていたころはとても良いなじみの床屋があって、ずっとそこに通っていた。

が、神奈川に暮らしを移し、アメリカに渡り、そしていまの日本海側の住まいに移るにつれ、郡山の床屋に定期的に行くことは困難、というかほぼ不可能になった。

で、いま住んでいる街の床屋さんである。

床屋というか、美容室ですね。

 

もうこの街に住んでまる6年近くなるし、そのお店にも4年ほど通っている。

でも、慣れないのである。いまだに落ち着かないのである。

うーん、何が悪いのだろう。

お店の人は腕も良いし、よけいなおしゃべりもしない。店もしんとしているわけでもなくにぎやかすぎるわけでもない。

好ましくない要素は、何ひとつない。

でもぼくは散髪椅子にすわってからシャンプー、仕上がりまで、ほとんど緊張して過ごしてるか、現実逃避的に寝ているかのどちらかである。

そうなるとやっぱりアレですね、結局のところ、ぼくは歳を取っても床屋になれることはできなかった、と言うことですね。

今も床屋から帰ってきて、グッタリして寝ているところである。

村上春樹的に床屋に適応できるオトナになることは、とうとうできなかったっつーことですね。

まあでも。

床屋に慣れるだけが人生ではない(当たり前だ)。

自分の限界が一つ分かっただけでも見っけもんってことですね。

やれやれ。

 

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2024年1月26日 (金)

ナゴヤ再訪 2024〜臥薪寮の消失〜

年月を経るとさまざまなことが変わっていく。

環境も変われば、自分も変わる。

自分が変わることのひとつに、過去の記憶が薄れていくことがある。

もちろん忘れられないこともたくさんある。

たとえばぼくが浪人時代、名古屋で過ごした一年間。

時計じかけの闇にひそんで何度も聞いた爆音のケイト・ブッシュ、ジョイ・ディビジョン、エリオット・マーフィー。

その一方で、細かいディテールはどんどん失われていく。

思い出そうとその場所を訪れようとしても、すでにその場所は失われてしまっている。

失われた時間と同様に。

 

久しぶりに名古屋を訪れた。

5日間の出張で、仕事先は東山線の終点からバスで30分ほどのところだった。

帰り際、東山線で名古屋駅に向かう道すがら、ふと思い立って上社駅で降りた。

1986年、昭和61年。

ぼくが浪人時代に住んでいた予備校の寮、河合塾臥薪寮はちょうど一社と上社の中間にある。

東山線が地下から地上に出ると、まっさきに左側にあらわれてくるのが臥薪寮だった。

 

上社駅で降り、スーツケースを引っぱって高架線沿いを歩く。

途中、陸橋で高速道路を横切る。Img_4476

高速道路、当時はあったのだろうか。憶えていない。

10分ほど歩くと、やがて見知った坂道の一帯にたどり着いた。

Img_4484

臥薪寮は、もうどこにも見あたらなかった。

寮のあった場所はマンションが建ち、敷地の一部は分割されたのだろうか、個人住宅になっていた。

ぼくは裏手の道路に面した部屋に入居してて、そこから道路をはさんで迎え側にはラブホテルが建っていた。

そのラブホテルもなくなっていて、代わりに瀟洒なマンションが建っていた。

Img_4489

有刺鉄線で入寮者の脱走を阻んでいた高い塀も、もちろんなくなっていた。Img_4488

寮の向かい側の公園には、近所のマンションの住人だろう、若い母親と子どもたちの声があふれていた。

すさんだ雰囲気の予備校の寮とラブホテルが並ぶ場末の空気は、どこにもなくなっていた。

 

ぼくはしばらく行ったり来たりして写真を撮り、少しでも当時の面影を思い出そうとした。けどまったく雰囲気の変わったその一帯から、当時の空気を思い出すのは困難だった。

うろうろしているとマンションの住人らしき母親にうさんくさそうな目で見られ始め、ぼくはいごこちが悪くなってその場を立ち去った。

当時と同じ空、昭和61年と同じ強烈な太陽。

でもそこには高層マンションが、はじめからそこにあったかのように立っているだけだった。Img_4499

巨大な西日が、冬だというのに真夏のような日射しを投げかけていた。

Img_4497

 

自分のブログの過去記事を引っ張り出してみる。

ナゴヤ再訪: カオルとぼくと仲間たち

ちょうど20年前。2004年の記事だ。

そのころにはまだ臥薪寮の建物は残っていた。

過去記事には、寮の面会室の公衆電話、疑いに満ちた目をした初老の寮長、狭い寮の部屋のことが書いてある。

でも、過去記事を読み返してもそういった風景はもうよみがえらない。

記憶をたどっても、そこはがらんとして何もない。

 

でも、当時の感情はまだ残っている。

孤独と空腹、自由と不安。

なけなしの小銭でロック喫茶「時計じかけ」にこもっていた日々。

高校の教師を見返すために机にかじりついて解いていた問題集。

蹉跌と涙。

日々は戻らないが、夢と感情はまだここにある。

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2023年12月21日 (木)

さよなら名古屋シネマテーク

名古屋シネマテークが閉館した。

http://cineaste.jp/

上記リンクはいずれ死んでしまうと思われるため、スクリーンショットを撮っておく。

 

Photo_20231221164901 

スクショの掲載が著作権のたぐいに触れるようであればコメントにて指摘していただきたい。

 

記事に寄れば、閉館は2023年(今年だ)の7月23日。

閉館の理由は、赤字の拡大。

徐々に赤字が増し、2020年3月時点で危険水域に。

政府や行政の支援があって何とか継続していたが、2022年に政府・行政の支援がなくなったのが契機となり、閉館に至ったとのこと。

最後の上映は、原一男監督作品集だったようだ。

「ゆきゆきて、神軍」など、世相をえぐるドキュメンタリーを撮り続けた監督だ。

シネマテークらしい最後だった。

 

ぼくが名古屋で浪人していた1986年(昭和61年)、今池には今池文化と呼べる何かがあったように思う。

シネマテークでは実験的な映画が来る日も来る日も上映されていた。

成瀬巳喜男も小津安二郎もゴダールもルイス・ブニュエルも「愛の嵐」も、みんなシネマテークで初めて観た。

近くにはウニタ書房があって、アンダーグラウンドな香りの書籍がたくさん並んでいた。

バタイユの本をドキドキしながら買ったのを憶えている。

ロック喫茶「時計じかけ」、ライブハウス「ハックフィン」。

今池地下のピンク映画館。

当時、あの界隈には革ジャンに鋲を打った金髪モヒカンのパンクスもふつうに歩いていたし、路地裏には職業のよく分からない人たちがたむろしていた。

田舎から出てきたの浪人生の思い込みかも知れないが、街全体に猥雑なエネルギーがあったように思う。

 

シネマテークがなくなってしまうのは、とてもさびしい。

名古屋を離れてもう数十年が経つけれど、出張で名古屋を訪れる際には時間を取ってシネマテークに行くようにしていた。

あのちいさな映画館がもうないのは、あのころの今池がもうなくなってしまったようで、とても寂しい。

 

今池の街を歩く。今池交差点のあたりの風景も、すっかり変わってしまった。路地裏を歩いても、時計じかけへの道順ですらもうよく憶えていない。

それでも自分の原点の一つが、自分の中のたいせつな何かの残滓がまだあそこに落ちているような気がする。

やり場のない思いを抱え、予備校の寮を抜け出して深夜徘徊していたあのころの残滓が。

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2023年12月17日 (日)

冬か真冬か〜バーンアウトまであと何マイル

どうも天気がはっきりしない。
12月中旬だというのに、きのうは20度まで気温が上がり、まるで9月のような爽やかな一日だった。
かと思うときょうは一転して雪模様。
ううむ、地球温暖化。

Dscf2944 ぼくははあいかわらずボチボチやっています。
仕事はガチで余裕なし。出勤7時、退勤20時。休日は月に3日あればよし。
それでも仕事が終わらない。
いちおう管理職っぽいポジションなので残業代なし。
やってもやっても仕事が終わらない。
もうちょっと余裕がなくなるとバーンアウトするんじゃないかっていうボーダーラインが、視界に入ってきています。

きょうは久しぶりの休日。
仕事を断ったりあちこち調整して、何とかこの土日は休みを確保することができた。
休みは空から降りてくるものではなく、自分で勝ち取るもの。
ほかのだれかに仕事を振ってイヤな顔をされたり、よそからの仕事を断ったりもしているけれど、自分が潰れるよりはマシ。
そう割り切ってはいるけれど、でもやっぱり頼まれたことを断るのって勇気が要りますね。

自分を活かして他人を活かせ。
AAで良く聞くフレーズだけど、実践するのはほんとうにたいへんです。

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2023年12月 5日 (火)

祝!ココログ20周年!

2023年12月3日でココログが20周年を迎えたそうです。

 

おかげさまで「ココログ」は20周年を迎えました- お知らせココログ-@nifty

 

パチパチパチパチ!

このブログが始まったのが、2004年5月23日。

ニフティがココログのサービスを始めて半年弱経ってから立ち上げたことになりますね。

やー、当ブログももうすぐ20年。いろいろありました。

住むところも変われば業務も変わったし、ほんといろいろ。歳もしっかり取りました。ブログの更新頻度もめっきり減りました。

でも、変わるものもあれば変わらないものもある。

あいかわらずAAと12ステップはぼくの心の柱だし、ロックもジョグもギターも、下手なりに続けている。

何よりも、なんとか生き延びているだけでもありがたいことです。

これからも皆さま、よろしくお願いいたします。
Dscf7198

写真は長野県某所の日の出です。


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