2022年1月23日 (日)

突然の中島らもブーム「永久も半ばを過ぎて」

唐突に中島らもブームが来ました。
ときどきふと嵐のように訪れるマイブーム。マイブームって死語か。まあいいや。みうらじゅん。
マイブームが襲ってくる時はいつも決まって何の前触れもなく、従って予想はまったくできない。今回、なぜ中島らもブームが来たのかも分からない。
ただある日いきなり頭の中に「永久も半ばを過ぎて」という単語が浮かんできた。なんだっけ、これ。記憶の底をひっくり返してみて、すぐに中島らもの懐かしい小説の題名だと思い出した。

話は半分くらい憶えている。
写植職人の家に詐欺師の友だちが転がり込んできて、なにかの本のコンペで度胸の据わったプレゼンをする。プレゼンのシーンの印象が強くて、その後のストーリーやオチはさっぱり憶えていない。

さっそくメルカリで中島らもの単行本セットを落札。
人体模型の夜もメリーさんの羊もガダラの豚も、急に読み返したくなった。こういうとき、メルカリは楽で良いよね。ヤフオク!だと落札まで何日もかかるから、急に欲しいときには不便なんだよね。

というわけで中島らもざんまいの日々である。
いま読み返すとストーリー展開に唐突さがあったりもするけど、場面の鮮烈さ、アイディアの奇想天外さは舌を巻くばかり。才能とはこういうことか。
途中「タブレット」という単語が出てきて「ん?」と思ったけど、単に薬の錠剤のことでした。そうだよね、中島らもの存命中はiPadなんてなかったものね。
文学とロックと酒と薬におぼれて夭逝した中島らも。ジムモリソンや破滅型のロックンローラーにあこがれて、破滅型の天才をめざして、それを突き進んだ人。
亡くなったのが2004年7月26日だから、もう18年も経つんだね。
もしいまだに生きていたらどんな作品を書いて、どんな音楽をやっているんだろう。YouTubeとかやっていたかな。あるいはiPhoneもYouTubeもサブスク音楽も「ケッ」と言って、ライブハウスででかい音でギターを鳴らしていたかな。

色んなことを考えながら、往年の作品を読み返しています。
1994年刊行の「永久も半ばを過ぎて」、名作だよこれ。 Img_9544

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2021年12月 4日 (土)

絶望のどん底でも希望を忘れない人々 ザ・ロード/コーマック・マッカーシー

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先日読んだ本の感想。絶望の中で希望を見つけ出す話は、古今東西山ほどある。また世界が崩壊した後の世界の話も、これまた山ほどある。
最近Netflixをつけると、ゾンビものの多さに圧倒される。世の中、こんなにゾンビが流行っているのだろうか?ゾンビを見たい人々が大勢いるのだろうか?
多くのゾンビものの映画では、主人公は仲間とともに(あるいは単独で)ゾンビと闘い、崩壊した世界の中で生き抜こうとする。そしてどこかの目的地にたどり着こうとする。そしてゾンビだけでなく、暴徒や暴徒化した軍隊や自警団と戦う。
そう言う意味では、このマッカーシーの小説「ザ・ロード」も、ゾンビものの一類型と言えるだろう。
ちがうのは、ゾンビが出てこないこと。
ただただ、主人公たちが戦うのは崩壊した世界そのものと、モラルを失って獣と化した人々だ。
でも多くの場面は、主人公とその息子が日々の糧を求めてさまよい、絶望の中をさまよう姿だ。

世界が崩壊した理由は、作中では何も語られていない。おそらくは何かの天変地異か世界戦争だと推測されるが、そのことは何も触れられていない。主人公とその息子に名前はなく、登場人物で固有名詞が出てくるのは一人のみ。そもそも登場人物自体が、主人公とその息子をのぞけばほぼ影のような存在である。

崩壊して植物も動物も死に絶えた灰色の世界、おそらくはアメリカ西部のどこかを、主人公とその息子は海を目指してひたすら徒歩で旅をする。わずかな食料と装備をショッピングセンターのカートに入れて、とぼとぼ歩く。たびたび食糧は尽き、主人公たちは餓死の予感におびえながら廃墟と化した家々を探り、焼死体の群れなす道路を歩く。

この小説は、ただただ美しい。
時に凄惨な光景も登場するが、ほとんどは静寂に満ちている。静寂に満ちた灰色の世界を、主人公とその息子が通過していく。
一枚の絵のような世界。死に絶えたモノクロームの世界。
それを、散文詩のような文章が淡々と表現していく。

やがて旅は終わる。
あっけないほどの結末だ。最初の数ページを読んだときに、すぐに直感できた結末。でも、この本が表現したいことはストーリーテリングではないのだろう。
ディストピアの世界の静寂。そして、その中で希望を忘れずに歩き続けること。
大げさに主張するのではなく、淡々と、自分に課せられた当為としての希望。旅。
すごく良い小説でした。

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2009年9月26日 (土)

地獄変・偸盗、読了

新潮文庫「地獄変・偸盗」を読了。芥川龍之介。
地獄変の壮絶さに圧倒される。
「王朝もの」と呼ばれる、宇治拾遺物語や今昔物語に原典を得た一連の平安ものらしい。
いやー。
芥川さん。恐ろしい人だ。
良くこんなスゴイ話が書けるモンだ。ストーリーもスゴイが描写というか、筆致もすごい。
壮絶さと絢爛さと美と醜が混然と入り交じった、言いようのない迫力。
芥川は中学・高校時代に教科書や読書感想文の題材で読んだだけだった。こんな魅力ある作家だとは知らなかった。
本文と巻末の脚注を行ったり来たりするのがわずらわしいけど、その手間をさっ引いても読み応え十分。

巻末の「六の宮の姫君」もはかない魅力があってイイ感じ。
箱入りの姫君が、帰らぬ夫を待ちわびながら凋落していく。
悲劇なんだけど、どんどん凋落し、滅んでいく描写がまた美しい。
「偸盗」の沙金の狂気じみた悪女っぷりとは正反対の、受け身な女性。
個人的には、あまりにも受け身で、ちょっと自己憐憫すぎるんじゃないのと思う。
でもなー。
なんか、飲んでいたころの自分と妙にオーバーラップするんだよな。失恋の痛手から何年も立ち直れなかったもんなー。

あと「縁なき衆生は度し難し」というフレーズがハマりました。
忠告を聞き入れないものは救うことが出来ない。
人の忠告を受け入れるには、心を開いていないといけない。
我にこだわっていては、新しい考えは入ってこない。
ステップに通じるものがありますね。

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2009年1月13日 (火)

洋書THE END OF MY ADDICTION

以前ビル・Wの伝記を購入して以来、アディクション関連の書籍案内が時々アマゾンから舞い込んでくる。
今回、こんな案内が届いた。
Amazon.co.jpで、以前に「Alcoholics Anonymous World Serviceの『12 Steps and 12 Traditions』」をチェックされた方に、Olivier, M.d. Ameisenの『The End of My Addiction』のご案内をお送りしています。『The End of My Addiction』、現在好評発売中です。
¥ 2,820で注文するには、以下のリンクをクリック
The End of My Addiction
Olivier, M.d. Ameisen
価格: ¥ 2,820
The End of My Addictionの詳細については、Amazon.co.jpの次のページを参照してください:
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0374140979/ref=pe_snp_979

アル中の循環器科医の回復の物語らしい。おもしろそうだったんで買ってみた。
・・・が。
AAも各種セラピーも効果がなかったこのアル中さん、なんとクスリで治ったという。
ええ〜?!(シャレ)
以下、扉の文章。訳は適当。
コントロール不能のアディクションとの戦いの末、私は不可能を可能にした。飲酒欲求から完全に解放されたのだ。

Dr.オリビエール・アメイセンは米国最高の病院に勤務する、優秀で成功した循環器科医だった。しかし彼は激しいアルコール依存症に見舞われた。記憶をなくした状態での墜落で骨折し、あやうく腎臓をなくすところだった。激しい禁断症状の発作に襲われ、ほとんど命を失いかけた。その恐ろしさから彼は仕事をあきらめ、アルコホリクス・アノニマスやリハブやらさまざまな治療法に没頭した。しかしすべて失敗に終わった。
とうとう彼にしかできないことをやることにした。自分の手で自分に治療を行うのだ。この恐ろしい病気の治療法を探した結果、彼はバクロフェンという薬物にたどり着いた。さまざまな筋けいれんに対して有効な、安全性の確立された筋弛緩剤である。最近の研究では、動物実験の段階ではさまざまな依存症に効果があるという。Dr.アメイセンは自分で処方を行い、量を調節し、ついにアルコールへの渇望を克服することに成功した。5年以上昔のことである。
アルコール依存症のため、米国では毎日300人が亡くなっている。米国の死亡者の4人に1人はアルコール、タバコ、イリーガル・ドラッグに関連しているという。医師の治療の本で処方されるバクロフェンはたくさんの依存症者を、その悲劇的で進行性の病から解放する可能性を秘めている。
しかし長きにわたり医学・研究雑誌はこのことを無視してきた。そのためわたしたちはバクロフェンの本当の依存症への効果を知ることができない。本書は彼の戦いの物語であると同時に、アディクションに苦しむ幾万の人々への緊急の誓願?である。

だって。
うーん。まぁ、名前を公開しての出版物という時点でAAメンバーではないだろうな、と思っていたんだが。そうですか。自分でアル中を治療しちゃった循環器科医ですか。
しかしなぜAAその他の、スタンダードなアルコール治療プログラムが効かなかったんだろう。そりゃAAプログラムは万能じゃないけど、リハブその他の(よく知らないけど)治療と組み合わせればいい線行くと思うんだけどなー。
まずは目を通してみますか。
しかし最近、本を一冊読み通す気力が・・・しかも英語・・・。

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2008年6月 1日 (日)

カート・ヴォネガット、阿鼻叫喚の街

カート・ヴォネガットが好きだ。
ナンセンスな、およそSF的プロットとは百万光年も無縁なSF小説の数々。
通俗SFの形を借りながら、したたかなウィットを備えたクールな文体。
その下に見える、人間に対するあたたかいまなざし。
ときにはあまりにウィットが利き過ぎていて理解しづらい小説もあるが、それも含めて大好きな小説家だ。
以前作ったバンドには「キルゴア・トラウト」と命名した。氏の小説に出てくる架空の小説家の名だ。そのくらいヴォネガットが好きだ。
氏が亡くなってから、1年が経とうとしている。早いものだ。

今月のPLAYBOY誌(2008年7月号、No.402)に、カート・ヴォネガットの未発表作品が掲載されている。タイトルは「阿鼻叫喚の街」。ヴォネガット氏が体験した、第二次世界大戦中のドレスデンでの大爆撃のドキュメントだ。
ヴォネガット氏は第二次世界大戦に参加。バルジ作戦に参加するが捕虜となり、爆撃当時、捕虜としてドレスデンに滞在していた。米兵でありながらドレスデンの爆撃地点にいて、なおかつ生き延びたという希有な体験の持ち主である。
この体験は氏の出世作「スローターハウス5」で書かれているが、このドキュメントではフィクションの体裁を採らず、よりコンパクトに、よりリアルにドレスデンの爆撃体験を描写している。

ドレスデンの大爆撃は、多くの戦争がそうであるように、欺瞞に満ちた残虐行為だった。
ドレスデンは非武装都市であり、爆撃当時、負傷兵や女性、子ども、捕虜などの非戦闘員ばかりだった。また解説によれば、かつてザクセン王国の首都だったドレスデンは、バロック様式の教会や宮殿が立ち並ぶ商業都市として栄えていた。
非戦闘的で、伝統ある、美しい歴史的建築が立ち並ぶ街。
米英軍がドレスデンを爆撃しなければならない理由は、何ひとつなかった。
米英軍があとで爆撃の理由付けにした鉄道施設は、爆撃地点から5キロも離れていた。

ドレスデンの大爆撃は大戦中未曾有の大爆撃で、市街地の大半が焼け落ち、何万人もの人が亡くなった。その多くが女性、子ども、非戦闘員だった。
スローターハウス5でもヴォネガットは戦争の欺瞞と残酷さを、独特の筆致で描写している。
が、このドキュメントはより簡潔に、直截に彼の心情が書かれている。

正義は連合軍にあり、ドイツ軍と日本軍はその敵だったのかもしれない。第二次世界大戦は、「ほぼ聖戦」の名の下に戦われた。しかしわたしは確信を持って次のように言える。正義を標榜しながら、非戦闘員の命を奪う無差別爆撃は神を冒涜するものだ。どちらが先にやったと言うことは、倫理的問題と何の関係もない。

その通りだ。
これを読んでいると、アメリカのやっていることは60年以上経っても変わらないんだな、と思う。イヤ、アメリカが変わらないんじゃない。これが戦争の本質なんだろう。戦争の持つ、普遍的な側面なんだろう。
正義を謳いながら、非戦闘員を虐殺。
大義の名の下に、残虐行為を正当化。
イラクの現状となんら変わらないじゃないか。

報復、破壊と殺人の肯定、これらのせいで、われわれはおぞましい野獣の国として有名になってしまった。

舌鋒の鋭さに驚く。ヴォネガットの悲しみと怒りが伝わってくる。
この遺稿、時を超えて現在のアメリカ評としてもとても優秀だ。現役の書き手でも、ここまで痛烈に現代アメリカを批評できる作家はいないだろう。
そしてこの文章は、ふだん世界情勢に無関心なぼく自身の胸にも突き刺さってくる。

追悼、カート・ヴォネガット。そして戦争反対。

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2007年10月 4日 (木)

心が雨漏りする日には

中島らも「心が雨漏りする日には」読了。
奥さんの書いた「らも-中島らもとの三十五年」と併読していて、こちらを先に読み終わった。
中島らもが自分自身のそううつ病、アルコール依存症についてまとめたエッセイである。
病気のことはエッセイなどの中で散発的に書いてあったし、「水に似た感情」や「今夜、すべてのバーで」は相当体験が入っているんだろうな、とは思っていた。でも、病気の体験を経時的につづった文章は初めて読んだ。

壮絶だ。

彼は言う。「心が病気になったら病院に行って治せばいい」と。
病気なんかで自分の精神は左右されない。うつ病やアルコール依存症なんかに、オレの魂には立ち入らせない。
そういう決意、誇り高さが文章の合間からにじみ出てくる。
しかし反面、彼自身どんどんぼろぼろになっていく。仕事で上京したはずなのに、目的も目的地も見失って迷子になり、まるでまるで見当違いの場所で保護される。
文章はおもしろく、ひょうひょうとその経緯を語っている。しかしじっさいは彼にとっても周囲にとっても、相当キツイ体験だったろう。

主治医との葛藤も克明に描かれている。
いちどは対談集に掲載したくらい信頼していた主治医。次第にそれが不信に変わり、やがて主治医自身が妄想に支配されて転勤していく。そして主治医を信じて飲んでいた薬が、強烈な抗精神病薬のカクテルだったことを知る。
以前からエッセイなどに登場するこの主治医は、初めから奇妙だった。
直木賞の発表の最には、中島らものそばにくっついている。患者である中島らもとの対談が雑誌に載る。たとえそれらの行為が中島らも側からの提案だったとしても、医師としてあまりにも患者との距離感がなさすぎる。
また、アルコール依存症だということは明々白々だったにも関わらず、適切なアルコール医療を行っていない。自助グループも紹介されなかったようだし、アルコール依存症の経過や予後、合併症と言ったごくごく基本的な知識さえも主治医からは説明がなかったようだ。

生きていて欲しかったと思う。
十代後半からの愛読者として、彼の素敵なエッセイや文章からある種の生き方を学んだものとして、生き続けて欲しかった。
アルコールなんかで死んで欲しくなかった。
中島らもがAAに来ていたらどうだったろう。
AAで使われる「神」や「謙遜」という言葉を拒絶し、俺の生き方は俺が決めると拒否しただろうか。
それとも依存症の死の淵から帰還した、タフで凄味のある仲間たちの言葉の中に何かを見いだしただろうか。
でも彼は死んでしまった。
依存症関連の雑誌「ビィ」には稀有な才能の「よくある死」と書かれた。
そうだ。そうだね。
良く言われるように、アル中の平均寿命は52歳。よくある死因は肝臓などの内臓疾患や転落・吐物による窒息などの事故。
中島らもの死は、アル中の死に方としてはごくごく平凡な、その他大勢とまったく変わらない、ありきたりの死に方だった。
でも彼の才能は、間違いなく非凡だった。彼は思春期の若者と、思春期の尻尾をどこか切り忘れた者たちの味方だった。貧乏で金がなくてそれなのに働いて金を稼ぐことにどこか違和感をぬぐい切れなくて自分に自信がなくて大人社会へ迎合するのがイヤで大人になるのがイヤで自分を取り巻く世界とうまくなじめなくてなじめない自分が嫌いでロックや文学や演劇やアートやすべての反体制的なものにあこがれを感じていて美しいものが大好きで美しくないと思える社会や物事に妥協することがどうしてもできなくていつか世界が破滅する日を夢見ていつまでも終わらない退屈な日常に幻滅し続けて詩や物語に没入している時や美しい旋律やロックの大音量の中に身を浸している時に血の出るようなリアルさと高揚を感じる人々、要するにぼくやあなたの味方だった。
中島らもはわれわれに、ありったけの共感と支持を送り続けてきた。代弁者であると同時に親しい先輩だった。中島らもの文章を読むといつも、いつも身近にいて語りかけてくれるような気がする。彼の言葉、彼の思いをとても身近に、親密に感じる。
アルコールなんか蹴飛ばして、生き続けて欲しかった。80になっても90になっても、痛快なメッセージを送り続けて欲しかった。

今夜はもう一遍、彼のエッセイを読んでから寝ることにしよう。

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2007年1月 8日 (月)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ

ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ

滝本竜彦のネガティブハッピー・チェーンソーエッジ読了。
滝本竜彦。「NHKにようこそ」の原作者である。
彼の第一作だと聞き、ネガティブハッピー・チェーンソーエッジを読んでみる気になった。
分類で言えば、ティーン向けライトノベルと言うことになるのだろうか。
謎のチェーンソー男と、闘う美少女。その女の子に恋する少年。
チェーンソー男とは何ものなのか。なぜ少女は異様な力を持っているのか。最後まで説明はない。
でもそれでいいと思う。説明する必要がないからだ。
これは、青春小説である。若者が書いた、若者の気持ちを表現する小説である。
好きな女の子といっしょにいられるだけでドキドキして、力が湧いてきて、どこまでも自転車を全力で漕いでいけそうな気になる、そういう気持ちにあふれている。
世界は哀しいことやどうにもならないことや理不尽なことに満ちていて、大人じゃないと言うだけの理由で世界から疎外されていて、でも筋道立てて抗弁することもできなくて、取りあえず親や教師を仮想敵にするしかない。自分がやっていることが筋道だってないことはじゅうぶん分かっているけれど、でもほかにぶつけようがない。そういう気持ちにあふれている。
「NHKにようこそ」と同様、ここでも理不尽な世界と闘う若者の姿が描かれている。もちろんチェーンソー男を倒してもNHKが巨大な陰謀組織だとしても世界は変わらない。
そんなことは分かっている。それでも仮想敵を作り出すことで、押しつぶされそうな不安や世界にたいする恐怖を対象化しようとする、主人公たち。
「NHKにようこそ」と共通する主題を通して、作者の不安や閉塞感が伝わってくる。

作者の滝本竜彦氏は大学を中退後、数年間アパートに引きこもってこの小説を書いた。小説を書くために引きこもったと言うよりも、引きこもり生活の中で「小説を仕上げなければ自分はダメ人間になってしまう」という思いで書いたようである。
しかしそんなことはどうでもいい。
これは、すてきな小説である。
少年と少女の恋の物語である。未来を模索して不安に悩む、普遍的な青春小説である。
エネルギーを暴発させて、むやみに間違った方向に突っ走る若者像がある。
悩み、笑い、傷つき、叫び、痛みにさらされながら成長する主人公に共感せずにはいられない。
破天荒だけれども説得力のあるポップな文体は、大槻ケンジを思わせる。
ぼくの十代二十代は鬱々としていてカッコ悪くて不安で不安で、それなのになにも実現できなくて、ほんとうにヤな時代だった。だからこそこの本と著者に、とても共感する。
滝本竜彦氏は現在も引きこもりながら著作中だそうだ。
平日の真っ昼間のアパート、カーテンのスキマから良く晴れた外界を見、あまりの平穏と世間の平和に慄然としていた日々。
外を歩く親子連れのしあわせそうな様子がこわくてこわくて、自分のダメ人間ぶりが恥ずかしくて恥ずかしくて、ウォッカを浴びるようにラッパ飲みしては「だいじょうぶ、オレはだいじょうぶ」と震えながら言い聞かせていた日々。
ぼくは何も表現することができなかったが、滝本氏は小説を書き続けている。
彼の小説が多くの人に読まれることを願ってやまない。

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2006年10月 3日 (火)

スティーブン・キング「骨の袋」読了

スティーブン・キングの「骨の袋」、読了。
なかなか読む時間が取れなかったが、ふと手に取ったら止められなくなってしまった。
それこそ寝る間も惜しんで、下巻を一気に読み進んだ。
正直、下巻の最初の方まではやや退屈な印象だ。
伏線に次ぐ伏線、不気味な予兆、アメリカの田舎町の人物描写や出版業界の裏側、主人公の人となりの丹念な描写など、味わい深いポイントはたくさんある。が、物語の進展が今一つだった。
それが、下巻の三分の一あたりから一気に物語が走り出す。
予兆が現実となり、時間を超えた恨みや哀しみが交錯し、壮絶なクライマックスに突き進んで行く。
過去と現在の描写が入り交じり、ストーリー的にも融合する。「IT」を思わせる仕掛けがおもしろい。
そして何よりも、クラシックな「幽霊譚」の体裁を成しているのがいい。

この小説の主題の一つは「報復の連鎖」だ。
誰かが誰かを痛めつける。傷つける。命を奪う。理由は、あとで考えればたいしたことじゃない。
面目をつぶされたとか根拠の薄弱な軽蔑とか、あるいは無理解、偏見。
それが大きな渦になって誰かを傷つける。
傷つけられた方は、相手を呪う。一族郎党まで根絶やしにすることを誓う。
そしてまったく関係のないひとたちにまで報復の連鎖は広がり、また新たな不幸を生み出す。

この小説が書かれたのはもちろん911以前だ。でも、やはり911的な解釈を考えてしまう。
いまキングは、911後のこの世界をどうとらえているのだろう?
恨みと報復が止めどなく広がり、ふたつの文化圏の衝突に発展してしまったこの世界を?
「テロとの戦い」という、それ自体矛盾した言葉がさも当然の正義のように人の口に上るこの世界を?
少なくともこの小説を読む限り、彼の世界観は「悪者をたたきつぶせば世界は平和になる」などという単純なものではないだろう。
そうであってほしい。

それはともかく、ラスト数十ページは、まさに読書の至福。
久しぶりに、おなかいっぱい小説を読んだ。
次は「ローズ・マター」か「アトランティスのこころ」あたり読んでみようっと。

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2006年9月 3日 (日)

スティーブン・キング「骨の袋」

この土日は仕事。職場に泊まり込んでいる。
時間が取れるときに少しずつ、スティーブン・キングの「骨の袋」を読んでいる。
だいぶ前に購入したが、下巻の最初まで読んで途中のままだった。
スティーブン・キングは昔から大好きだった。「スタンド・バイ・ミー」も、映画になるずっと前から何度も読み返していた。毒の効いた短編も好きだし、読みごたえのある長編も好きだ。
学生時代には、そのキングの小説を途中で投げ出すなんて考えられなかったんだが。
一時期はすべての作品を読み尽くして、再読をくり返しては新作を待ちわびたもの。いまは書店に行くと、キングの未読の小説がたくさん並んでいる。
ガンスリンガーシリーズもずいぶん発表されたし(完結したのだろうか?)、翻訳不能と言われていた「ザ・スタンド」も文庫本になっている。
時は流れた。。。

骨の袋は、実にキングらしい小道具に満ちている。
いつもの舞台、架空の町キャッスルロック。そう言えば以前、キャッスルロックを舞台にした作品を書くのはやめるとか言っていたがどうなったんだろう?たしかトミー・ノッカーズだったような。
魔物の住む家、過去の亡霊、ロックやブルースへのオマージュ、などなど。
いつもながら、人間の描写がみずみずしい。
アメリカの片田舎に住む人びとの暮らし、ものの考え方がリアルに描写されている。
巧みな語り口で、ページをめくるのがもどかしい。
秋の気配も漂ってきたし、ほかのキング作品も久しぶりに読んでみようかな。

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2006年9月 2日 (土)

まんが パレスチナ問題

1995年11月4日の夜、イスラエルの和平推進派はテルアビブで集会を開いていた。ラビンやペレスも参加してて、「平和の歌」を歌い終わったときだった。
和平反対のユダヤ人の男が、ピストルでラビンを撃ったんだ・・・・・・弾はラビンの心臓と、「平和の歌」の歌詞カードを貫いた


近ごろ中東問題に興味が湧いてきた。
何冊か本を購入したが、いちばん分かりやすかったのがこの本。

「まんが パレスチナ問題」


Palestina

マンガと銘打っているが、イラスト付きの中東解説本と言う方が正しい。
なじみの薄い人名や名詞がたくさん出てくる中東問題。文字情報だけだとだんだんワケが分からなくなってくる。やはりビジュアルな方が分かりやすい。
それだけじゃなく、この本にはほかの本にはない、こころにずしりと響いてくる言葉がたくさん出てくる。

問題はテロなんだ。暴力なんだ。
ユダヤ人は2000年もの間、民族差別を受けて、異端裁判だ、国外追放だ、ポグロムだって迫害を受け、殺され続けてきた。その暴力に対して、ユダヤ人は暴力で反撃しなかった。みんな、神がユダヤ人に与えた試練だと思って耐えてきたんだ。そのあげくがホロコーストだ。ヒトラーはユダヤ人を絶滅しようと600万人も殺した。それでもユダヤ人は抵抗しなかった・・・(中略)・・・世界も助けてはくれなかった。ユダヤ人を見殺しにしたんだ。だから、イスラエルを建国したとき、ユダヤ人は誓ったんだ。「これからは暴力に対しては暴力で反撃しよう」って。

暴力が暴力を生み、憎しみが新たな憎しみを生む。恨みと憎しみと怒りの連鎖をどこかで断ち切らなければならない。
報復ではなくゆるしを。無関心ではなく共感を。理解を。
この数千年にもおよぶ血なまぐさい争いを、そういうあたたかいもので変えて行こう。
この本に込められたメッセージに、ぼくは共感する。
ラスト10ページ。感動しました。

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