2017年6月27日 (火)

もう一つの自助グループ、スマート・リカバリー

アメリカはAA発祥の国であり、世界最大のメンバー数を誇る。なにせ、アメリカ1国だけで110万人以上、他国の合計を上回っている。
http://www.aa.org/assets/en_US/smf-53_en.pdf
ニューヨークにはゼネラルサービスオフィスもあるし、活動規模も世界最大だろう。
が、近年はAA以外のアディクション自助グループも台頭してきているようだ。
その一つ、スマート・リカバリー (SMART Recovery)のミーティングに参加してきた。

Self Help Addiction Recovery | SMART Recovery®

スマート・リカバリーとは何か?
一言で言えば、認知行動療法をベースにした、特定のアディクションに特化していない自助グループである。
基本的にはテキストやオンラインツールを使って、飲酒欲求や感情に対するセルフマネジメントの方法を学ぶ。ミーティングは、それを強化するために行われる。
核となるのは4点プログラム。
1.依存行動を止めるためのモチベーションを維持する。
2.衝動への対処法を学ぶ。
3.思考や感覚、行動を管理し、問題解決技能を学ぶ。
4.バランスの取れたライフスタイルを維持する。
この4点を、科学的な知識に基づいて学んでいく。宗教ないしスピリチュアリティといった概念は使わない。参加者はもちろんそう言ったものをたいせつにしてもいいけど、プログラム上は必要ない。
SMART(スマート・リカバリー・プログラムの総称)は自己エンパワメントを強調する。

参加希望者はオンライン(スマート・リカバリーHPかAmazon)でテキストを買い、webでサインアップしてオンライントレーニングを受け、同時に全国各地のミーティングに参加して先輩の話を聞き、自分の話をする。
テキストは10ドル弱で、同じくらいの値段のトレーニングDVDもある。

AAとの類似点
・断酒を目標としている。節酒(ハーム・リダクション)は目標としていない。
・ミーティングは体験談ベースで行われる。参加は自由。
AAとの相違点
・ハイヤーパワー概念を用いない。
・認知行動療法に基づいたテキストブックを使う。
・どんな依存でもOK。自分で止めたいと思う気持ちがあれば参加資格あり。
・献金はなし(どうやって運営しているんだろう?)
特徴
・AAやNAその他、ほかの自助グループメンバーであっても構わない。
・ファシリテーターはAAの司会よりも強く介入する(話に分かりにくいところがあったら説明を求める、個人の話のあとに少しやり取りがあるなど)。
・ファシリテーターは依存症者本人だけど、ファシリテーターになるための、何らかのトレーニングを受けている印象。
・プログラムを学習し終わってミーティングに留まり続けるかどうか、要するに卒業するかどうかは本人次第。
・全米にミーティング会場があり、規模は相当大きい印象。AAを受け入れられない人のオルタナティブ(もう一つの選択肢)としては最大手。

ぼくが参加したのは、自宅から近い某クリニックの談話スペースでのミーティングだ。
参加者にはクリニックの受付の人が駐車券を発行するなど、クリニックとの連携があるようだった。
その日のミーティングは夜7時から。
約20畳ほどの会場に椅子が並べられ、15人ほどのメンバーが集まってくる。
やや遅れて会場に着いたファシリテーターをつかまえ、見学をお願いする。本日のメンバー全員が同意すれば見学してもいいよ、と言われる。
メンバーからはもちろん同意が得られ、末席に座る。ミーティングは90分。
ファシリテーターが簡単なあいさつをして、車座に座ったメンバーを順番に指名していく。
メンバーの話は、AAとさほど変わらない。近況。最近感情的になったこと。家族との摩擦。楽しかったこと。酒やクスリを止めて良かったと思えること。などなど。
話の内容がよく分からなかったり脱線しそうになると、ファシリテーターが話を泊めて簡単な質問を投げかけたりする。また、一人ずつ話の終わりにはファシリテーターのコメントがある。
参加者の依存行動はいろいろだ。いちばん多いのはアルコールだが、薬物も多い。中にはまだ止める決心がついていない、と言う人もいる。少しトロンとした目でやや呂律の回らない人もいた。まだ薬の影響下にあるのだろうか。それでもファシリテーターは退席を求めたりはしないし、ムリに断酒断薬を勧めたりもしない。
予定時間も半ばを過ぎたところで、ある若者に順番が回った。
彼が言うには、自分はまだ高校生だという。だが、クスリによって学業や家族関係にヒビが入ってきた。何とかしないといけないとは思うが、まあ何とかなるだろう、と言うような話だった。
今ひとつまとまりがない。話の落としどころがよく分からない。
すかさずファシリテーターが質問する。何とかする、とは?
まあ、クスリの使いすぎってわけでもないし、ちょっと失敗しただけだと思う。
と言うことは、クスリを止めるつもりは?
ない。上手に付き合えば、これからもクスリを楽しめる。

他の参加者が数名、さっと手を挙げる。場の空気が熱くなってくる。議論だろうか。説教だろうか。
だが、他の参加者が話しはじめたのは、どれもみな自身の体験談だった。

―自分でクスリをコントロールできると思ってても、それは自分が認めなかっただけで、結局はコントロールなんてできなかった。傷が浅いうちになんとかできていれば良かったと、いまだに後悔している。
―この年寄りの話を、悪い見本として使ってくれ。自分はクスリと酒で仕事も家族も失うまで、ぜったいに自分の問題を認められなかった。スマート・リカバリーは良いプログラムだ。すぐに止めるかどうか決めなくてもいいから、また来週来てくれ。

話が説教じみてきたり押しつけがましくなってくると、ファシリテーターが上手にブレーキをかける。
意見を述べたのは二人、それも手短にまとめてもらい、その高校生の順番をさっと終える。この辺、絶妙のタイミングである。多少のフィードバックは必要でも、大人の説教なんて聞かされたらきっと二度とミーティングには来なくなるだろうから。

その高校生は、身なりも話し方も中流以上の家庭の雰囲気だった。腕にはApple Watchが光っている。すぐにクスリを止めるつもりはないにせよ、よくミーティングに来たものだと思う。たいしたものだ。

時間が来ると、ミーティングは「はい、じゃ時間なので」という感じであっさり終わった。
メンバー離れた様子で椅子を片付け、帰って行く。この辺はほかの自助グループと何も変わらない。

終了後、ファシリテーターの方と少し話をした。
彼はもともとアルコールの問題があった。最初はAAに参加していたのだが、家族が厳格なカソリックだったという。AAプログラムはどうしても家族に対するネガティブなイメージがつきまとい、うまく入り込めなかった。なのでスマート・リカバリーを選んだ。いまはもう何年も酒をやめ、こうしてスマート・リカバリーのファシリテーターも行っている。
年齢は50代半ばだろうか。穏やかな口調で話す彼は、なかなかの好人物だった。

ぼくの印象としては、かなり好感触だった。
もちろんぼく自身はAAメンバーだし、ほかの自助グループに鞍替えするつもりは毛頭ない。
でも、依存症から回復したいと思っている人間にとって、選択肢は複数あった方が良いと思う。
ファシリテーターの彼のように、どうしてもスピリチュアリティに関する部分が受け入れられない人もいる。「自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれる」という考えよりも、「飲酒欲求に対する対処行動を学ぶ」というやり方の方が受け入れやすい人も多いだろう。
スマート・リカバリーは、日本の多くのアディクション医療機関で行っている集団療法プログラムの、拡大版だという気がした。
また、AAやNAとスマート・リカバリーを掛け持ちで参加している人もいる、とも聞いた。
スマート・リカバリーはそれはまったくOKだし、むしろ喜ばしいと思っている。ただ、掛け持ちをやり始めた人の多くは、最終的にはどちらかを選ぶようになる、とも言っていた。まあ、日本でもAAと断酒会、両方行っている人もいるから、それと似たような感じなのだろう。

スマート・リカバリーはアメリカ以外にもカナダ、インド、デンマーク、香港、イギリス、マレーシア、タイ、南アフリカ、メキシコ、ロシア、オーストラリア、ウズベキスタン、スペイン、スウェーデンなど、世界の各国でミーティングを行っている。彼らによれば、世界で2番目に大きい依存症の自助グループであるという(the 2nd largest recovery support group in the world for addiction recovery)。

いずれ日本にも支部ができるのだろうか。
アルコールから薬物、摂食障害からギャンブルまで、スマート・リカバリーは何でもありだ。うまくいけば良い受け皿になるような気がする。反面、運営やファシリテーターはたいへんだろうなとも思う。
いずれにせよ、スマート・リカバリーという新しいムーブメントに期待したい。

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2017年6月25日 (日)

自分を超えた大きな力なんて信じない

ぼくが主に参加しているミーティングは通常6,7人の小さなグループで、ここ1年できちんとつながっているメンバーは2名程度だ。
ニューカマーは、もちろん来る。来るけれど、定期的にミーティングに参加する仲間は少ない。
先日、あるニューカマーがやってきた。
その日はビッグブックの読み合わせで、ぼくたちは「私たち不可知論者は」を読んでいた。
ニューカマーはすらすらとBBを読み上げ、ぼくは「さすがアメリカ人、英語がうまい」と感心しながら聞いていた。

(ちなみにぼくは、知らない単語は適当にムニャムニャとごまかしながら読んでいる。渡米して以来、英語力はさっぱりだが、ごまかす度胸はだけは身についた)

順番が回ってきたときに、彼女はこう言った。

すばらしい内容だと思う。書いてある内容は、どれももっともだ。
ただ私は、自分を超えた大きな力が自分を変えるなどという話は、信じることができない。
それが依存症を治すだなんて言う話は受け入れられないし、どうかと思う。

言うまでもなくアメリカはキリスト教が浸透している。ウィキペディアによれば、2015年現在アメリカ人の75%がクリスチャンだ。白人に限って言えば、ほぼ全員が何らかの形でキリスト教との関わりがあると思う。
Christianity in the United States - Wikipedia
だけど、それと「自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれる」ことを「信じる」気になるのとは、やはり隔たりがあるのだろう。

そう言えば昔、誰かが言っていた。アル中がハイヤーパワー概念を嫌うのは、宗教のあるなしとは関係がない。アル中はアル中だから、自分以外のものを信じることができないのだ、と。
そうなのかも知れない。

AAプログラムを受け入れられるかどうかとキリスト教の素養のあるなしとは、きっと関係がない。むしろクリスチャンだからこそ、AAのハイヤーパワー概念を受け入れられない人もいるだろう。
結局のところ、ステップを受け入れられるかどうかは、宗教を超えて、自分を変える決心ができるかどうかなのだと思う。

ニューカマーにとって、AAプログラムを受け入れるべき理由は、山ほどある。医者が勧めた。回復者が大勢いる。科学的疫学的にも効果が証明されている。長い歴史があり、特定の宗教観を押しつけるようなところではないことが分かっている。
反対に、AAプログラムを受け入れない理由も、探せばいくらでもある。こんな宗教じみた集まりには出たくない。他人の経験談を聞いて自分の話をするだけなら、家族や友人で間に合っている。ミーティングに参加する時間がない。そもそもAA自体が信じられない。
そう言った理由の中から何を選び、何を選ばないのかは、やはり本人次第だ。でも、できることならば、一度は試してみて欲しいと思う。

それにしても、「自分を超えた大きな力なんて信じない」とはっきりミーティングで言えるのは、さすがアメリカだ。職場や地域のコミュニティに参加して感じるのは、「自分の意見をはっきり言う」ことはきわめて当たり前、むしろ自分の意見を述べることが大人の責任であり、意思表示すべき場面で意思表示しないことは、どちらかと言えばあまり良くないこと、という考え方だ。
どんな場面でも、真逆の意見が出るのはごく普通だ。でもぶつからない。意見を交換する場面で意見を述べるのは当たり前だろう?という感じ。
だから自分とちがう意見が出ても、別にどうと言うことはない。感情的な対立は生じない。
日本だったら、会議で「場の空気」とちがう意見を言うのは相当に覚悟の要ることだ。
「ハイヤーパワーなんて信じない」とAAミーティングで言っても、完全にOKなのである。ほめられもしない代わりに、誰もぎょっとしない。
こういう風通しの良さは、いいね。

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2017年4月25日 (火)

ジョハン・ハリの「アディクションからコネクションへ」ささやかな疑問と反論

イギリスのジャーナリスト、ジョハン・ハリ氏の「アディクションからコネクション」をテーマにしたビデオが、ここのところ流行っている。
もともとは、彼がTEDで2015年に彼が話したものが、分かりやすいアニメ仕立てのビデオになってYouTubeに出回り、話題になっているようだ。

ジョハン・ハリ: 「依存症」―間違いだらけの常識 | TED Talk | TED.com


骨子を整理してみる。
・いままで、薬物依存症は麻薬を大量に反復摂取することで発生するとされてきた。
・しかし、病院で疼痛緩和のための医療用麻薬を摂取しても依存症にはならない。
・なぜか?
・ある心理学者が「ラット・パーク」という実験をした。孤独な環境で麻薬を投与されたラットは依存になる。しかし、仲間やアクティビティが豊富な「ネズミ公園」に入ったラットは、麻薬を好まなくなる。
・依存症は孤独の病気だ。つながりがないと、人は他の快楽を探そうとする。
・現代、人はますます孤独になっている。その中でスマホやその他、さまざまなものに依存しつつある。
・依存は、個人の問題ではなく、社会の孤独の問題である。
・アディクションからコネクションへ。ひととのつながりが解決への手がかりだ。

文字起こしではないので、ぼくの主観がある程度入った要約である。
結論は、正しい。ぼくも共感する。
ぼく自身、孤独におぼれ、汚れたボロアパートにこもり、人との付き合いを遠ざけ、何年も酒を飲み続けた。
AAに来て仲間を得、プログラムを行い、酒をやめることができた。
孤独は誰にとっても大きな問題だし、アディクトにつながりを呼びかけ、社会との絆を訴えるジョハン・ハリ氏の結論はぼくも大いに賛成する。

しかし、ぼくは彼の主張にいささかの疑問を感じる。
一言で言えば、問題を簡略化しすぎている。その上、原因と結果を混同しているように見える。
上のビデオをはじめて見たとき、ぼくも感動した。
しかし2回目に見たとき、小さな疑問を感じた。

彼が論拠にしているラット・パーク実験は初めて聞いたけど、これほど画期的な研究なのになぜ今まで依存症業界で知られていなかったんだろう?
ぼくはアディクション関連の話題はネットでなるべくフォローしていたつもりだけど、このラット・パーク実験は知らなかった。

調べてみた。
カナダの心理学者、ブルース.K.アレクサンダー氏が1980年に発表した論文だ。
ラットパーク - Wikipedia
Rat Park - Wikipedia
上のウィキペディア、日本語版と英語版で大きな違いがある。日本語版にはたいせつなポイントが抜けている。

アレクサンダー氏のラット・パーク実験を再現しようとした研究は、いずれも失敗している。
再現に失敗した研究のひとつでは、ラット・パークと独りぽっちの、「両方の」ケージのラットとも麻薬摂取が減っていた。麻薬に溺れるネズミとそうでないネズミとでは、遺伝的要素のちがいが関与しているのではないか、と結論づけている。

アレクサンダー氏がラット・パーク実験を行ったのは1970年代の終わり。まだ依存症の科学がいまほど進歩していなかったころだ。それに比べ、今はさまざまな研究が進み、多くのことが分かっている。
アレクサンダー氏の仮説では、孤独という「環境要因」が依存症の原因であるという。
しかしその後の多くの研究で、依存症の原因は「遺伝的な要素」と「環境要因」の掛け合わせであるとされ、現在はこれが定説とされている。

Module 2: Etiology and Natural History of Alcoholism

アルコール依存症に限って言えば、遺伝要素が50%から60%と言われている。
そういった遺伝要因を持つひとにストレスや飲酒習慣などの環境要因が加わって、アルコール依存症が発症する。
遺伝は、何も親がアルコール依存症だとか大酒飲みだとかに限らない。
たとえば、お酒を飲んだときの反応性のちがいは遺伝する。お酒を飲んでもあまりグタッとならず、どんどん飲めちゃって、酔い覚めの不快さも少ない。そう言う体質はそうでない人に比べて、長じてアルコール依存症になりやすい。この特性は多くの研究でくり返し実証されている。

Subjective response to alcohol - Wikipedia

アルコール依存症は、遺伝が半分、環境が半分。

ゆううつな話だけど、これが今の科学界のコンセンサスだろう。
そして環境要因も孤独だけじゃなく、大量飲酒、大量飲酒せざるを得ない職場や家庭の環境、幼児期のトラウマ、酒へのアクセスのしやすさ、ストレス、色んな要素があると思う。

ぼくは孤独とアルコール依存症について、自分自身の体験としてこのブログに何度も書いてきた。
しかし、孤独が依存症の唯一の原因であり、孤独を解消すれば依存症が治ると結論づけるジョハン・ハリ氏の主張は、少々乱暴じゃないかという気がするのだ。
少なくとも方法論的に、1980年以降に達成されたあらゆる依存症科学の成果をスルーして、「ラット・パーク実験から孤独が依存症の本質」と結論づけるのは、フェアじゃない。
もちろん、過去に埋もれた優れた科学研究を掘り起こすのもアリだ。だとしてもそれは、その後の研究と対比した上で優位性を語るべきだろう。

「孤独が依存症の唯一の原因であり解決」説(長いので、以後はジョハン・ハリ氏説と書く)が危ういと思う点は、ほかにもある。
アディクトには、特段孤独じゃない人もいる。ぼくがクリニックに通っていたときにも大勢いた。
「自分は会社の重役で部下にも同僚にも恵まれ、関係もいい。友人づきあいもある。家庭も壊れていない。ただときどき飲み過ぎて仕事を休み、肝臓を壊しただけだ。飲み会だって今もじゃんじゃん行っている」
そんな話をクリニックの待合室で何度も聞いた。
孤独が原因であり解決なら、彼らは依存症ではないのだろうか。
また、対人恐怖やうつ、不安障害があって思うように人と接することができない仲間も見てきた。
ひどい暴力にさらされてきて、他人とまともに目をあわせることもできないアディクトもいる。
「孤独の解消こそが鍵」という見方は、人と接する力が十分ではない人にとって酷なのではないだろうか。
また、飲んでいるアル中がこのセオリーを都合良く書き換えて「オレが酒を飲むのは孤独だからだ。オレを孤独な気持ちにさせている家族、上司、周囲が悪いんだ」という自己正当化の詭弁に用いられないだろうか。
もし孤独を解消すればそれだけで依存症が治るのなら、治っていない(使い続けている)アディクトは、まわりが彼を孤独にしているからだ、周囲の対応が悪いからだ、と言う理屈が成り立ってしまう。
そして結果的に、アディクトの家族や関係者を傷つけてしまう可能性がある。

やっかいなことにアディクトはまわりをだまし、自分をだます。酒を飲みたいため、薬を使いため、もっともらしいウソをこしらえ、挙げ句の果てに自分でそれを信じ込んでしまう。
ぼくも酒を飲み続けたいがために親を責め、生い立ちを呪い、元妻や元上司の無理解を嘆いた。
自分が飲まなくてはいけないのは、彼らがストレスを与えているからだと訴え、自分でそのもっともらしいウソを信じ込んだ。
周囲に理解してもらえない自分は孤独だと、常に思っていた。
そんなアディクトの自己憐憫を、ジョハン・ハリ氏説は結果的にあと押ししてしまいやしないだろうか。そして、本人と同じかそれ以上に苦しんでいる家族を、さらに傷つけてしまわないだろうか。たとえば、こんな風に。

「主人の酒を何とかして止められないものでしょうか」
「依存症は孤独の病気です。彼が飲み続けるのは、孤独だからです」
「そんな…私たち家族は主人のためにできるだけのことをしてきました。私は主人のために仕事を辞め、つきっきりで世話をしてきました。厳しくしてはよけいに飲むと思い、彼を理解しよう、やさしくしようと努めてきました。それでも効果はなかったんです」
「それでも結果的に、彼は孤独だったのです。だから飲み続けたのです。孤独感を埋めればお酒は止まるのです」

この時代、孤独をまったくの他人事だと思える人は少ない。
誰もがどこかに孤独を抱えている。だから依存症は孤独の病気で、つながりの欠如が原因であり、人とつながることで解決する、と言う説は万人に訴えるし、受け入れられやすい。
くどいようだが、ぼくも孤独を解消しようという部分は賛成だ。
でも上に書いたとおり、ジョハン・ハリ氏説はラット・パーク実験以外のセオリーをスルーしているし、孤独というキーワードでover generalizationしている。

依存症は孤独な病気だ。
だから孤独からいかに脱出するかは、とても大きなテーマだ。
でも、孤独を解決すれば依存症が解決する、そんな単純でイノセントな話じゃない。
アディクションを解決するってのは、依存症が壊したものを、医療や自助グループやプログラムの手助けを得ながら、自分の手で直していく。
考えの歪み、自己憐憫、壊れた人間関係、失った仕事、家庭。酒で失ったものを、酒をやめて修理し、取り返していく。
それが回復だと思う。
孤独な環境が変われば、誰かに変えてもらえば依存症が解決するなんて、そんなもんじゃないと思う。
そう言えばわれらがビル・Wの物語も、ジョハン・ハリ氏説には当てはまらないよね。

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2017年4月18日 (火)

恐怖と言う名の壁で

きょうのミーティング、ある仲間がこんなことを言っていた。

ぼくは自分で恐怖という壁を作り、その中に閉じこもっていた。
自分のまわりの世界はこわいことばかり、不安なことばかり。だから外の世界に出ないように、関わりを持たないように、自分の中にこもっていた。
でも結局のところ、恐怖の世界なんてなかった。
自分が世界をそのように見、そのように作っていただけだった。

同じようなことを、どこかの書物で読んだように思う。
とどのつまり、自分の世界、自分の周囲をどう感じ、どう受け取るかは自分のあり方しだいなのだ。
この世は絶望と恐怖がすべてだと思えば、そのように見える。
希望と良心が人々の間にあり、それを感じることができると思えば、そのようになる。
神は死んだと思えば神は死んでいるし、神はここにあると思えば神はここにある。

こころがへこんでいるとき、ぼくたちは外側に過敏になりがちだ。
自分の外側、特にネガティブなこと、自分の気に入らないこと、自分に害をなすように思えるものごとや人に過敏になる。そのことで頭がいっぱいになる。イヤな人、イヤなことのことが頭から離れず、この先自分には何もいいことが起きないような気持ちになってくる。
元凶を呪い、我と我が身の不幸をあわれみ、ネガティブな感情でこころが溺れそうになる。

でも、そうじゃない。
イヤな人、イヤなできごと、気に入らない状況は、われわれの周囲にずっと続いてきた。
そういったことと無縁で一生を終えた人がいただろうか。
もし「イヤなことや気に入らない人と、一生出会わない人生」を望むのなら、その願いが実現することは決してないだろう。
生きて、歳を取って、自分のしあわせを見つけていくと言うことは、自分の周囲の面倒ごととどう折り合いをつけてハッピーに生きていくか、どうポジティブさを持ち続けるかと言うことだ。
さもなければ絶望して、壁を作ってその中で生きていくしかない。

さいわいぼくたちにはAAプログラムと、それを使って問題を解決してきた無数の生き字引がいる。
壁を壊すのは、もちろん誰にとってもたいへんな努力が要る。
知らない人、予測がつかない状況にコミットしていくのはほんとうにこわい。しんどい。おっかない。
時には予感が的中して、面倒ごとがさらに悪化したりする。もう二度と他人なんて信用するかと、絶望的な気持ちになることだってある。
それでもぼくはやっぱり、人と関わっていき、自分の周囲と調和していきたいと思う。
自分の住む世界を、恐怖と不安で定義するなんてまっぴらごめんだ。
自分の壁は、自分の手で壊せる。そのための道具だってあるのだから。

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2017年3月26日 (日)

回復は素晴らしい — 元Keaneのボーカリスト、トム・チャプリンの圧巻ライブ

キーン(Keane)と言うバンドをご存じだろうか。2000年代の初めごろにイギリスからデビューし、ボーカルの美しい歌声とキャッチーでセンチメンタルなサウンドで一世を風靡したバンドである。
方向性はちがうものの、美しいファルセットボイスとポジティブでやさしい曲世界は、コールドプレイとよく比較されていた。日本のバンドで例えるならば、スピッツあたりだろうか。

が、コールドプレイがヒット曲をかっ飛ばしてスタジアムクラスのバンドに成長したのに比べ、キーンはいつのころからか活動を聞かなくなった。
散発的に入ってくるネット情報によれば、ボーカルのトム・チャプリン(Tom Chaplin)が深刻な薬物依存に陥り、バンドは無期限停止に突入したという。
ぼくは彼らの(というか、トム・チャプリンの)音楽が大好きだったので、その後も彼らの曲はプレイリストに常に入っていた。ただ、彼らの新曲が聞けないのは残念でならなかった。

唐突に、そのトム・チャプリンがぼくの住んでいるあたりでソロコンサートを開くという情報が入ってきた。急いでチケットを手配した。なにせ、キーンのトム・チャプリンである。活動停止中とは言え、一時期はコールドプレイと肩を並べたバンドである。チケットはすぐに売りきれるに決まっている。
が。
案に相違して、チケットは売りきれなかった。それどころか、ふだんは全席指定のそのコンサートホールは、完全自由席だった。ぼくが到着したときは客は5分の入りで、最前席付近も空席があった。そして、二階席はクローズドだった。
恐ろしきは時の流れである。かつての超人気バンドも、いまや閑古鳥か。
きっとクスリの問題もちゃんと解決していないんだろうな。昔の原田真二(古っ!)を彷彿とさせる愛らしいルックスも、きっと衰えちゃっているんだろうな。声も出なくて、ファルセットを駆使した昔の曲もやらないんだろうな。

そんな暗い想像をして、ちょっと帰りたい気分になりながらぼくは彼が現れるのを待った。
ちなみに周囲は7割方が女性である。ぼくの隣は、30代の中国人女性3人組だった。楽しそうにキーンの話をしている。きっと青春時代にキーンの音楽にひたっていたんだろう。ああ、もうすぐ出てくるのはヨロヨロの元トム・チャプリンに決まっているのに。

客電が落ち、バンドが現れた。ステージにはエレクトリックピアノが置いてある。てっきりキーンと同じようにトム・チャプリンはピアノを弾き語りすると思っていたのだが、そこにはバンドメンバーが座った。
曲が始まり、ボーカリストが現れた。
あれ?誰だこの元気のいい色男は?
ぼくが知っているトム・チャプリンは、線が細く、前髪を垂らし、うつむき加減でピアノを弾く男であった。が、いま目の前にいるのは胸を張ってハンドマイクで歌い、ステージ狭しと動き回るエネルギッシュな男である。髪は短く、スキニーなジーンズとTシャツ、筋肉質で引き締まり、そして体中からエネルギーがあふれている。
キーンのボーカリストの繊細なイメージはなく、引き締まった身体からあふれ出てくる声量いっぱいの歌声。
隣に座っていた妻から、この人がボーカルなの?と聞かれるが、確信を持って答えられない。誰なんだこの男は?
だが、曲が2曲目に進んだあたりで、ようやく確信した。この男は、まちがいなくトム・チャプリンだ。こんなに歌がうまい男はほかにいない。こんなに高音域とファルセットをやすやすと操れる男はトム・チャプリン以外にはいない。何よりも、このポジティブでやさしい音楽は、まちがいなくキーンの楽曲を作ってきた男のものである。

こいつ、回復しやがった…。

バンドの演奏もとてもいい。タイトだけどタイトすぎず、ドライブしすぎない。メンバーのアイコンタクトやちょっとした仕草から、仲が良さそうなのが見て取れる。
だが何よりも、トム・チャプリンが圧巻だった。ひとつ。キーン時代よりさらに歌がうまくなっている。ふたつ。体中にエネルギーが満ちている。みっつ。客のヤジに笑って応えたり、ライブをとても楽しんでいる。

ライブ中盤で、少し長いMCが入った。
バンドのメンバーはいったん袖にはけ、トム・チャプリン一人が中央のピアノの前に座った。
そこで彼は、自分のアディクションについて語った。
自分がクスリに溺れていたこと。オーバードーズで死にかけ、妻が取りすがって涙を流したこと。クスリをやめる決心をし、リハビリ施設に入ったこと。そしていまはクスリをやめて1年になること。今回のソロアルバムが、自分のアディクションと回復についての個人的な体験をもとにしていること。
そしてピアノの前で彼はこう言った。
「回復は素晴らしい。ほんとうに、素晴らしい」

割れんばかりの拍手。

ソロコーナーを経て、またバンドが入り後半が始まる。
大半がソロの曲だが、ところどころでキーンの曲が混じる。本編最後の曲はキーンの名曲「クリスタル・ボール」。まわりはみんなサビを歌っている。隣の中国人女性たちも歌っている。自分も歌いたいがなにせキーが高くて声が出ない。
そしてアンコールは、これまたキーンの名曲、Everybody's Changing。
最初から最後までトム・チャプリンは歌い続け、動き続け、ライブは終わった。

以前にナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーのところでも書いたが、アディクションから回復したアーティストには独特の何かがある。単に明るくなったとか体力がついたとか、そう言うことではない。
精神的なタフさ、強靱さを感じるのだ。
こう言っちゃあ何だが、アディクションとはぶっちゃけ「負け」である。
そりゃそうだ、大成功を約束されたバンドをつぶし、死にかけて奥さんに本気で愛想を尽かされかけ、いまだに中規模のコンサートホールすら満員にできない。経済的にも人気的にも、勝ち組コールドプレイに遠くおよばない。
だが、それがどうした。それが何だというのだ。
彼の体中から、回復のよろこびがあふれてくる。音楽を奏で、歌を歌うよろこびがあふれてくる。
そこにはアディクションで自分の人生をいちど失いかけ、それをまた取り戻した男ならではの強靱さ、タフネスがみなぎっている。
たぶん、キーンがあのまま成功路線をひた走っていたら、こういう風にはならなかっただろう。トム・チャプリンはいまだにピアノの後ろで繊細な歌と演奏を続けていただろう。
回復は素晴らしい。そう、力強く彼が言うとおり。回復は素晴らしい。いっかい負けてそこから這い上がってきたものは、それをやったものだけが持つ輝きがある。

家に帰ってからキーンの曲をもう一度聴き直した。デビュー当時からエンジェルボイスと表現された歌声。
が、明らかに、誰の耳にも明白に、きょうのライブの方が歌がうまくなっていた。歌唱力もさることながら、エモーションを表現する力がすごいのだ。圧巻としか言いようがない。
そして、ほんの少しだけ、回復は素晴らしいと公言できるミュージシャンが日本にいないことをさびしく思う。
彼が12ステップグループに入っているかどうかは知らない。回復したミュージシャンのインタビューを読むと、リハビリ施設に入所したあとは通院や定期的なメディカルチェックアップだけで何とかしているという話も良く聞く。それはそれでかまわない。
でも、依存症からの回復というすばらしい体験を、トム・チャプリンにはぜひ伝え続けてほしいと思うのだ。それは伝えるに値するし、彼の回復の姿は、大勢のファンと回復途上のアディクトに勇気を当たるのだから。
2017年の上半期は、イギリスを中心にツアーをするようだ。いくつかの会場はソールドアウトが出ている。よろこばしいことである。
願わくば彼の音楽が世に伝わり、多くの人の耳に触れて欲しいと思う。

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2017年3月25日 (土)

インセンティブ・サリアンスとミルクにウィスキーを垂らしたジムという男の話

アルコール依存症という病気について調べてみると、ビッグブックに書かれている内容と共通する点が多いことに気がつく。
少し前からインセンティブ・サリアンス (incentive salience)と言う言葉をよく見かけるようになった。
正確な日本語訳を知らないのだが、「報酬刺激への過敏な反応性」というあたりだろうか。
依存症に限って言えば、アルコホリクは飲酒刺激に対する反応性が過敏だ(あるいは過敏だった、ある程度のソブラエティが得られるまでは)。

インセンティブ・サリアンスは、例えてみれば「グラグラにゆるんだ引き金」みたいなものだろう。
ふつうの人にしてみれば引き金を引くに至らないようなちょっとした刺激で、依存症の鉄砲はいともかんたんに暴発してしまう。
科学者によれば、これは依存症の渇望のうちwanting(依存物質がほしい、必要だという欲求)に関連しているという。
(関連して良く出てくる言葉で、likingとwantingの二つがある。likingは快楽のためにそれを求めるという感覚、wantingは必要だからそれを求めるという感覚、だそうだ。酒で言えば、飲んで気持ちよくなりたいというのがlikingで、不愉快さや嫌な気持ちを避けるために飲みたいというのがwanting)

ある論文から引用してみる。

この種のwantingはしばしば報酬に関連した刺激、または鮮明な報酬物質のイメージによって引き起こされる。ふつうの人のwantingは、自覚している特定のゴールに結びついている。しかしインセンティブ・サリアンスのwantingは特定のゴールへの結びつきが弱く、報酬刺激に強く結びついている。その刺激は、報酬物質を魅力的に見せ、それを手に入れ、使いたいという強い欲求に変わる。

Liking, wanting, and the incentive-sensitization theory of addiction. - PubMed - NCBI

要するに、飲酒に関する刺激を受けると、魅力的だな、飲んだら気持ちいいだろうなという欲求が高まり、それがどういう結果をもたらすかはうまく考えられなくなると言うことだ。
また上に挙げた論文によれば、依存が進めばwantingの感覚は、ドパミンシステムを介して強まっていくという。

この話を読んだときにぼくが思い出したのは、ビッグブックに書いてあるジムの話だ。
AAメンバーなら誰でも知っているこの哀れな(そしてわれわれの大半が共感できる)男は、酒のために仕事も家族も失いかけ、今度飲んだらすべてを失って精神科病院に逆戻りすることが分かっていた。
にもかかわらず、「ミルクにウィスキーをちょっと垂らしても害はないだろうな」という思いつきが頭に浮かび、その瞬間、それがどういう結果をもたらすかという考察はすべてわきに押しやられた。結果、ジムは酔っぱらい、またしても再発の道を歩き出した。自分が依存症であり、こんど飲めばどういう結果になるのか正確に分かっていたにもかかわらず。

BBではこれを「狂気」と描写している。そのとおり。そして2017年現在の依存症の科学に照らして言えば、ジムがおちいった罠の正体はインセンティブ・サリアンスだろう。
ジムのグラグラになった飲酒の引き金は、「お腹もいっぱいだし、ミルクにウィスキーを垂らしても大丈夫なんじゃないか」というふとした考えによって、あっけなく引かれてしまった。
きっとwantingが押し寄せたとき、彼の頭の中では関連したドパミン活性が高まって、結果を合理的に類推することができなくなっていたんだろう。
それを狂気と呼ぶのは、正常ではないという意味では正しい。ただ、実際に脳の中でwantingやら渇望やらが生じているときに、それを意志の力でコントロールするのは無理だろうとも思う。
BBでは、最初の一杯に対する防御はハイヤーパワーだけがもたらすという。ハイヤーパワーのことを科学がどう解釈しているのかは知らない。だが、BBにせよ科学にせよ、少なくとも「自分の力ではどうしようもない」と言うことだけはたしかだ。

上に挙げた論文には、後段になって怖いことが書いてある。
コカイン、覚せい剤、ヘロイン、アルコール、ニコチンなどの薬物乱用により過敏化された(sensiteized)ドパミンシステムは永続的に続く。中脳辺縁系の過敏化は上記薬物のくり返し大量使用により発生し、いちどそうなれば、おそらく半永久的に残る。

上記の説は、人によっては受け入れられないかも知れない。じっさい自分も含め、多くのAAメンバーはそうかんたんには再飲酒しない。ジムのような経験を外食するたびに繰り返していたら、命がいくつあっても足りない。ソブラエティが長引くにつれて、再飲酒の引き金はそうやすやすとは引かれないようになってくる。ありがたいことに。

だがその反面、引き金の軽さ(インセンティブ・サリアンス)が残るという上記の説が正しいんじゃないかとも、感覚的に感じる。
われわれが再飲酒せずに済んでいるのは、AAプログラムを身につけたからであり、仲間との支えがあるからであり、飲酒刺激がやってきたときの対応策をいろいろと学んできたからである。つまり、引き金に触らない方法、引き金にカバーを掛ける方法、引き金にかけた指をゆるめる方法を身につけてきたからであって、引き金の軽さそれ自体は変わっていないような気もする。
うまく逃げる賢さを学んだのであって、酒を克服する強さを手に入れたわけではないのだ。

そう考えると、われわれは常に用心する必要があるし、「依存症は過去のこと。あんなひどい状態にはもう二度と戻るわけがない」と考えるのもまちがいだろう。もちろん、解決方法がAAでなくてもかまわない。AAをきっかけに飲酒問題を解決し、いまはミーティングから離れてしあわせに暮らしている元メンバーを何人も知っている。彼らが彼らなりの方法でインセンティブ・サリアンスの罠をうまく回避して、その人らしく生きているのなら、それは僥倖である。
ただ、問題は常に残っている。科学者が言うように過敏化された引き金が半永久的に残るのであれば、備えを続けるのが当然だ。そう言う意味では、プログラムを続け、仲間と支えあい続けるのはごく自然なことだ。まさに、人を助けることで自分も助かる。自助グループの自助グループたる本質の部分だろう。

それにしても、酒をやめ続けることで何が変わり、何が変わらないんだろう。
やめ初めのころよりも気持ちは安定した。飲んでいたころ、やめ初めのころのような感情のぶれは少なくなってきた。また、激しい飲酒欲求にさいなまされて苦しむこともなくなった。
でも、たぶんインセンティブ・サリアンスは残り続けるし、何らかの依存症的な特性は残り続けているんだろうと思う。それはたとえば「一度飲み始めたら元に戻る」という肉体的な特性かも知れないし、依存症的な思考のゆがみみたいなものなのかも知れない。
いずれにせよ、科学は進み続けているものの、まだまだ未知の領域は多い。変わらない部分を何とかしようとするより、自分にできること、気づきを得て自分を変えられることに集中した方が良さそうだ。

それにしても、ジムはその後どうなったんだろうね。無事に酒をやめられたんだろうか。

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2017年1月28日 (土)

できないことを認める

異国に暮らしていると、「できないこと」に直面してばかりだ。
例えばいま、上司にミーティングキャンセルのメールを書いた。このメールを書くのに1時間かかった。
1時間も何をしていたのかと言えば、業務進捗状況の確認に15分、自分の感情と折り合いをつけるのに40分。メール書きは5分だ。
なにせ、上司からの課題が遅れに遅れている。すでに数ヶ月。とうに仕上がっていなければならない。しかし、そのためには大量の書類を読み、分からないところがあれば知っていそうな人に問合せ、書類の草稿をまとめ、また訂正という作業を繰り返す必要がある。
これを英語でやるというのは、非常につらい。
つらい上に、アリが這うほどの速度でしか進まない。そしてできた英文の文書は、自分で読んでもいやになるほどクオリティが低い。
日本にいて、日本語で、日本人の同僚に同じことをやるのは造作もないことだ。ちょっと、ここ分かんないんだけど、知っていたら教えてくれないかな?いま詰まっちゃってるんだけど、どうしたらいいかな。ちょっとこれ、読んでみてもらえる?
しかしいまは人にものをたずねるにも、質問事項をまとめ、英語の言い回しを考え、その上で話を持って行かなければならない。頭に浮かんだことをそのまま口に出すということができない。
そして往々にして、そうやって求めた返事も、何を言っているのかよく分からない。
会話の質が低く、聞き漏らしが多い。母語なら当然の、考えながら話す、聞きながら考えるということができないからである。

昨年末から、フィンランドから別の担当者が来た。
フィンランドでは、かなりの人が英語を自由に使えるらしい。
彼は、ぼくが1年ちょっとかかってやってきたことを難なく数ヶ月で達成し、さらにその上を行っている。
彼は英語の文書が苦もなく大量に読め、大量に書け、周囲と込み入った会話ができる。
ぼくはその脇で、ひたすら黙って辞書を引きながら込み入った文章を解読している。
全体会議では流れについていくのがやっとで、意見など言うヒマなどはない。あるいは、意見を頭の中で英語に直している間に、あっという間に話題は飛び去って行ってしまう。

いま、ぼくはこの職場環境で「いちばん貢献していない人」である。
そして、それを解決する見通しが見えていない人である。認めざるを得ない。
自己憐憫に陥るものかと思いつつも、気がつくとまわりと自分を比べている。
無力である。
そして、無力を認めるというのは、こんなにもきついものなのかと思う。
期せずして、酒をやめたばかりのころを思い出す。

無力を認めるには、代わりになる何かが必要だ。
AAでは、アルコールに対する無力を認めれば自由に生きられる、アルコールなしの新しい生き方が手に入ると言う光が見えた。それは、AAにつながりつづけている仲間の姿から感じることができた。そして、彼らの助けの手があった。
ただ単に無力を認めろと言っても、認められるわけがない。その代わりになる希望、酒をやめたあとにある光が見えなければ、とてもできるわけがない。
「無力を認める」のと「解決がある」ことは、同時に示されなければならない。
どんなに進歩しても、酒をやめたあとの希望、酒を手放すに値すると思える生き方、笑顔、よろこびを医学は提供しない。それはやはり、自助グループと仲間だけが見せることができるのだ。

と、AAのありがたみを再確認したところで、きょうも孤立無援の職場でがんばるわけです。
12のステップとハイヤーパワーがあれば、きっとだいじょうぶ。

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2017年1月25日 (水)

献金のおつり

きのうのミーティングでのこと。
参加者は7名ほど。
当グループは献金箱がないため、ミーティング終了後に係の人に直接献金を手渡す仕組みだ。
ぼくは細かいお金がなかったので、5ドル札を手渡した。
「ちょっと待って」
そう言って献金係の彼女は、ぼくにⅠドル札を3枚返した。
ううむー。
AAにつながって十数年。献金で「お釣り」をもらったのは生まれて初めてだぞ。
色んな国のミーティングに出てきたけれど、どこもお釣りはなかったな。
なかなか得がたい経験でした。

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2016年11月29日 (火)

サンクスギビング明けのミーティング

サンクスギビングデイは一大連休シーズンだ。公的には祭日は一日だけだが、多くの人が一週間ほどの休みを取る。だいたいは家族と旅行に行ったり、家族親戚の家を訪れたりするようだ。
そういうわけで、サンクスギビング前後のミーティングは人が少ない。
きょうはぼくとJだけだった。
二人ミーティングをやるような気分も盛り上がらず、ぽつぽつと話をする。
サンクスギビングデーの由来。ブラックフライデーの狂乱ショッピング。
Jは、サンクスギビングデーは感謝、協働、分かち合いの日だという。
ヨーロッパからアメリカに渡った人々がインディアンに助けられ、暮らしを立てることができるようになった。感謝の意を込めて、収穫物をインディアンたちと分かち合ったのが始まりだという。
だから分かち合うことのたいせつさを知る日なのだと。
だが多くのアメリカ人には、ターキーを食べてショッピングをする日になってしまった。
自分は家族とターキーを食べて、静かに過ごした。

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コロラドに生まれ、近くの山でスキーをして育ったJは、現代のアメリカに上手くなじめていない印象だ。
皮肉なことに、サンクスギビングデーはJのような精神主義的な考えとは逆の、物質主義的な、消費社会の象徴的な側面が大きくなってしまったように思う。
サンクスギビングデーの翌日はブラックフライデー。国中のショッピングセンターが年に一度の大幅値引きをし、買い物客が殺到する日だ。開店時間は年々早まり、いまや夜中の0時、日付が変わると同時に28時間の突貫営業に入るところもある。
ぼくも物見遊山で行ってみたけど、あまりの混雑に、クルマを駐めることさえできずに帰ってきた。
Jは、そんな消費社会をクレイジーだという。
消費行動は、満足するということがない。ひとつを手に入れれば、もっと多くのものが欲しくなる。
消費しきれないほどたくさんのモノに囲まれて暮らすのがしあわせなんだろうか?
おれはそう言うものに荷担したくない、と彼はいう。
ブラックフライデーもきらいだし、クレジットカードもきらいだ。あれは借金なんだと言うことをみんな忘れている。なぜ感謝と分かち合いの日に、そんなものに振り回されなくっちゃいけないんだ。と。

ぼくは興味深く彼の話を聞く。
いうまでもなく、現代の消費主義社会はアメリカが作り出したものだ。それをアメリカに生まれて育った人がどう見ているのか、かねてより興味があった。
Jのように、過剰な消費行動に疑問を持っている人がいるのだということに、ちょっと驚いた。
もちろん多様性の国アメリカでは、人の数だけ考え方がある。Jのような精神主義的な考えの人もいれば、家族で元気いっぱいにブラックフライデーのショッピングモールに突入していく人たちもいる。
どちらが良いとか悪いとかじゃない。要は自分次第、自分がどの考えを支持し、基準とするかがたいせつなのだ。

ふだんのミーティングもたいせつだけど、対話で人の考えを知るのもいいね。
それにしても、祭日の本来の意味が失われて消費社会のイベントと化していくのは、日本のクリスマスによく似ているなと思いましたよ。
Happy Thanksgiving day to you.

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2016年9月13日 (火)

またまた久しぶりに

またまた久しぶりの更新になってしまいました。
なんとか元気でやっています。みなさんは、元気ですか?

早いもので、いつの間にか夏が終わりかけている。
先々週まではひどい暑さだったんだけど、先週くらいから朝晩が涼しくなり、駅のプラットフォームにセミの遺骸が目立つようになってきた。今週からはぐっと気温が下がり、通勤する人々も長袖がちらほら。
秋なのである。

AAの方は、あいかわらず週1ペース。3人ほどのメンバーが、いまは5人前後まで増えた。ミーティング会場も、地下室→野外(公園のベンチ)→会議室、と、転々とした。ちなみに今日のミーティングはまたまた野外だった。まあ、野外もいいんだけどね。そばを通行人がよくとおる以外は。
ミーティングのテーマは、ほとんどフリートークだ。今週は自己憐憫と神の意志に沿うこと、についての話が多かった。
先日、誰かがこんなことを言った。「孤独はわたしたちのまわりに透明な壁を作り、ほかの人たちから孤立させてしまう」と。
誰かが自分を孤独にさせるのではない、自分が自分で孤独を作り、他の人との間に壁を作り、孤独に追い込んでしまう。
考えてみたら、自分もそうだった。壁があると感じたときは、往々にしてその壁は自分が作っていた。
いまもそうだ。
あいかわらず英語に関しては劣等感が強くて(というよりは恐怖感、おそれかな)、なかなか他の人に話しかけられない。アメリカは自分が困ったときに「まわりが察してくれる」ということは100%ないので、何かがあったときは自分からまわりに働きかけていかないといけない。英語で。これがつらい。
で、「なにか困ったこと」は、しょっちゅう起こるんである。
クレジットカードによく分からない引き落としが発生する。スマホがある日突然つながらなくなる。同僚にプロジェクトの進捗状況をメールで問いあわせたけどまったく返事をよこさないので、直談判に行く。
身振り手振りを交えてつたない英語で用件を話すが、たいがい「ふん?」みたいな対応をされる。ガックリ落ち込んで、我が身の英語力のつたなさを呪う。
しかし考えてみたら、萎縮する必要はないのである。萎縮してビビればビビるほどに話は伝わらなくなり、コミュニケーションは行き詰まり、劣等感はさらに深まっていく。

ここでひとつ、思い切って断言しよう。
アメリカ人は、テンションが高い人が好きである。
とくに何もなくても、2割増しくらいのテンションで「ハーイ!」と会話を切り出すと、とりあえず何とかなる。ような気がする。
わざとらしいくらいの笑顔で、相手の目をしっかり見て、はきはきと切り出すといい。
疲れるんだけどね。

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と言うことで、日々を仕事の壁、習慣の壁、言葉の壁に苦しみながら過ごしている。
アメリカ人はおしゃべりが大好きで、放っておくとずーっとおしゃべりをしている。そういう国で言葉が不自由だというのは、なかなか忸怩たるものがある。

けど、壁なんてしょせん、自分が作っているのである。ミーティングで仲間が言ったとおりだ。
壁なんてあると思えばあるし、ないと思えばない。「ぼくの言っていることが分からない?じゃああとでメールしてね」くらいの勢いでいいのである。
少なくとも、自己憐憫におちいって立ちすくんでいたら、一歩も進まない。
アメリカは助けを求める人には誰かしら助け船を出す。だったらどんどんコミュニケーションを求めれば良いのである。

そんな感じで、ミーティングで気づきをもらい、日常生活で疲れ果て、また気づきをもらい、のくり返し。
考えてみたら、日本でやっていたのと同じだね。
そんな感じで、なんとかしぶとく生きのびています。

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