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2024年1月27日 (土)

やっぱり床屋さんはニガテ

むかし、村上春樹のコラムで「歳を取ると床屋が好きなる」と書いてあった。

ちなみに村上春樹は床屋を取り上げたコラムを何本か書いている。どれもクスッとする、市民の日常を切り取った秀逸な作品である。

ぼくは子どものころから床屋が苦手だった。

じっと椅子にすわっているのも苦痛だし、耳もとでハサミがたてる金属音も苦手だし、お金はかかるし、いいことは何もない。

でも髪がサッパリする感覚はキライではなかったので、自分の中では「好ましい」と「好ましくない」が入り交じった、何とも言えない両価的な感覚だった。

ただそれでも歳を取るごとに床屋への苦手意識は減っていった。

たしかこのブログでも以前、その辺のことを書いたことがある。ような気がする。

苦手意識が減ったのにはいくつか理由がある。

ひとつは村上春樹的にオトナになったこと。しかしそれ以上に、なじみの床屋を見つけることで苦手意識が減ったこともある。

むかし郡山に暮らしていたころはとても良いなじみの床屋があって、ずっとそこに通っていた。

が、神奈川に暮らしを移し、アメリカに渡り、そしていまの日本海側の住まいに移るにつれ、郡山の床屋に定期的に行くことは困難、というかほぼ不可能になった。

で、いま住んでいる街の床屋さんである。

床屋というか、美容室ですね。

 

もうこの街に住んでまる6年近くなるし、そのお店にも4年ほど通っている。

でも、慣れないのである。いまだに落ち着かないのである。

うーん、何が悪いのだろう。

お店の人は腕も良いし、よけいなおしゃべりもしない。店もしんとしているわけでもなくにぎやかすぎるわけでもない。

好ましくない要素は、何ひとつない。

でもぼくは散髪椅子にすわってからシャンプー、仕上がりまで、ほとんど緊張して過ごしてるか、現実逃避的に寝ているかのどちらかである。

そうなるとやっぱりアレですね、結局のところ、ぼくは歳を取っても床屋になれることはできなかった、と言うことですね。

今も床屋から帰ってきて、グッタリして寝ているところである。

村上春樹的に床屋に適応できるオトナになることは、とうとうできなかったっつーことですね。

まあでも。

床屋に慣れるだけが人生ではない(当たり前だ)。

自分の限界が一つ分かっただけでも見っけもんってことですね。

やれやれ。

 

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