ソブラエティ、変わるものと変わらないもの
飲まない生活が長くなってきた。
最後に酒を飲んだのが何年前、何歳の時だったのかも、記憶の糸をたどらないとすぐには思い出せない。
気がつけば、酒のことも、震えながら飲んでいた日々も、遠い過去のことになりつつある。
それでも、変わらないものもある。
たとえば、コンビニで昔買っていた酒瓶を目にしたとき。
ウォッカやジンを、まだ売っている店があるのだ。いったい、ウォッカやジンをコンビニで買う客というのは、アル中以外にいるんだろうか。
目に入った酒瓶がなじみの酒だと分かったとき、一瞬で過去の記憶がよみがえってくる。その生ぬるい液体を飲み下したときの喉にしみる感覚。吐き気をこらえながら何とか胃に落ち着けようと息をこらえていたこと。店員に酒気を気づかれないよう、一言も口をきかなかったこと。飲んだあと、職場に休みの連絡をどうつけようか思い悩んだこと。
そう言った記憶が、18年の時間を飛び越えて一気によみがえってくる。
変わったこともある。
いまはAAミーティングに足を運ぶ回数がめっきり減ったこと。地元にミーティング会場がないのだ。やめ初めのころ、好むと好まざるとにかかわらず、AAは日々を飲まずに生きていくための必需品だった。いまは自分のソブラエティを確かめるため、自らミーティングを探し、追い求めていく必要がある。自らをアジテートして、AAと自分とのつながりを探し求めていく必要がある。
やめ初めのころは、こんなに長い間、酒が止まるとは思っていなかった。きっといつかまた飲むだろう、そのときは職も失い、信用をなくし、未来をなくすかも知れない。そんな切迫感が絶えずつきまとっていた。
いまはもちろん、そんな切迫感はない。
再飲酒した夢をみて夜中に汗だくではね起きることもない。
けど、僕は知っている。
自分の飲酒問題は去ったのではない。単にいまは一時猶予されているだけだ。最初の一杯に手をつければ、それはまたすぐに戻ってくる。何十年経とうが、どれだけ歳を取ろうが、一瞬であの地獄の日々は帰ってくる。
それを遠ざけるのは、どれだけ自分がAAとプログラムにコミットしているかにかかっている。
忘れれば、いつでも元に戻るのだ。
さて、次の出張ではどこのミーティングに行きましょうか。
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