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2017年4月30日 (日)

プリンタくん、最後の授業

フランツ。席に着きなさい。

きょうはセンセからお話があります。よく聞くように。とくに三列目、あー、キヤノンくん。
キヤノンくんは、世界でナンバーワンのプリンタ会社です。や、もちろんカメラも作っている。印刷一般とか、大きな仕事もしている、あー、でも世の中ではプリンタを作っている大きな会社と言えば、誰もがキャノンくんの名前を挙げるでしょう。
あ、いいの。いいのいいの。謙遜しなくていいの。センセはそれに、責めるつもりとか、そーゆうーのはいっさいないから。

でね、きょう言いたいのはね、世界一の会社なんだから、それなりの誇りと、あと、なんつーの、キョージ?キョージであってる?キンジとも言うかな?プライド、そう、プライドを持ってほしいの。
たとえばね、たとえばの話なんだけど、キヤノンくん、世界中でおんなじプリンタを、ちょっぴーっとだけ型番を変えて売ってるじゃない?
たとえば日本で売っているインクジェット複合機PIXUS MG7530を、アメリカではMG7520という名前で売っているわけじゃない?
え?国によって電源とか規格がビミョーに違うから、同じ型番で出すわけにはいかない?いいのいいの。それはいいの。センセはそこを問題にしてるんじゃないの。
でね、電源まわりとかそーゆーのをのぞけば、ほぼ同じ機種じゃない?
ソフトウェアドライバも、本体の設定画面も、何から何まで同じじゃない?
それなのにね、インクタンクを非共通設定にしちゃうのはどうなのかなって、そう、ちょっとだけ、ちょーっとだけ、センセは悲しい気持ちになるのね。
いいの。それはいいの。責めてるんじゃないの。

でもきょうキヤノンくんに分かってもらいたいのはね。
日本からたーくさんたーくさん、MG7530の替えインクをアメリカに持っていったのね。
で、同じ機種の同じインクだから、とうぜんソケットにはちゃんとハマるのね。スポッて。
それなのに、ソフトウェア的に「このインクは使えません。ちゃんと適合したのを入れてください」って、それをはじいちゃう。
それがね、悲しいの。3セットも4セットも持参したインクタンクが、まるで使えない。ホントはちゃんと使えるはずなのに、ソフトウェアではじいている。
そこがね、ちょーっとだけ、いじわるなんじゃないかなーって、おもーの。ひとのね。も少しね。気持ちってものをね。

あれ?どうしたのキヤノンくん?
え?勝手な思い込みで人にセッキョーすんな?こっちにも都合ってもんが?
キヤノンくん、ヤ、そういう口調は良くない。センセにそーゆーのは良くないと思うぞ。
あー、やめなさい!インクジェットをその辺に噴霧するのはやめなさい!
最近の顔料系は雨でもにじまないくっきり印刷なんだから。取れないんだから。
話を聞きなさい。それからセンセの顔にインクを微粒子噴霧するのはやめなさい。
キヤノンくん?キヤノンくんッッ?!

…フランスばんざい!

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2017年4月25日 (火)

ジョハン・ハリの「アディクションからコネクションへ」ささやかな疑問と反論

イギリスのジャーナリスト、ジョハン・ハリ氏の「アディクションからコネクション」をテーマにしたビデオが、ここのところ流行っている。
もともとは、彼がTEDで2015年に彼が話したものが、分かりやすいアニメ仕立てのビデオになってYouTubeに出回り、話題になっているようだ。

ジョハン・ハリ: 「依存症」―間違いだらけの常識 | TED Talk | TED.com


骨子を整理してみる。
・いままで、薬物依存症は麻薬を大量に反復摂取することで発生するとされてきた。
・しかし、病院で疼痛緩和のための医療用麻薬を摂取しても依存症にはならない。
・なぜか?
・ある心理学者が「ラット・パーク」という実験をした。孤独な環境で麻薬を投与されたラットは依存になる。しかし、仲間やアクティビティが豊富な「ネズミ公園」に入ったラットは、麻薬を好まなくなる。
・依存症は孤独の病気だ。つながりがないと、人は他の快楽を探そうとする。
・現代、人はますます孤独になっている。その中でスマホやその他、さまざまなものに依存しつつある。
・依存は、個人の問題ではなく、社会の孤独の問題である。
・アディクションからコネクションへ。ひととのつながりが解決への手がかりだ。

文字起こしではないので、ぼくの主観がある程度入った要約である。
結論は、正しい。ぼくも共感する。
ぼく自身、孤独におぼれ、汚れたボロアパートにこもり、人との付き合いを遠ざけ、何年も酒を飲み続けた。
AAに来て仲間を得、プログラムを行い、酒をやめることができた。
孤独は誰にとっても大きな問題だし、アディクトにつながりを呼びかけ、社会との絆を訴えるジョハン・ハリ氏の結論はぼくも大いに賛成する。

しかし、ぼくは彼の主張にいささかの疑問を感じる。
一言で言えば、問題を簡略化しすぎている。その上、原因と結果を混同しているように見える。
上のビデオをはじめて見たとき、ぼくも感動した。
しかし2回目に見たとき、小さな疑問を感じた。

彼が論拠にしているラット・パーク実験は初めて聞いたけど、これほど画期的な研究なのになぜ今まで依存症業界で知られていなかったんだろう?
ぼくはアディクション関連の話題はネットでなるべくフォローしていたつもりだけど、このラット・パーク実験は知らなかった。

調べてみた。
カナダの心理学者、ブルース.K.アレクサンダー氏が1980年に発表した論文だ。
ラットパーク - Wikipedia
Rat Park - Wikipedia
上のウィキペディア、日本語版と英語版で大きな違いがある。日本語版にはたいせつなポイントが抜けている。

アレクサンダー氏のラット・パーク実験を再現しようとした研究は、いずれも失敗している。
再現に失敗した研究のひとつでは、ラット・パークと独りぽっちの、「両方の」ケージのラットとも麻薬摂取が減っていた。麻薬に溺れるネズミとそうでないネズミとでは、遺伝的要素のちがいが関与しているのではないか、と結論づけている。

アレクサンダー氏がラット・パーク実験を行ったのは1970年代の終わり。まだ依存症の科学がいまほど進歩していなかったころだ。それに比べ、今はさまざまな研究が進み、多くのことが分かっている。
アレクサンダー氏の仮説では、孤独という「環境要因」が依存症の原因であるという。
しかしその後の多くの研究で、依存症の原因は「遺伝的な要素」と「環境要因」の掛け合わせであるとされ、現在はこれが定説とされている。

Module 2: Etiology and Natural History of Alcoholism

アルコール依存症に限って言えば、遺伝要素が50%から60%と言われている。
そういった遺伝要因を持つひとにストレスや飲酒習慣などの環境要因が加わって、アルコール依存症が発症する。
遺伝は、何も親がアルコール依存症だとか大酒飲みだとかに限らない。
たとえば、お酒を飲んだときの反応性のちがいは遺伝する。お酒を飲んでもあまりグタッとならず、どんどん飲めちゃって、酔い覚めの不快さも少ない。そう言う体質はそうでない人に比べて、長じてアルコール依存症になりやすい。この特性は多くの研究でくり返し実証されている。

Subjective response to alcohol - Wikipedia

アルコール依存症は、遺伝が半分、環境が半分。

ゆううつな話だけど、これが今の科学界のコンセンサスだろう。
そして環境要因も孤独だけじゃなく、大量飲酒、大量飲酒せざるを得ない職場や家庭の環境、幼児期のトラウマ、酒へのアクセスのしやすさ、ストレス、色んな要素があると思う。

ぼくは孤独とアルコール依存症について、自分自身の体験としてこのブログに何度も書いてきた。
しかし、孤独が依存症の唯一の原因であり、孤独を解消すれば依存症が治ると結論づけるジョハン・ハリ氏の主張は、少々乱暴じゃないかという気がするのだ。
少なくとも方法論的に、1980年以降に達成されたあらゆる依存症科学の成果をスルーして、「ラット・パーク実験から孤独が依存症の本質」と結論づけるのは、フェアじゃない。
もちろん、過去に埋もれた優れた科学研究を掘り起こすのもアリだ。だとしてもそれは、その後の研究と対比した上で優位性を語るべきだろう。

「孤独が依存症の唯一の原因であり解決」説(長いので、以後はジョハン・ハリ氏説と書く)が危ういと思う点は、ほかにもある。
アディクトには、特段孤独じゃない人もいる。ぼくがクリニックに通っていたときにも大勢いた。
「自分は会社の重役で部下にも同僚にも恵まれ、関係もいい。友人づきあいもある。家庭も壊れていない。ただときどき飲み過ぎて仕事を休み、肝臓を壊しただけだ。飲み会だって今もじゃんじゃん行っている」
そんな話をクリニックの待合室で何度も聞いた。
孤独が原因であり解決なら、彼らは依存症ではないのだろうか。
また、対人恐怖やうつ、不安障害があって思うように人と接することができない仲間も見てきた。
ひどい暴力にさらされてきて、他人とまともに目をあわせることもできないアディクトもいる。
「孤独の解消こそが鍵」という見方は、人と接する力が十分ではない人にとって酷なのではないだろうか。
また、飲んでいるアル中がこのセオリーを都合良く書き換えて「オレが酒を飲むのは孤独だからだ。オレを孤独な気持ちにさせている家族、上司、周囲が悪いんだ」という自己正当化の詭弁に用いられないだろうか。
もし孤独を解消すればそれだけで依存症が治るのなら、治っていない(使い続けている)アディクトは、まわりが彼を孤独にしているからだ、周囲の対応が悪いからだ、と言う理屈が成り立ってしまう。
そして結果的に、アディクトの家族や関係者を傷つけてしまう可能性がある。

やっかいなことにアディクトはまわりをだまし、自分をだます。酒を飲みたいため、薬を使いため、もっともらしいウソをこしらえ、挙げ句の果てに自分でそれを信じ込んでしまう。
ぼくも酒を飲み続けたいがために親を責め、生い立ちを呪い、元妻や元上司の無理解を嘆いた。
自分が飲まなくてはいけないのは、彼らがストレスを与えているからだと訴え、自分でそのもっともらしいウソを信じ込んだ。
周囲に理解してもらえない自分は孤独だと、常に思っていた。
そんなアディクトの自己憐憫を、ジョハン・ハリ氏説は結果的にあと押ししてしまいやしないだろうか。そして、本人と同じかそれ以上に苦しんでいる家族を、さらに傷つけてしまわないだろうか。たとえば、こんな風に。

「主人の酒を何とかして止められないものでしょうか」
「依存症は孤独の病気です。彼が飲み続けるのは、孤独だからです」
「そんな…私たち家族は主人のためにできるだけのことをしてきました。私は主人のために仕事を辞め、つきっきりで世話をしてきました。厳しくしてはよけいに飲むと思い、彼を理解しよう、やさしくしようと努めてきました。それでも効果はなかったんです」
「それでも結果的に、彼は孤独だったのです。だから飲み続けたのです。孤独感を埋めればお酒は止まるのです」

この時代、孤独をまったくの他人事だと思える人は少ない。
誰もがどこかに孤独を抱えている。だから依存症は孤独の病気で、つながりの欠如が原因であり、人とつながることで解決する、と言う説は万人に訴えるし、受け入れられやすい。
くどいようだが、ぼくも孤独を解消しようという部分は賛成だ。
でも上に書いたとおり、ジョハン・ハリ氏説はラット・パーク実験以外のセオリーをスルーしているし、孤独というキーワードでover generalizationしている。

依存症は孤独な病気だ。
だから孤独からいかに脱出するかは、とても大きなテーマだ。
でも、孤独を解決すれば依存症が解決する、そんな単純でイノセントな話じゃない。
アディクションを解決するってのは、依存症が壊したものを、医療や自助グループやプログラムの手助けを得ながら、自分の手で直していく。
考えの歪み、自己憐憫、壊れた人間関係、失った仕事、家庭。酒で失ったものを、酒をやめて修理し、取り返していく。
それが回復だと思う。
孤独な環境が変われば、誰かに変えてもらえば依存症が解決するなんて、そんなもんじゃないと思う。
そう言えばわれらがビル・Wの物語も、ジョハン・ハリ氏説には当てはまらないよね。

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2017年4月21日 (金)

巨大ブリトーと格闘しながら思うこと

きょうの昼食はブリトーであった。

いや、そう言うことではない。そう言うことを言いたいのではない。
順を追って話そう。

ここ1年ほど、ランチを食べる習慣がない。
理由はふたつある。
一。外食が高くて量が多い。
職場のカフェテリアで食べると、だいたい10ドルから15ドル。日々の昼飯に千円以上というのは、ちょっとサイフに厳しい。
オマケに、やたらと量が多い。うまく言えないんだけど、どのランチもカツ丼大盛りくらいのボリュームがある。食べようと思えば食べられないことはないんだけど、毎日のお昼ご飯にその量を食べるのは明らかにオーバーカロリーだし、午後に眠くなる。
二。職場のランチグループに混ざりたくない。
じゃあお弁当か何かを持ってきて食べれば、とも思うんだが、ぼくの職場には若い職員たちのランチグループがある。やっかいなことに、ぼくのデスクのすぐそばだ。
一度だけグループに混ぜてもらったが、会話がまったく聞き取れなかった。どこの国でも、若者たちが早口でおしゃべりに興じるのは共通である。共通であるんだけど、そこに言葉の不自由な外国人が一人だけ混じるのはどう考えてもムリだ。だいたい日本でも職場の若者ランチグループなんて怖くては入れないのに、異国でできるわけがない。
まったく聞き取れないマシンガン英語が頭上で飛び交うのを聞きながら、ひたすら硬直した笑顔で昼休みが終わるのを待ち続けた。ええ、一回でやめました。

そういうわけで、昼休みはランチを取らずに仕事を続けている。英語の読み書きが他の人よりものろいので、昼休みを返上しても仕事は遅い。アメリカ人が1時間で終わる仕事が1日かけても終わらなかったりすると、泣きたいような気持ちになるが、まあそれはまた別の話。

で。きょうはたまたま、朝食を食べずに出勤した。
夜も予定が入っている。帰宅は9時過ぎになるだろうし、それまで何も食べないわけにはいかない。
と言うことで、深く考えずにカフェテリアに行き、目についたブースで料理を頼んだ。

出てきたのは、巨大なブリトーであった。


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ペーパートレイに乗った、白いブリトー。
長さは18センチくらいだろうか。太さはだいたい、一般的なコーヒーのタンブラーくらい。
全体に、ヤマザキのロールケーキを一回り大きくしたくらいのサイズである。

食べましたよ。ええ。食べましたとも。がんばりました。全力を尽くしました。
後半は失速気味でしたが、手を休めずに食べきりました。
値段は、コーラとセットで10ドル50セント。

いつも思うのだけれども、アメリカの外食業界はなぜ値段と量を半分にしないのか。こんなメガ盛りみたいな量をどこでも出してくるのはどうなのか。
この辺のことをアメリカの人に聞くと、だいたいいつも同じ答が返ってくる。
「誰かとシェアして食べればいいのよ」あるいは「コンテイナーを頼んで、余った分を持ち帰ればいいのよ」である。
しかしですね。職場で手の空いたときにさっと食堂に行ってランチを食べるのに、シェアして食べる相手を見つけるのはたいへんですよ。ていうか、ランチをシェアして食べるほど仲のよい人は職場にいないわけですよ。
それから、持ち帰ればいいって言われても、ランチの残りを持参して午後の会議に参加したくないわけですよ。だってブリトーですよ。においだって会議室に充満するわけですよ。
そして何よりも、巨大ブリトー1本とコーラがランチって、なんかいろいろな意味でまちがっている気がするわけですよ。ブリトーは三分の一でいいから、その分、こんにゃくの煮物の小鉢とかミニサラダとかミニ冷やしとろろそばとか杏仁豆腐とか、そう言うものを付けてほしいわけですよ。

と言うことで、案の定午後には眠くなり、会議はまったく頭に入らなかった。
何か自分の名前を呼ばれた気がするが、深く考えないでおこう。

ちなみにカフェテリア、まわりのアメリカ人はみんなもりもりとメガ盛りランチを食べていました。
そりゃー肥満と心筋梗塞が増えるワケですよ。

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2017年4月18日 (火)

恐怖と言う名の壁で

きょうのミーティング、ある仲間がこんなことを言っていた。

ぼくは自分で恐怖という壁を作り、その中に閉じこもっていた。
自分のまわりの世界はこわいことばかり、不安なことばかり。だから外の世界に出ないように、関わりを持たないように、自分の中にこもっていた。
でも結局のところ、恐怖の世界なんてなかった。
自分が世界をそのように見、そのように作っていただけだった。

同じようなことを、どこかの書物で読んだように思う。
とどのつまり、自分の世界、自分の周囲をどう感じ、どう受け取るかは自分のあり方しだいなのだ。
この世は絶望と恐怖がすべてだと思えば、そのように見える。
希望と良心が人々の間にあり、それを感じることができると思えば、そのようになる。
神は死んだと思えば神は死んでいるし、神はここにあると思えば神はここにある。

こころがへこんでいるとき、ぼくたちは外側に過敏になりがちだ。
自分の外側、特にネガティブなこと、自分の気に入らないこと、自分に害をなすように思えるものごとや人に過敏になる。そのことで頭がいっぱいになる。イヤな人、イヤなことのことが頭から離れず、この先自分には何もいいことが起きないような気持ちになってくる。
元凶を呪い、我と我が身の不幸をあわれみ、ネガティブな感情でこころが溺れそうになる。

でも、そうじゃない。
イヤな人、イヤなできごと、気に入らない状況は、われわれの周囲にずっと続いてきた。
そういったことと無縁で一生を終えた人がいただろうか。
もし「イヤなことや気に入らない人と、一生出会わない人生」を望むのなら、その願いが実現することは決してないだろう。
生きて、歳を取って、自分のしあわせを見つけていくと言うことは、自分の周囲の面倒ごととどう折り合いをつけてハッピーに生きていくか、どうポジティブさを持ち続けるかと言うことだ。
さもなければ絶望して、壁を作ってその中で生きていくしかない。

さいわいぼくたちにはAAプログラムと、それを使って問題を解決してきた無数の生き字引がいる。
壁を壊すのは、もちろん誰にとってもたいへんな努力が要る。
知らない人、予測がつかない状況にコミットしていくのはほんとうにこわい。しんどい。おっかない。
時には予感が的中して、面倒ごとがさらに悪化したりする。もう二度と他人なんて信用するかと、絶望的な気持ちになることだってある。
それでもぼくはやっぱり、人と関わっていき、自分の周囲と調和していきたいと思う。
自分の住む世界を、恐怖と不安で定義するなんてまっぴらごめんだ。
自分の壁は、自分の手で壊せる。そのための道具だってあるのだから。

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2017年4月 2日 (日)

恐ろしきかな縦列駐車

縦列駐車がこわい。
アメリカはクルマ社会である。銀行とかスーパーマーケットとか、たいがいの場所には駐車場が用意してあるが、都市部ではそうも行かない。あえて駐車場の少ない中心部に来るまで出かけなければならないこともときどきある。
そこで問題になるのは、縦列駐車である。
今のところ、まだ縦列駐車の技術を習得していない。や、やればできないこともなくはないが、切り返しだのやり直しだの、やたら時間がかかる。道路の流れをせき止めて縦列駐車のやり直しを何度もやっていると、後ろから容赦のないクラクション攻撃を浴びる。なかなかにストレスである。
できれば縦列駐車はしたくない。多少不便でも、縦列駐車をしなくちゃいけない状況なら最初からバスか徒歩を選ぶ。

縦列駐車に気が乗らない理由はもうひとつある。それは、前後のクルマである。後先考えずに、やたら車間を詰めて駐めてくる。
写真を見てほしい。あり得ないほどのすき間でびっしりと縦列駐車が並んでいる。
うまいドライバーは、キュキュッと数回切り返して魔法のように脱出できる。が、へたなドライバーも多い。
どうなるか?
もちろん、前後のクルマにぶつけて脱出するんである。

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クルマを傷つけたくない日本人としては、こういう状況はストレスなのである。つらいのである。避けたいのである。
中には前後のバンパーに厚いゴムパッドをつけて(そういうグッズが売っているんです)、縦列駐車のぶつけ攻撃に備えている人もいる。

それから、道路沿いのパーキングメーターはほとんどが25セント硬貨対応である。が、たまたま25セントを切らしていたりすると支払えなくなる。
自分はやったことがないが、ほとんどのパーキングメーターにはカメラが取り付けてあって、支払いが足りないドライバーの住所に、あとで罰金の支払い状が送られてくる。
アメリカはカード社会なので、ふだん現金を使う機会はほとんどない。何も考えずにクルマで出かけて25セントを持ち合わせておらず駐車できない、あるいは駐車したあとで支払いができないという事態も容易に発生する。

まあ、そうは言ってもやはりクルマは便利だ。
ライブハウスに出かけるときなど、終演後に疲れて電車で帰ってくるのはしんどい。
ガソリン代も安いし、電車は遅れがちだし、ついついクルマで出かけてしまうのである。
しかしそれにしても縦列駐車は(最初に戻る)

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