イギリスのジャーナリスト、ジョハン・ハリ氏の「アディクションからコネクション」をテーマにしたビデオが、ここのところ流行っている。
もともとは、彼がTEDで2015年に彼が話したものが、分かりやすいアニメ仕立てのビデオになってYouTubeに出回り、話題になっているようだ。
ジョハン・ハリ: 「依存症」―間違いだらけの常識 | TED Talk | TED.com
骨子を整理してみる。
・いままで、薬物依存症は麻薬を大量に反復摂取することで発生するとされてきた。
・しかし、病院で疼痛緩和のための医療用麻薬を摂取しても依存症にはならない。
・なぜか?
・ある心理学者が「ラット・パーク」という実験をした。孤独な環境で麻薬を投与されたラットは依存になる。しかし、仲間やアクティビティが豊富な「ネズミ公園」に入ったラットは、麻薬を好まなくなる。
・依存症は孤独の病気だ。つながりがないと、人は他の快楽を探そうとする。
・現代、人はますます孤独になっている。その中でスマホやその他、さまざまなものに依存しつつある。
・依存は、個人の問題ではなく、社会の孤独の問題である。
・アディクションからコネクションへ。ひととのつながりが解決への手がかりだ。
文字起こしではないので、ぼくの主観がある程度入った要約である。
結論は、正しい。ぼくも共感する。
ぼく自身、孤独におぼれ、汚れたボロアパートにこもり、人との付き合いを遠ざけ、何年も酒を飲み続けた。
AAに来て仲間を得、プログラムを行い、酒をやめることができた。
孤独は誰にとっても大きな問題だし、アディクトにつながりを呼びかけ、社会との絆を訴えるジョハン・ハリ氏の結論はぼくも大いに賛成する。
しかし、ぼくは彼の主張にいささかの疑問を感じる。
一言で言えば、問題を簡略化しすぎている。その上、原因と結果を混同しているように見える。
上のビデオをはじめて見たとき、ぼくも感動した。
しかし2回目に見たとき、小さな疑問を感じた。
彼が論拠にしているラット・パーク実験は初めて聞いたけど、これほど画期的な研究なのになぜ今まで依存症業界で知られていなかったんだろう?
ぼくはアディクション関連の話題はネットでなるべくフォローしていたつもりだけど、このラット・パーク実験は知らなかった。
調べてみた。
カナダの心理学者、ブルース.K.アレクサンダー氏が1980年に発表した論文だ。
ラットパーク - Wikipedia
Rat Park - Wikipedia
上のウィキペディア、日本語版と英語版で大きな違いがある。日本語版にはたいせつなポイントが抜けている。
アレクサンダー氏のラット・パーク実験を再現しようとした研究は、いずれも失敗している。
再現に失敗した研究のひとつでは、ラット・パークと独りぽっちの、「両方の」ケージのラットとも麻薬摂取が減っていた。麻薬に溺れるネズミとそうでないネズミとでは、遺伝的要素のちがいが関与しているのではないか、と結論づけている。
アレクサンダー氏がラット・パーク実験を行ったのは1970年代の終わり。まだ依存症の科学がいまほど進歩していなかったころだ。それに比べ、今はさまざまな研究が進み、多くのことが分かっている。
アレクサンダー氏の仮説では、孤独という「環境要因」が依存症の原因であるという。
しかしその後の多くの研究で、依存症の原因は「遺伝的な要素」と「環境要因」の掛け合わせであるとされ、現在はこれが定説とされている。
Module 2: Etiology and Natural History of Alcoholism
アルコール依存症に限って言えば、遺伝要素が50%から60%と言われている。
そういった遺伝要因を持つひとにストレスや飲酒習慣などの環境要因が加わって、アルコール依存症が発症する。
遺伝は、何も親がアルコール依存症だとか大酒飲みだとかに限らない。
たとえば、お酒を飲んだときの反応性のちがいは遺伝する。お酒を飲んでもあまりグタッとならず、どんどん飲めちゃって、酔い覚めの不快さも少ない。そう言う体質はそうでない人に比べて、長じてアルコール依存症になりやすい。この特性は多くの研究でくり返し実証されている。
Subjective response to alcohol - Wikipedia
アルコール依存症は、遺伝が半分、環境が半分。
ゆううつな話だけど、これが今の科学界のコンセンサスだろう。
そして環境要因も孤独だけじゃなく、大量飲酒、大量飲酒せざるを得ない職場や家庭の環境、幼児期のトラウマ、酒へのアクセスのしやすさ、ストレス、色んな要素があると思う。
ぼくは孤独とアルコール依存症について、自分自身の体験としてこのブログに何度も書いてきた。
しかし、孤独が依存症の唯一の原因であり、孤独を解消すれば依存症が治ると結論づけるジョハン・ハリ氏の主張は、少々乱暴じゃないかという気がするのだ。
少なくとも方法論的に、1980年以降に達成されたあらゆる依存症科学の成果をスルーして、「ラット・パーク実験から孤独が依存症の本質」と結論づけるのは、フェアじゃない。
もちろん、過去に埋もれた優れた科学研究を掘り起こすのもアリだ。だとしてもそれは、その後の研究と対比した上で優位性を語るべきだろう。
「孤独が依存症の唯一の原因であり解決」説(長いので、以後はジョハン・ハリ氏説と書く)が危ういと思う点は、ほかにもある。
アディクトには、特段孤独じゃない人もいる。ぼくがクリニックに通っていたときにも大勢いた。
「自分は会社の重役で部下にも同僚にも恵まれ、関係もいい。友人づきあいもある。家庭も壊れていない。ただときどき飲み過ぎて仕事を休み、肝臓を壊しただけだ。飲み会だって今もじゃんじゃん行っている」
そんな話をクリニックの待合室で何度も聞いた。
孤独が原因であり解決なら、彼らは依存症ではないのだろうか。
また、対人恐怖やうつ、不安障害があって思うように人と接することができない仲間も見てきた。
ひどい暴力にさらされてきて、他人とまともに目をあわせることもできないアディクトもいる。
「孤独の解消こそが鍵」という見方は、人と接する力が十分ではない人にとって酷なのではないだろうか。
また、飲んでいるアル中がこのセオリーを都合良く書き換えて「オレが酒を飲むのは孤独だからだ。オレを孤独な気持ちにさせている家族、上司、周囲が悪いんだ」という自己正当化の詭弁に用いられないだろうか。
もし孤独を解消すればそれだけで依存症が治るのなら、治っていない(使い続けている)アディクトは、まわりが彼を孤独にしているからだ、周囲の対応が悪いからだ、と言う理屈が成り立ってしまう。
そして結果的に、アディクトの家族や関係者を傷つけてしまう可能性がある。
やっかいなことにアディクトはまわりをだまし、自分をだます。酒を飲みたいため、薬を使いため、もっともらしいウソをこしらえ、挙げ句の果てに自分でそれを信じ込んでしまう。
ぼくも酒を飲み続けたいがために親を責め、生い立ちを呪い、元妻や元上司の無理解を嘆いた。
自分が飲まなくてはいけないのは、彼らがストレスを与えているからだと訴え、自分でそのもっともらしいウソを信じ込んだ。
周囲に理解してもらえない自分は孤独だと、常に思っていた。
そんなアディクトの自己憐憫を、ジョハン・ハリ氏説は結果的にあと押ししてしまいやしないだろうか。そして、本人と同じかそれ以上に苦しんでいる家族を、さらに傷つけてしまわないだろうか。たとえば、こんな風に。
「主人の酒を何とかして止められないものでしょうか」
「依存症は孤独の病気です。彼が飲み続けるのは、孤独だからです」
「そんな…私たち家族は主人のためにできるだけのことをしてきました。私は主人のために仕事を辞め、つきっきりで世話をしてきました。厳しくしてはよけいに飲むと思い、彼を理解しよう、やさしくしようと努めてきました。それでも効果はなかったんです」
「それでも結果的に、彼は孤独だったのです。だから飲み続けたのです。孤独感を埋めればお酒は止まるのです」
この時代、孤独をまったくの他人事だと思える人は少ない。
誰もがどこかに孤独を抱えている。だから依存症は孤独の病気で、つながりの欠如が原因であり、人とつながることで解決する、と言う説は万人に訴えるし、受け入れられやすい。
くどいようだが、ぼくも孤独を解消しようという部分は賛成だ。
でも上に書いたとおり、ジョハン・ハリ氏説はラット・パーク実験以外のセオリーをスルーしているし、孤独というキーワードでover generalizationしている。
依存症は孤独な病気だ。
だから孤独からいかに脱出するかは、とても大きなテーマだ。
でも、孤独を解決すれば依存症が解決する、そんな単純でイノセントな話じゃない。
アディクションを解決するってのは、依存症が壊したものを、医療や自助グループやプログラムの手助けを得ながら、自分の手で直していく。
考えの歪み、自己憐憫、壊れた人間関係、失った仕事、家庭。酒で失ったものを、酒をやめて修理し、取り返していく。
それが回復だと思う。
孤独な環境が変われば、誰かに変えてもらえば依存症が解決するなんて、そんなもんじゃないと思う。
そう言えばわれらがビル・Wの物語も、ジョハン・ハリ氏説には当てはまらないよね。
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