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2017年3月28日 (火)

休日の午後はコーヒーを

アメリカはコーヒー大国だ。お茶と言えばほぼコーヒーしかない。緑茶、紅茶、中国茶のたぐいはほとんど流行っていない。たまにバーガーショップなどで紅茶が置いてあるが、うっかり頼むと異様に甘い紅茶フレーバーの砂糖水が出てくる。ほとんど炭酸飲料のあつかいだ。お茶と言えばコーヒーなのである。
で、コーヒーがまたピンキリなのである。渡米して半年ほどして、わが人生最大級のまずいコーヒーを体験した。とあるサンドイッチショップでふとコーヒーを頼んだら、なぜここまでと言うくらいひどい代物が出てきた。これがよく推理小説などで出てくる、泥水と例えられるアメリカのコーヒーかと、妙に感動したくらいである。

一方で、ものすごく美味しいコーヒーにもありつける。インディペンデント系のコーヒーショップも多く、その大半は豆から焙煎から店の雰囲気から、ものすごく凝っている。
ぼくがよく行くのはそのひとつ、Vと言うコーヒーショップだ。車で40分と遠いのが玉に瑕だが、行くだけの価値がある。
アメリカのコーヒーはとても安くて、レギュラーサイズで2ドル前後というところが多い。が、Vの最上級コーヒーは5ドル。2倍半。でもそれだけの価値がある。
オーダーを受けてから一杯ずつ目の前で淹れてくれるし、量も大ぶりのマグカップにたっぷりと入れてくれる。店員さんもとても愛想がいい。ぼくのたどたどしい英語でもにっこり笑って茶目っ気たっぷりに返事してくれる。チェーン店の店員さんが英語のおぼつかない客に冷たいのとは対照的だ。

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アメリカのコーヒーショップの多くは電源コンセントが豊富にあり、無料Wi-Fiを提供している。勉強している人、仕事をしている人も多い。けどスノッブな印象はなく、パソコンに黙々と向かっている人もいれば友だちと楽しくおしゃべりしている人、コーヒーを飲んで物思いにふけっている人、それぞれが好きなことをしている。店が広くて席数が多いせいか、長時間いても変な肩身の狭さは感じない。
まあ、仕事や勉強の人もだいたい2,3時間で帰って行くようだ。さすがにまる一日コーヒー一杯で粘っている人はいない印象だ。

と言うわけで、淹れ立てコーヒーを飲み、アサイーのシャーベットを食べ、仕事の資料などを読みつつ周りの人々を観察していると、なんとなく休日の午後が終わる。
午後の光が差し込み、表に誰かが駐めたピックアップトラックの濃いブルーに反射している。
落ち着くひとときです。

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2017年3月26日 (日)

回復は素晴らしい — 元Keaneのボーカリスト、トム・チャプリンの圧巻ライブ

キーン(Keane)と言うバンドをご存じだろうか。2000年代の初めごろにイギリスからデビューし、ボーカルの美しい歌声とキャッチーでセンチメンタルなサウンドで一世を風靡したバンドである。
方向性はちがうものの、美しいファルセットボイスとポジティブでやさしい曲世界は、コールドプレイとよく比較されていた。日本のバンドで例えるならば、スピッツあたりだろうか。

が、コールドプレイがヒット曲をかっ飛ばしてスタジアムクラスのバンドに成長したのに比べ、キーンはいつのころからか活動を聞かなくなった。
散発的に入ってくるネット情報によれば、ボーカルのトム・チャプリン(Tom Chaplin)が深刻な薬物依存に陥り、バンドは無期限停止に突入したという。
ぼくは彼らの(というか、トム・チャプリンの)音楽が大好きだったので、その後も彼らの曲はプレイリストに常に入っていた。ただ、彼らの新曲が聞けないのは残念でならなかった。

唐突に、そのトム・チャプリンがぼくの住んでいるあたりでソロコンサートを開くという情報が入ってきた。急いでチケットを手配した。なにせ、キーンのトム・チャプリンである。活動停止中とは言え、一時期はコールドプレイと肩を並べたバンドである。チケットはすぐに売りきれるに決まっている。
が。
案に相違して、チケットは売りきれなかった。それどころか、ふだんは全席指定のそのコンサートホールは、完全自由席だった。ぼくが到着したときは客は5分の入りで、最前席付近も空席があった。そして、二階席はクローズドだった。
恐ろしきは時の流れである。かつての超人気バンドも、いまや閑古鳥か。
きっとクスリの問題もちゃんと解決していないんだろうな。昔の原田真二(古っ!)を彷彿とさせる愛らしいルックスも、きっと衰えちゃっているんだろうな。声も出なくて、ファルセットを駆使した昔の曲もやらないんだろうな。

そんな暗い想像をして、ちょっと帰りたい気分になりながらぼくは彼が現れるのを待った。
ちなみに周囲は7割方が女性である。ぼくの隣は、30代の中国人女性3人組だった。楽しそうにキーンの話をしている。きっと青春時代にキーンの音楽にひたっていたんだろう。ああ、もうすぐ出てくるのはヨロヨロの元トム・チャプリンに決まっているのに。

客電が落ち、バンドが現れた。ステージにはエレクトリックピアノが置いてある。てっきりキーンと同じようにトム・チャプリンはピアノを弾き語りすると思っていたのだが、そこにはバンドメンバーが座った。
曲が始まり、ボーカリストが現れた。
あれ?誰だこの元気のいい色男は?
ぼくが知っているトム・チャプリンは、線が細く、前髪を垂らし、うつむき加減でピアノを弾く男であった。が、いま目の前にいるのは胸を張ってハンドマイクで歌い、ステージ狭しと動き回るエネルギッシュな男である。髪は短く、スキニーなジーンズとTシャツ、筋肉質で引き締まり、そして体中からエネルギーがあふれている。
キーンのボーカリストの繊細なイメージはなく、引き締まった身体からあふれ出てくる声量いっぱいの歌声。
隣に座っていた妻から、この人がボーカルなの?と聞かれるが、確信を持って答えられない。誰なんだこの男は?
だが、曲が2曲目に進んだあたりで、ようやく確信した。この男は、まちがいなくトム・チャプリンだ。こんなに歌がうまい男はほかにいない。こんなに高音域とファルセットをやすやすと操れる男はトム・チャプリン以外にはいない。何よりも、このポジティブでやさしい音楽は、まちがいなくキーンの楽曲を作ってきた男のものである。

こいつ、回復しやがった…。

バンドの演奏もとてもいい。タイトだけどタイトすぎず、ドライブしすぎない。メンバーのアイコンタクトやちょっとした仕草から、仲が良さそうなのが見て取れる。
だが何よりも、トム・チャプリンが圧巻だった。ひとつ。キーン時代よりさらに歌がうまくなっている。ふたつ。体中にエネルギーが満ちている。みっつ。客のヤジに笑って応えたり、ライブをとても楽しんでいる。

ライブ中盤で、少し長いMCが入った。
バンドのメンバーはいったん袖にはけ、トム・チャプリン一人が中央のピアノの前に座った。
そこで彼は、自分のアディクションについて語った。
自分がクスリに溺れていたこと。オーバードーズで死にかけ、妻が取りすがって涙を流したこと。クスリをやめる決心をし、リハビリ施設に入ったこと。そしていまはクスリをやめて1年になること。今回のソロアルバムが、自分のアディクションと回復についての個人的な体験をもとにしていること。
そしてピアノの前で彼はこう言った。
「回復は素晴らしい。ほんとうに、素晴らしい」

割れんばかりの拍手。

ソロコーナーを経て、またバンドが入り後半が始まる。
大半がソロの曲だが、ところどころでキーンの曲が混じる。本編最後の曲はキーンの名曲「クリスタル・ボール」。まわりはみんなサビを歌っている。隣の中国人女性たちも歌っている。自分も歌いたいがなにせキーが高くて声が出ない。
そしてアンコールは、これまたキーンの名曲、Everybody's Changing。
最初から最後までトム・チャプリンは歌い続け、動き続け、ライブは終わった。

以前にナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーのところでも書いたが、アディクションから回復したアーティストには独特の何かがある。単に明るくなったとか体力がついたとか、そう言うことではない。
精神的なタフさ、強靱さを感じるのだ。
こう言っちゃあ何だが、アディクションとはぶっちゃけ「負け」である。
そりゃそうだ、大成功を約束されたバンドをつぶし、死にかけて奥さんに本気で愛想を尽かされかけ、いまだに中規模のコンサートホールすら満員にできない。経済的にも人気的にも、勝ち組コールドプレイに遠くおよばない。
だが、それがどうした。それが何だというのだ。
彼の体中から、回復のよろこびがあふれてくる。音楽を奏で、歌を歌うよろこびがあふれてくる。
そこにはアディクションで自分の人生をいちど失いかけ、それをまた取り戻した男ならではの強靱さ、タフネスがみなぎっている。
たぶん、キーンがあのまま成功路線をひた走っていたら、こういう風にはならなかっただろう。トム・チャプリンはいまだにピアノの後ろで繊細な歌と演奏を続けていただろう。
回復は素晴らしい。そう、力強く彼が言うとおり。回復は素晴らしい。いっかい負けてそこから這い上がってきたものは、それをやったものだけが持つ輝きがある。

家に帰ってからキーンの曲をもう一度聴き直した。デビュー当時からエンジェルボイスと表現された歌声。
が、明らかに、誰の耳にも明白に、きょうのライブの方が歌がうまくなっていた。歌唱力もさることながら、エモーションを表現する力がすごいのだ。圧巻としか言いようがない。
そして、ほんの少しだけ、回復は素晴らしいと公言できるミュージシャンが日本にいないことをさびしく思う。
彼が12ステップグループに入っているかどうかは知らない。回復したミュージシャンのインタビューを読むと、リハビリ施設に入所したあとは通院や定期的なメディカルチェックアップだけで何とかしているという話も良く聞く。それはそれでかまわない。
でも、依存症からの回復というすばらしい体験を、トム・チャプリンにはぜひ伝え続けてほしいと思うのだ。それは伝えるに値するし、彼の回復の姿は、大勢のファンと回復途上のアディクトに勇気を当たるのだから。
2017年の上半期は、イギリスを中心にツアーをするようだ。いくつかの会場はソールドアウトが出ている。よろこばしいことである。
願わくば彼の音楽が世に伝わり、多くの人の耳に触れて欲しいと思う。

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2017年3月25日 (土)

インセンティブ・サリアンスとミルクにウィスキーを垂らしたジムという男の話

アルコール依存症という病気について調べてみると、ビッグブックに書かれている内容と共通する点が多いことに気がつく。
少し前からインセンティブ・サリアンス (incentive salience)と言う言葉をよく見かけるようになった。
正確な日本語訳を知らないのだが、「報酬刺激への過敏な反応性」というあたりだろうか。
依存症に限って言えば、アルコホリクは飲酒刺激に対する反応性が過敏だ(あるいは過敏だった、ある程度のソブラエティが得られるまでは)。

インセンティブ・サリアンスは、例えてみれば「グラグラにゆるんだ引き金」みたいなものだろう。
ふつうの人にしてみれば引き金を引くに至らないようなちょっとした刺激で、依存症の鉄砲はいともかんたんに暴発してしまう。
科学者によれば、これは依存症の渇望のうちwanting(依存物質がほしい、必要だという欲求)に関連しているという。
(関連して良く出てくる言葉で、likingとwantingの二つがある。likingは快楽のためにそれを求めるという感覚、wantingは必要だからそれを求めるという感覚、だそうだ。酒で言えば、飲んで気持ちよくなりたいというのがlikingで、不愉快さや嫌な気持ちを避けるために飲みたいというのがwanting)

ある論文から引用してみる。

この種のwantingはしばしば報酬に関連した刺激、または鮮明な報酬物質のイメージによって引き起こされる。ふつうの人のwantingは、自覚している特定のゴールに結びついている。しかしインセンティブ・サリアンスのwantingは特定のゴールへの結びつきが弱く、報酬刺激に強く結びついている。その刺激は、報酬物質を魅力的に見せ、それを手に入れ、使いたいという強い欲求に変わる。

Liking, wanting, and the incentive-sensitization theory of addiction. - PubMed - NCBI

要するに、飲酒に関する刺激を受けると、魅力的だな、飲んだら気持ちいいだろうなという欲求が高まり、それがどういう結果をもたらすかはうまく考えられなくなると言うことだ。
また上に挙げた論文によれば、依存が進めばwantingの感覚は、ドパミンシステムを介して強まっていくという。

この話を読んだときにぼくが思い出したのは、ビッグブックに書いてあるジムの話だ。
AAメンバーなら誰でも知っているこの哀れな(そしてわれわれの大半が共感できる)男は、酒のために仕事も家族も失いかけ、今度飲んだらすべてを失って精神科病院に逆戻りすることが分かっていた。
にもかかわらず、「ミルクにウィスキーをちょっと垂らしても害はないだろうな」という思いつきが頭に浮かび、その瞬間、それがどういう結果をもたらすかという考察はすべてわきに押しやられた。結果、ジムは酔っぱらい、またしても再発の道を歩き出した。自分が依存症であり、こんど飲めばどういう結果になるのか正確に分かっていたにもかかわらず。

BBではこれを「狂気」と描写している。そのとおり。そして2017年現在の依存症の科学に照らして言えば、ジムがおちいった罠の正体はインセンティブ・サリアンスだろう。
ジムのグラグラになった飲酒の引き金は、「お腹もいっぱいだし、ミルクにウィスキーを垂らしても大丈夫なんじゃないか」というふとした考えによって、あっけなく引かれてしまった。
きっとwantingが押し寄せたとき、彼の頭の中では関連したドパミン活性が高まって、結果を合理的に類推することができなくなっていたんだろう。
それを狂気と呼ぶのは、正常ではないという意味では正しい。ただ、実際に脳の中でwantingやら渇望やらが生じているときに、それを意志の力でコントロールするのは無理だろうとも思う。
BBでは、最初の一杯に対する防御はハイヤーパワーだけがもたらすという。ハイヤーパワーのことを科学がどう解釈しているのかは知らない。だが、BBにせよ科学にせよ、少なくとも「自分の力ではどうしようもない」と言うことだけはたしかだ。

上に挙げた論文には、後段になって怖いことが書いてある。
コカイン、覚せい剤、ヘロイン、アルコール、ニコチンなどの薬物乱用により過敏化された(sensiteized)ドパミンシステムは永続的に続く。中脳辺縁系の過敏化は上記薬物のくり返し大量使用により発生し、いちどそうなれば、おそらく半永久的に残る。

上記の説は、人によっては受け入れられないかも知れない。じっさい自分も含め、多くのAAメンバーはそうかんたんには再飲酒しない。ジムのような経験を外食するたびに繰り返していたら、命がいくつあっても足りない。ソブラエティが長引くにつれて、再飲酒の引き金はそうやすやすとは引かれないようになってくる。ありがたいことに。

だがその反面、引き金の軽さ(インセンティブ・サリアンス)が残るという上記の説が正しいんじゃないかとも、感覚的に感じる。
われわれが再飲酒せずに済んでいるのは、AAプログラムを身につけたからであり、仲間との支えがあるからであり、飲酒刺激がやってきたときの対応策をいろいろと学んできたからである。つまり、引き金に触らない方法、引き金にカバーを掛ける方法、引き金にかけた指をゆるめる方法を身につけてきたからであって、引き金の軽さそれ自体は変わっていないような気もする。
うまく逃げる賢さを学んだのであって、酒を克服する強さを手に入れたわけではないのだ。

そう考えると、われわれは常に用心する必要があるし、「依存症は過去のこと。あんなひどい状態にはもう二度と戻るわけがない」と考えるのもまちがいだろう。もちろん、解決方法がAAでなくてもかまわない。AAをきっかけに飲酒問題を解決し、いまはミーティングから離れてしあわせに暮らしている元メンバーを何人も知っている。彼らが彼らなりの方法でインセンティブ・サリアンスの罠をうまく回避して、その人らしく生きているのなら、それは僥倖である。
ただ、問題は常に残っている。科学者が言うように過敏化された引き金が半永久的に残るのであれば、備えを続けるのが当然だ。そう言う意味では、プログラムを続け、仲間と支えあい続けるのはごく自然なことだ。まさに、人を助けることで自分も助かる。自助グループの自助グループたる本質の部分だろう。

それにしても、酒をやめ続けることで何が変わり、何が変わらないんだろう。
やめ初めのころよりも気持ちは安定した。飲んでいたころ、やめ初めのころのような感情のぶれは少なくなってきた。また、激しい飲酒欲求にさいなまされて苦しむこともなくなった。
でも、たぶんインセンティブ・サリアンスは残り続けるし、何らかの依存症的な特性は残り続けているんだろうと思う。それはたとえば「一度飲み始めたら元に戻る」という肉体的な特性かも知れないし、依存症的な思考のゆがみみたいなものなのかも知れない。
いずれにせよ、科学は進み続けているものの、まだまだ未知の領域は多い。変わらない部分を何とかしようとするより、自分にできること、気づきを得て自分を変えられることに集中した方が良さそうだ。

それにしても、ジムはその後どうなったんだろうね。無事に酒をやめられたんだろうか。

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