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2014年2月18日 (火)

ジム・モリソンとステップ6,7

you can petition the Lord with prayer?
you can petition the Lord with prayer?
you can petition the Lord with prayer?
you can NOT petition the Lord with prayer.

ジム・モリソンの強烈なつぶやきとシャウトで始まるドアーズの組曲、soft parade.
祈りによって神に誓願できるか?と三度つぶやいたのち、祈りによって神に誓願する事なんてできない、という凄絶な雄叫びが響く。
ぼくの大好きな曲の一つだ。
祈り、神という言葉をちりばめたこの曲。
ジム・モリソンは当時流行だったヨガや瞑想などに興味があり、祈りや黙想の有効性はそれなりに認めていたはずだ。
この叫びの意味は何だろう。単に挑発的、反社会的なフレーズを繰り出したかっただけなのだろうか。

ぼく個人としては、祈りと黙想はとても必要なことだ。
日々の棚卸しを行い、自分が霊的な成長の路線から外れていないか点検する。
自分の日々の過ちを点検し、良かった事も悪かったことも認め、手放せるように祈る。
神の意志を知ること、そして自分の意思ではなく神の意志が行われるように祈る。
でも、それだけではやっぱり足りない。
行動が伴わなければ、何も変わらない。

ジム・モリソンは反逆者だった。
社会にたてつき、世の常識に刃向かい、権威で自分たちを抑圧するものを挑発した。
彼にとって、神の代弁者を名乗りながら権威を振りかざす教会や聖職者は唾棄すべき権力、欺瞞の象徴だったんだろうと思う。
反面、「祈りでは」神に誓願できないと叫ぶ彼は、祈り以外の何かで神さま、あるいは自分を越えた力とのつながりを求めていたんじゃないだろうか。

12ステップは行動のプログラムだ。
日々ステップを使って生きていくのは、それなりに骨が折れる。
短所を取りのぞいてくださいと謙虚に神に求めつつ生きていくためには、絶えず膨張しようとする自我を見つめ、戦わなくてはいけない。
そうしないと自我はあっという間にふくれあがり、高慢で思い上がった自己正当化のかたまりになってしまう。
でもステップの提案に従って行動すると、かならず成果が得られる。
たとえばいやな相手を屈服させたい、自分が他人より優れていることを証明したいという気持ちを抑えることができたとき、われわれは少しだけ神の意志を知ることができる。
エゴを縮小させた分、より良い調和的な考え方が入ってくる。
ぼくはそれが好きだ。12ステッププログラムがもたらす考え方、生き方が気に入っている。
だからいまもステップを使って生きていこうとしているんだと思う。

ジム・モリソンの強烈なシャウト。
欺瞞やエゴ、狭隘さを越えて、人間のいやな側面の向こう側、もっと大きな力がもたらすものを知りたいと、きっと彼も願っていたんじゃないだろうか。
やっぱりステップ6,7だね。

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コメント

 スポンサーと読み合わせをしていくなかで、4・5を終わらせている人を見ていてどうして辛そうなんだろうと思ったときに、6・7を動かしていないと辛くなるんだろうなと自分で思いました。12ステップすべてが大切なんですけどね。4・5ばかりに焦点を当てすぎなんでしょうね。

 欠点を楽しんでいないだろうかという問いかけが自分には大きなものでした。

 あと6・7に差し掛かった時に祈るだけは止めましょうとスポンサーと話したのが印象的でした。行動しないから辛いままなんだということでした。

 行動すること=神に求めること、なのかなと最近は思いますが。

 祈ることを考えるときに自分は「コレヘトの言葉」が出てきます。定められ時があるとしても、酒を止めて生きていきたいから祈るというのが最近の私の感覚です。

 いつもブログありがとうございます。なんかこう良い刺激というか関心というか、影響をありがとうございます。

投稿: とおる | 2014年2月19日 (水) 12:42

とおるさん

12ステップについて考えると、いつも少しずつちがう側面が見えてきて、なんだか手になじんだ楽器みたいに思うときがあります。
成長の道しるべですね〜。

投稿: カオル | 2014年2月20日 (木) 16:37

最近、私は信仰を持つ事が難しい人間なのではないか?と言う確信に似た感覚を覚えます。
AAの中にいる為には、まず信仰する事が前提で何もかも進んで行きます。
何も信じられない私は何も進んでない事を痛感します。

第5章のこの簡単なプログラムに自分を完全にゆだれられない~回復する率が平均までいかない人たちである。

どんなに縋りたい気持ちがあっても信仰、信じる事が出来なければ、行動も出来ない、したくないと思ってしまうのです。

ミーティングに参加出来ていませんが、AAとの関わりを絶つ事も出来ず、中途半端な自分にうんざりします。

ミーティングに通い回復していると思う人を羨ましいと思ってしまう、嫉妬なんだって分かっています。
でも、行動する事の原動力ってやっぱり信仰なんだと思うんですよね。分かち合いの大切さや安心感など、欲しい物がそこにあると分かっていても、仲間の些細な言動に腹を立て2度と行くか!と思ってしまったり、AAが必要だけど関わりたくないって気持ちで、行動も出来ず、分かち合いも出来ず、どんどん孤独に追い込まれている環境をどうにかしたいとは思っています。

でも、自分にどこまでも素直になる事が必要となる行動、言動を今の時点でミーティングに行ってありのまま話してしまうと周りを不愉快にさせる事しか言えない様な精神状態では行くべきでは無い、と言い訳して動かないままです。

お酒を飲んでないだけの酔っ払いなんですよね、考え方があまちゃんなんだって思います。
どうしたら、AAにキチンと向き合えるのでしょうか?
素直に正直に謙虚にって事が恐ろしくてたまりません。

投稿: さんちぇ | 2014年3月 1日 (土) 03:03

さんちぇさん、お久しぶりです。
以前に投稿いただいたのが、2010年4月25日のエントリーでした。
ほぼ4年ぶりですね。本ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
率直な心境をコメントされていることはスゴいと思いました。

信じるってのは、きっと誰でもやっていることだと思うんですよ。
さんちぇさんだって「自分は何も変わらない、変わるはずがない」って信じているじゃないかと思います。これもある意味、立派な「信仰」です。
信仰って言葉が大げさなら「予想」「予期」でもいいと思います。ワンちゃんもネコちゃんも、甘えたりおねだりすればおやつがもらえると予想、予期しておねだりしますよね。信じる力、予想する力、予期する力はさんちぇさんにも備わっているはずです。
AAの先ゆく仲間が酒をやめて楽しそうに生きているのを見て「自分もこうなれるはず」と予想・予期し「同じやり方でやってみよう。そうすれば自分も同じようになれる」と思う。
スタートはこれだけでいいんです。
それはきっとさんちぇさんもお分かりになっていると思います。それでもうまくなじめないのは、

>欲しい物がそこにあると分かっていても、
>仲間の些細な言動に腹を立て2度と行くか!
>と思ってしまったり

ここんところかな、と推察します。
われわれアルコホーリクはちょっとイヤなことがあるとそのことで頭がいっぱいになって、楽しいこと、すばらしいことの記憶を凌駕してしまうと言う欠点があります(トホホなことですが)。
メンバーみな欠点を抱えながら回復の途上です。不愉快なこと、不用意な発言もあるでしょう。
なんとかさんちぇさんにとってプラスになることに焦点を当てられるといいのですが。
もしうまく話せないようでしたら、ミーティングに行って座っているだけでもいいと思うんです。

投稿: カオル | 2014年3月 4日 (火) 10:06

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