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2014年1月11日 (土)

死にいたる病、回復する病

死に至る病とは絶望のことである、とキルケゴールは述べた。
だとしたら、依存症とはまさに死に至る病だ。依存症の本質はコントロール障害でも渇望でもない。
生きる望みを失い、生きる意味を見失い、ただひたすら絶望の苦しみから目をそむけようと飲酒を続ける。
それは「絶望」としか名付けようのない行為だ。そしてそのあげく、酒にまみれて死んでいく。

ある仲間のことを思い出していた。
彼の死からもうすぐ6年になる。いまでも彼のことを思い出す。
カラオケボックスで撮ったぼくと彼の写真を、ある仲間がTシャツに印刷してくれた。
写真の彼は不敵な笑みを浮かべ、まるで思春期の少年のようだ。


ある仲間の死


実は死の間際、ぼくは彼の家族から連絡をもらっていた。
彼が最後の連続飲酒に陥ったとき、彼の母親がぼくに電話してくれたのだ。
息子はすべてに絶望し、自室にこもって飲酒しているという。
この電話で彼と話をさせてくれるよう、困惑する母親に頼んだ。二階に駆け上がり、またすぐ駆け戻る音が受話器から聞こえた。
息をしていない。どうしたらいいのか。
すぐに救急車を呼ぶように。そう伝えたとたん、電話は切れた。

彼の死因は、どう分類されるのだろう。
吐物による事故的な窒息。自己破壊的な飲酒の果ての自殺。
でも、ぼくはこう思う。
彼を死に追いやったのは、絶望だと。

霊的に病んでいる、霊的な病、とAAの始祖ビル・Wは述べた。慧眼である。
絶望にまみれて生きる意味を見失い、アルコールという麻酔が緩慢な死をもたらすことを陶然と待ち望む。
生きているのが苦しくてたまらない。でも死ねない。酔いの果てに死ねたら本望だ。
きっと彼もそうだったんだろう。死にたいんじゃない。そうじゃない。生きていることの苦痛に耐えられないのだ。
少なくともぼくはそう思っていた。そうなりつつあった。そう願っていた。

回復とは、回復の希望を見いだすことである。ぼくはそう思う。
ひとかけらでもいい。希望があれば人は生きていける。何の希望もなければ、ひとは生きていけない。
再飲酒しようが、入院しようが、希望が見えていれば前に進める。
そしてその希望を伝えることができるのは、共通した問題を持ち、なおかつ解決した経験を持つ仲間だけだ。
医療関係者にできることではない。
回復者以外に回復の希望と経験を伝えられる者はいないのだ。
われわれが困り者の仲間に対して「あんなやつ、飲んで早く底をつけば良いんだ」と言い捨てるとき、われわれはそのことを忘れている。
絶望を、さらなる絶望で変えることはできないのである。

彼のことを思い出しながら、ほんの少しでも彼に希望を手渡せていたら、と思わずにはいられない。
後悔するまいと思っても、気がつくとあのとき何か一言声をかけていれば、時間を取って話し合えていれば、と考えてしまう。くり返し、何度も。
もちろん過去のことはどうにもならない。彼は去った。二度と戻らない。
でも、この先自分のことは変えられる。
少しでも成長し、回復し、新しいアルコホーリクに回復の楽しさを伝えたい。
それが、ぼくができる、彼に報いる方法なんだと思う。

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