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2013年2月27日 (水)

AAを離れた友人と

先日、AAを離れた友人と会ってきた。
AAを離れて4、5年になるだろうか。友人なりの充実した人生を過ごしているようで、何よりである。
互いの近況などを話したあと、AAを離れた理由をたずねてみた。
「何かがちがう」と感じたんだそうである。
友人は上京してしばらくのあいだ、何ヶ所かのミーティングに通ったそうだ。そこで話される内容に、違和感を感じた。
それはたとえば飲んで苦しんでいたころの話であり、いまAAプログラムによって回復できていることの幸せだったりした。でも、何かがちがう。
直截には、友人が抱えている人生の困難さと、そこのグループで分かち合われた内容との間にずれがあったのだろう。でも、友人はAAに何年も通いつづけ、グループを立ち上げた経験もある。少しくらいのずれでAAを離れてしまうような人ではない。

ぼくが思うに、友人は回復を分かち合えなかったんだと思う。
飲んで苦しかった過去を分かち合うのはたやすい。でも、回復を分かち合うのはむずかしい。回復自体、人によって濃淡はさまざまだ。立場、性別、年齢、職業、生い立ちや飲酒歴。さまざまに回復の道のりはちがっている。
でも、われわれは12ステップという共通の言語を持っている。12ステッププログラムに沿った回復の道のりを歩いていけば、そこに回復の分かち合いが生まれる。

海外のミーティングを何ヶ所か訪れた。けっして多い数じゃないけど、そこには12ステップの分かち合い、ステップに沿った回復の物語が分かち合われていた。
いっぽうの日本では、ステップに沿った話を聞けることがまだまだ少ない。先行く仲間がステップを使わなければ、後につづくものが使うはずもない。
ちょっと見にはAAともステップともまるで関係のない話をしているように思えて、その中にしっかりと12ステップが根付いている話をするひともいる。一方で、12ステップの話をしていても、空疎で背伸びしているだけの場合もある。この辺はもう、感性の問題かも知れないけど。でも、12ステップにそって成長しようと努力し続ければ、いずれそれは実質のともなったものに変わっていく。

自分が12ステップにそった回復していないと、そのいびつな回復のあり方はかならず新しい仲間に伝播していく。なぜなら、きちんとステップを踏んでいくよりその方がかんたんだからだ。

「ステップは一生かけて行うものだから、12ステップを理解できたなんて言うのはおこがましい」
「自分は直接の埋め合わせを行っていない。飲まないことそれ自体が傷つけた人への埋め合わせだからだ」
「ミーティングに出つづけることがすなわち12ステップの実践だ」
そういう意見はもっともらしいし、マネしやすい。でも、それは単なる自己正当化に過ぎない。

友人の側に12ステップが足りなかったのかも知れない。グループ側の問題かも知れない。あるいはその両方かも知れない。
問題を指摘するのはたやすい。でも、ぼくは自分のこととして考えてみる。想像してみる。
強迫的飲酒欲求がおさまり、酒に手を出さないでいることに以前ほど労力を費やさずに済むようになったとき。
ぼくは、なぜAAに通いつづけるのか?
惰性で通い続けられる地元のホームグループを離れて遠隔地に住んだとき、そこでかならず、自分がAAメンバーであり続ける理由を探すことになる。
初対面のメンバーたちの中で、ニューカマーのように手取り足取り教えてもらうこともなく、風習の異なるグループに、自分から溶け込んでいかなくてはならない。その労力を払う動機は何か?

その答えは12ステップによる回復の力だと、ぼくは思う。
グループの力も、ウェルカムな雰囲気も、回復の力がみなもとになっている。

ぼくがAAメンバーなのは、楽しいからだ。
12ステップを使って成長していくのが楽しい。自分が変わっていき、以前はできなかったこと、やろうとさえ思わなかったことをやれるようになるのが楽しい。12ステップという共通の言語を使って仲間が回復していくことがうれしい。新しい仲間の手助けも、スポンシーの相談に乗るのも、共通言語を通じてそこに何かが生まれ、自分と他人の人生がゆたかになる実感があるからだ。
どれもAAにつながる以前のぼくには、ひとかけらも持ち合わせていなかったものだ。
ぼくたちはそれを回復、と呼ぶ。あるいは成長、と。

妻も交えて3人でひとしきり話し、友人は友人の生活へ帰っていった。AAを離れても、AAへの感謝と親愛の気持ちが根付いているのを感じた。

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2013年2月26日 (火)

暖かかったり寒かったり

東北4泊の出張仕事が終わり、神奈川にもどってきた。
岩手は駅のホームに立っているだけで手がかじかむ寒さだったのに、神奈川はコートの前を開いていても平気なあたたかさ。それでも周囲のひとは分厚いコートを着こみ、マフラーを巻いている。
岩手のひとたちが零下の気温の中、大して厚着もしていないのとは対照的だ。
気温差の激しい土地を行き来していると微妙に体調がおかしくなってくる。
神奈川に来たばかりのころは寒さは苦にならない東北人体質だったのが、いまは東北人でも関東人でもない、中途半端な体質だ。東北では寒さを苦に感じ、関東では暖かさに違和感を感じる。
これもだんだん慣れていくのかね。

出張で職場を不在にしていた分、もどってきたら仕事がたまっている。書類棚には、期限を朱筆された書類があふれている。
げんなりするけど、どこかホッとする。ルーチンワークだろうが書類だろうが、自分が必要とされている、居場所があると感じることができるのはありがたいことだ。

スタッフ、お客さん。飛び込み依頼に突発事態。
わあわあ言いながら、てんやわんやの一日が過ぎていく。
ありがたいね。

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2013年2月24日 (日)

過去はいつでもよみがえる

ふとしたはずみに、過去がよみがえってくることがある。
もうずいぶん昔、無軌道な暮らしをしていたころのことだ。ぼくは失恋して、大学を留年して、酒を飲み、日々あてどなく小さな町をさまよっていた。
ぼくはずっと自分が傷つけられた側だと思っていたけど、よみがえってきた過去は、ぼくが傷つける側だったことを見せつける。
何人かのひとには暴言を浴びせ、好意でしてくれたことをののしった。
何人かのひとには、深い傷になってもおかしくないことを平気でしてきた。
誰だって、そんな不愉快なことは思い出したくない。思い出さない。
あれは昔のことだ。若いころなら、誰だって同じようなことをしている。自分だけじゃない。もう相手だって忘れてくれているだろう。
でも過去を忘れて調子に乗って暮らしていると、ある日いきなり過去がよみがえってくる。
どれだけ遠く離れようと、どれだけ時間が経とうと、ぼくたちは過去から逃げ切ることはできない。
逃げれば逃げるほど、忘れようとすればするほど、過去はある日よみがえり、ぼくたちの足もとをさらう。
ある種の呪いのように。

古い友人と話していて、不意に彼らの近況を聞いた。友人は、機会があって彼らと会ってきたという。よもやま話の中で、ぼくの話題も出たそうだ。
それを聞いて、不意に胸をわしづかみにされたように感じる。彼らは当時、どんな気持ちだったんだろうか。いまふり返って、どんな気持ちなんだろうか。恨んでいるんだろうか。怒っているんだろうか。ぼくは許されているんだろうか。

酒が止まって時間が経っても、埋め合わせは終わっていないことを思い知る。
どれだけ時間が経とうと、過去は変わらない。ただ、過去の意味を変えていくことはできる。過去にとらわれない生き方をすることも。
忸怩たる思いと痛みに満ちた過去を、未来への資産に変えていく。
そのためには、機会あるたびに過去と対峙し、埋め合わせをしていく必要がある。

過去から学べない者は過去に打ちのめされるように運命づけられているのだ。

—スティーブン・キング—

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2013年2月22日 (金)

夜の一関を歩き粉雪と冬の寒さに思う

4泊の長期出張中である。
岩手に2泊、福島2泊。
ホテル、実家、仕事先と転々をねぐらを変える。
一関市ではベイシーという高名なジャズ喫茶があると友人から聞いていたが、足を運んでみたらやすみだった。
最高級のオーディオを爆音で鳴らし、最高のジャズを聴かせるというので楽しみにしていたのだが。
むなしく店の写真を撮ってホテルに帰投する。

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2月の一関は寒い。極寒だ。
午後8時、気温は−6℃。宵の口といってもいい時間なのに、駅前もメインストリートも、お店が閉まっている。真夜中と思うほど人通りが少ない。
しん、と冷えた真冬の空気の中、人気のない通りを歩いていると、頭がすっきりと冴えてくる。

路上を粉雪が舞い、渦を巻いて踊っている。空気が冷た過ぎて、けっして固まらない。さらさら、と路上を流れていく。神奈川の雪とはまるでちがう。ああ、ほんとうに寒いときの雪ってこうだったんだよな、と思い出す。
真冬の猫間スキー場のてっぺんから凍てつく桧原湖を見下ろして、こんな粉雪が頬をなでるのを感じていたっけ。

思い出し、書き留めておかないとすぐに忘れちゃいそうなこと。

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2013年2月21日 (木)

大船渡、碁石海岸

仕事で岩手県の沿岸部に来ています。
陸前高田、大船渡。
津波の爪痕はいまだに大きく、見渡すかぎり「なにもない」沿岸部の荒野、その合間に残る建物の残骸が、被害の深刻さを物語っています。

震災風景はさんざんあちこちで取り上げられているので、ちょっと視点を変えてみます。
たとえば、大船渡市の碁石海岸。
きょうのお昼に訪れましたが、目に鮮やかな海岸の風景。まさにリアス式海岸のぎざぎざ。

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美しい風景、美しい自然が大船渡にはたくさんあるんだな、と思いました。
被災の地というレッテルを貼ることなく、美しい港の町として、大船渡の光景を胸に刻んでおきたい、と思いました。

ほんとうに、美しい町です。

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2013年2月18日 (月)

マイ・ブラディ・バレンタイン来日レポ、ゆらゆらサウンドの秘訣をみた!

マイブラことマイ・ブラディ・バレンタインのライブに行ってきた。
前にも書いたが、けっして一般受けするバンドではないにも関わらずチケットは軒並みソールドアウト。ぼくは抽選に2回落ち、主催smashの有料会員になってはじめて追加公演チケットを入手できた。
どう考えてもマイブラのファンが世の中に大量に存在するわけがなく、数々の伝説、逸話、滅多にアルバムを出さない・ライブをやらないレア度などがチケット争奪戦の原因である。
ぼくが行ってきたのは2月10日の新木場コースト。追加公演。ツアー最終日である。
開場時間ちょうどに新木場コーストに到着したんだけど、まだ客入れが始まっていない。アナウンスによれば、サウンドチェックが延びているとのこと。待っている間に、一枚の立て看板に気がつく。

なんと、バンドの意向で、大音量対策のため耳栓を配るという。きっと例の、途中で行われる大ノイズ大会対策だろう。親切である。気配りである。いや、ほんとに親切なら耳がこわれるような大音量を垂れ流さないような気もするけど。
定刻より10分ほど遅れて客入れが始まる。ぼくと妻は早めの整理番号だったおかげで、前方5列目付近を確保できた。ふつうならありがたいのだけど、例の大音量ノイズ大会を思うと複雑な気分だ。そう言えば早めに入って後ろのひな壇席を確保してた人も多かったな。
開演を10分すぎて、ライブスタート。
曲名は…すみません、分かりません。ラブレスからの曲は分かったけど、それ以外はまったく分からない。つか、どの曲もだいたいいっしょである。ディレイ、リバーブ、トレモロを駆使したゆらゆらギターから始まり、ゆらゆら、もわーんとしたつかみ所のない曲が続く。
ドラムはパカスカと景気よく太鼓を叩き、ベースものりのり。しかしギターとボーカル、それに全体的なミックスがもわーっと抽象的なため、ビート感は薄い。つか、ない。オールスタンディングライブの常で、演奏が始まると前方に客が詰めかける。詰めかけたは良いけど、みなそのままボーゼンと立ち尽くしている。ノリようがないもんなー。

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ステージ上手側、フロントマンのケヴィン・シールズ氏がギター・ボーカルで、もうひとり下手側のベリンダさんもギター・ボーカル。しかし、お二人とも何を歌っているかさっぱり聞こえない。もともとボーカルを聞かせるバンドではなく、「もわーんとしたノイズサウンドの海に、ときどき美しい歌メロやギターの音色が聞こえる」というのがバンドの(たぶん)コンセプトだろうから、まぁバンドの意図どおりなのだろう。
ぼくはケヴィン・シールズの前方にいたんだけど、途中で気がついた。ケヴィン氏、演奏中ずーっと右手でトレモロアームを握っている。ギターはもちろん、fenderのジャズマスター。つねにトレモロアームを握った状態でピッキングをしている。こ、これがマイブラのゆらゆらサウンドの秘訣か!
どうりで変な手つきでピッキングしていると思った。手をすぼめてピックを持っているから弾きにくくないのかと思ったら、ずっとトレモロ握りっ放しとは。そりゃ音程が揺れまくってゆらゆらするわけだ。
そんなケヴィン氏であるが、たまにはゆらゆら弾きしたくないときもあるのだろう。そう言うときは、ピックを持った親指と人さし指の輪の中にトレモロアームを通して単音弾きをしていた。そうかそうか、トレモロアームは何が何でも離さないのかー。
トレモロアームを一曲通して揺らしていればピッチが狂うのだろう。一曲ごとにギターを交換するケヴィン氏。交換しても交換しても、どれもジャズマスターである。ロックナットのギターにすればいいのに…。チューニングなんて関係ないような曲ばっかりなのに…。
ほとんどトークもないままライブは進んでいく。ベリンダ嬢がかわいらしい。客席から「ベリンダー!」と声がかかると、はにかんだように笑って軽く手を振る。いい人そうだ。ケヴィン氏も、ときたま観客に応えてニヤッと笑う。
それにしても曲の区別がつかない。テンポが速いか遅いか、トレモロのゆらゆらかディレイのゆらゆらか。そのくらいしか曲の区別がつかない。ちゃんと予習しておけばよかった。
そうこうしているうちに、ある曲の途中でとつぜんノイズ大会が始まった。ドラム、ベース、ギター2台、すべてエンディングの時のようにじゃらじゃらとフリーテンポで楽器をかき鳴らしはじめる。ドラムとベースの音は、まるで落雷のようだ。ケヴィン氏はギターをかき鳴らしながら、ときどき足もとのエフェクターを操作し、ノイズの色付けを変えている。
例えて言えば、ずっと電車の高架橋の下に立っているようなもんだ。ノイズの色付けが変わるといっても、京急線と京浜東北線の高架橋の下のちがいぐらいだ。
これが20分ちょっと続いた。始まってすぐ、妻は耳栓を装着。迷ったけど、これ以上うるさくならなそうな雰囲気だったのでぼくはそのまま聞いていた。
ノイズに身をまかせていると妙に心地よくなってくる。同時に、だんだん退屈になってくる。みんなどういう反応で聞いているんだろう?周囲を見ると、腕組みをして目を閉じ、眉間にしわを寄せてしきりにうなずいている人多数。そうか、これが正しいノイズの聞き方かー。ぼくもすかさずマネして通ぶってみる。
ちなみに、あとで聞いたら妻は、途中から立ったまま寝ていたらしい。むー。
やがてノイズ大会も終わり、追加で1、2曲を披露してライブはおしまい。アンコールなし。時間にして90分というところか。
おもしろかったです。しかし、アルバムを聞いてもよく分からないけど、ライブを見てもさらによく分からなかった。よく分からないけど、ゆらゆら轟音の壁と、その合間にちらっと聞こえるベリンダ嬢の美メロボーカル、ギターラインがこのバンドの身上なんだろう。しかし系統的にはアバンギャルド、ノイズ系。通には好まれるものの、こんなに人が殺到するバンドじゃないですよ。マイブラがソールドアウトなら、山海塾だって東京ドーム満杯だって。

ちなみに帰りの新木場駅。ひとりのワカモノがふざけて、股間を揺らしながら傍らの友人にこう言った。
「マイ、ブラブラ」。
まぁ、こんなもんです。

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2013年2月17日 (日)

Fender Telebration cabronita telecaster購入

てなことで、新しいギターを買ってしまいました。
じゃーん。

Fender テレキャスター60周年記念、Telebrationシリーズ。その名もCabronita telecaster。

カブロニータちゃん、略してカブちゃんと命名。そのまんまやん。
カブちゃんの特徴は、何と言ってもそのサウンド。いちおうテレキャスターの兄弟ではあるけれど、あまりテレキャスらしくない。
ピックアップは2基、両方ともグレッチでおなじみのフィルタートロン。コントロールは3wayセレクターとボリュームノブのみ。トーンコントロールはナシ。
「こちとら出音はこのフィルタートロン一本でやっているんでいっ。トーンを変えちゃきゃPUセレクターで何とかしやがれいっ。ツマミでいじりたいとか言うヤツぁおととい来やがれいっ」
そういう男気を感じます。名前は女の子だけど。そうそう。男は黙ってワンノブ、ワンコントロール。

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フィルタートロンだからグレッチサウンドかというと、そうじゃない。グレッチのように張りのある太い出音なんだけど、同時にシャープでエッジの効いた、テレキャスサウンドでもある。
Fenderのホームページには「うなりを上げるような荒々しい独特のトーン」と書いてある。たしかにそんな感じ。でも繊細でもある。ひずませると個性が見えにくくなるけど、クリーントーンは一級品。
先日、渋谷のイケベ楽器グランディで格安になっていたのを試奏されてもらい、クリーントーンの美しさにメロメロに。
ただルックスがあまりにテレキャスターから離れているせいか、あまり人気がないようだ。渋谷グランディで格安で出されていたのも、まぁ不人気ゆえだろう。
山野楽器のTelebrationのサイトを見ても、カブちゃんとマホガニーテレだけやたら浮いてるもんなー。

http://www.yamano-music.co.jp/docs/hard/LM/telebration.html

2回も試奏させてもらったんでグランディで買おうかと思ったけど、ボディカラーが2トーンサンバーストのが欲しかったんで、結局通販で購入。グランディだと黒は安くて、サンバーストはちょっと高かったんだよね。
スペック。
Body Material: Alder
Body Finish: Gloss Lacquer
Neck: Maple, Modern "C" Shape
Neck Finish: Gloss Urethane Front, Satin Urethane Back
Fretboard: Maple
Fretboard Radius: 9.5" (24.13 cm)
Frets: 22, Medium Jumbo
Position Inlays: Black Dot Position Inlays
Scale Length: 25.5" (64.8 cm)
Nut Width: 1.685" (42.8 mm)
Truss Rod: Bi-Flex Truss Rod System
Truss Rod Nut: 1/8" American Series Nut
Pickups: TV Jones Filtertron Bridge Pickup
TV Jones Filtertron Neck Pickup
Hardware: Chrome
Tuning Keys: Deluxe Staggered Cast/Sealed Tuning Machines
Bridge: American Strings-Through-Body Hard-Tail with Block Saddles
Control Knobs: Knurled Chrome
Pickguard: 1-Ply Black
ハードケース付属
◆カラー:
・2-Color Sunburst
・Black
さて、これで当分機材購入はおしまい。おしまいったらおしまい。ホントです。

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2013年2月15日 (金)

後藤恵先生の家族セミナー

2月10日、川崎断酒新生会主宰の家族セミナーでの後藤先生のお話。
前回も書いたけど、川崎断酒新生会のHPはかなり良い感じだ。さわやか、分かりやすい、 充実しているの三拍子。

川崎断酒新生会|一緒に、断酒しませんか?

今回のテーマは、アルコール依存症のこどもへの影響。いわゆるACoAの話だと思ったけど、後藤先生らしい独特の切り口だった。
アル中の親は、約束を守らない。憶えていない。家族のささいな言動をとがめ、怒る。次から次に問題を起こす。その中で育った子どもは、一家の取りまとめ役にならざるを得ない。場の空気を読み、父や母の役割をにない、そのことでヘンに大人びた「幼児的万能感」を持って育っていく。
そして家庭の中の空気をつねに読んで育ったため、「場の空気を読む」「場の感情を良くする」ことが最優先課題になる。職についても、職務を達成することより、部署内の和を取り持つことばかりに目が行ってしまう。結果、ヘトヘトに疲れ、生きづらさを抱えていくことになる。

場の空気を読む、みんなと仲良くする。それはもちろんたいせつなことだ。協調性はないよりもあったほうがいい。でもそれは、目的があってのことだ。職場だったらきちんと業務をこなし、部署に課された課題を達成すること。学校だったら勉強をし、集団社会のルールを覚えると同時に他者との距離を学び、コミュニケーションスキルを身に付けること。コミュニケーションとは、相手の意見を無限に聞くことではない。しっかり聞き、自分の意見を適切に表現することだ。
それなのに依存症者の子どもたちは、場の空気を読むこと、協調性を維持することそれ自体が目的になってしまった。

依存症者の子どもたちはヘトヘトになるまで場の空気を読んで読んで読みまくり、感情的対立がコミュニティに発生しないように気をつかう。でも、自分が読んだ空気が果たして相手の求めていたことかどうか、分かりようがない。気を利かせて相手の意図を先読みしたつもりが、大誤解ってこともある。
これはアルコール依存症の子どもだけじゃなく、アルコール依存症本人にも当てはまることが多い気がする。
自分の意図を表現せず、周囲が分かってくれるだろうとガマンにガマンを重ね、最後に爆発する。つぶれる。ミーティングでもそう言う話は聞くもんなー。

12ステップ的には、怖れが原因にあるのだろう。他者の感情へのおそれ。空気を読まないと自分への評価が悪くなるのではないかという怖れ。怖れに支配され、怖れを行動基準にすると、ひとはあっという間にメロメロになる。他人の感情は移ろいやすく、一貫性がない。複数の人が同時に相反する感情を持つ。それにあわせようとすれば、自分の思考や行動は絶えずうつろい、一貫性がなくなる。

怖れを取り除いてもらえれば、楽になるだろう。でも、座して祈っていてばかりでは解決しない。解決するには行動が必要だ。問題は怖れだと認識しつつ、他人とかかわり、自分の意図をうまく伝え、相手の言葉を聞くことがだいじなんだと思う。

後藤先生はこうまとめていた。
存症の子どもは、人が自分とちがう気持ちを持つことが理解できない。気持ちを読み過ぎて失敗する。言葉にしたことだけを信じなさい、と。

他人の気持ちの先読みなんて当てにならない。
言葉にしたことだけを信じなさい。

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2013年2月14日 (木)

オークションで機材売り

えー、ここ最近ブログの更新がごぶさたになっております。
音楽関係の機材が増えてきたので、オークションで売りまくっています。それでブログを書く時間がないのね。たいへんなんです。
出品文章を書き、写真を撮り。落札されたら細かく連絡をしたり梱包したり宅配便の営業所に足を運んだり。
なんでそんなに機材が増えるのか。エフェクターが大好きなんであります。ついでにいえばギターアンプも大好き。ギターも大好き。変わったエフェクターが出るとつい買っちゃうんであります。
妻からは買い物依存症だDAに行けだと言われるんだけど、まぁそれも一理ある。後藤先生の講演会でも、買い物依存の特徴は、買ったものを使わない点だって言われていた。
たしかに、数回使っただけでお蔵入りしちゃうエフェクター多いもんなオレ。

てなことで、買い物依存を反省して不要な機材を売りまくり。必要な機材と不要な機材を表に書き分けて、不要なものは売ることにしました。おお、こういうときにも棚卸し表は役に立つぞ。やるなビルW。
ギターも2本売りました。惜しいんだけど、ギターだってちゃんと弾いてくれるプレイヤーのところにもらわれて行った方が幸せなはず。
ふー。
2本売ったから、これでようやく欲しかったギターが買えるぞ。わーい。
あれ?なんか…おかしい…?

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2013年2月13日 (水)

109番目の煩悩

2月10日、川崎断酒新生会の主宰する家族セミナーに参加してきた。
成増厚生病院の後藤恵先生の話を聞くためである。
ちなみに川崎断酒新生会のHPは、Shall We Danshu?というカラフルなロゴが踊る、さわやかなサイトである。

http://kdansyu.idr-inc.jp/index.html

後藤先生の話は相変わらず興味深くて面白かった。講演会のあと、妻から後藤先生の別の講演会での話を聞いた。
依存症は109番目の煩悩だ、という話だ。
人間には仏教で言うところの百八つの煩悩がある。依存症者はその上にさらにもう一つ、依存症というやっかいな煩悩を抱えている。
回復すれば、109番目の煩悩は取れる。あるいは軽減する。だけど、それでやっとほかの人と同じ、108の煩悩の持ち主になれる。アルコホリズムが解決したからといって、108の煩悩がなくなるわけじゃない。

そうなんだよね。
アルコホリズムからの回復は、アルコホリズムからの回復に過ぎない。「過ぎない」と言っても、それはとてもすばらしいことだ。死の病からの回復だもんね。
けど、アルコホリズムからの回復が人生の煩悩をすべて取り除いてくれる特効薬かというと、そうじゃない。ガンからの回復、心臓発作からの回復が108の煩悩を解決しないのと同じように。

ときどき、酒が止まっても人生がなにも変わらない、という話を聞く。
酒が止まっても生きるつらさは変わらない。酒が使えない分、よけいに苦しい。飲んでいた方がまだマシだ、と。
もちろんそれはほんとうの気持ちだろうし、じっさいに苦しいんだろうと思う。問題解決的な方向で言えば、ステップを踏むこと、サービスやミーティングで積極的にAAにコミットしていくこと、あるいは社会生活を豊かにすることや単に時間をやり過ごしていくことで、そう言った苦しみを軽減していくことはできる。
でも、そもそも苦しみとは何かといえば、誰にとっても人生は苦しく、悩ましいものだ。仏教的な用語で生老病死と言うように、生きること、老いること、病、死、すべて避けようがなく、苦しい。
酒が止まれば人生がバラ色に変わるなんて、それこそボトルが生み出した妄想だ。酒が止まっても人生がつらい、だから飲んだ方がマシだというのは、依存症的なロジックだ。

ではわれわれは、毎晩毎晩ミーティングに出かけ、休日をAAのサービスやイベントに費やし、ステップを実践し、仲間の多くの時間を過ごし、それでただ単に109の煩悩が108に減っただけなのか?苦痛に満ちた人生が、それだけの労力を費やして、わずか1パーセント弱だけ軽くなるだけなのか?
イエス。
でもわれわれは、12ステップという道具を手に入れることができた。
AAと言う共同体が持つ力と分かち合いを通じて、ひとは変わりうるということを知った。
信仰を通じて、意志と命の方向性を神にゆだね、自分の思い通りに世界を動かそうとすることの愚かしさを知った。
そしてアルコホリズムからの回復に使った道具と経験が人生のさまざまな困難にも使えることを知り、じっさいに乗り越えることができた。多くの仲間たちもそれを経験として語っている。

われわれは問題を解決するやり方を教わった。
問題自体を解決してもらうより、その方がずっといい。
12ステップは魔法の秘薬ではない。うまく使えないひともいるだろう。12ステップでは解決できないことだって山ほどある。
それでも、われわれは109番目の煩悩に取り組むことで、問題との付きあい方を知った。問題に取り組み苦しむ過程で、人生の意味と価値を少しずつ知ることができた。問題は誰かに取り除いてもらうものではなく、自分自身で汗を流し、失敗しながら取り組むことで初めて価値があることを知った。

109番目の煩悩とその解決は、煩悩が人生に与える意味を教えてくれた。
それってすごいことじゃない?

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2013年2月 1日 (金)

時間の伸縮

きのうのミーティングは「時間」がテーマだった。
初めてのテーマだ。アルコール依存症や回復と直接は関係ないテーマのように思ったが、いざ話し出してみると、いろいろ気がついた。
ぼくが酒を止めたばかりのころ、時間は遅々として進まなかった。
仕事がないまま、職場のデスクで長い時間を無為に過ごす。ただでさえ酒が止まったばかりで神経が高ぶっていたぼくには、無限にも思える長い時間だった。
何も仕事をしないまま、一日が終わる。そのままミーティング会場に向い、仲間と雑談し、ミーティングに参加する。その時間はあっという間に過ぎ去る。
明日が来なければいいのにと思いながら眠りにつき、すぐに朝が来る。
一日いちにちは気が遠くなるほど遅いのに、一週間はあっという間に過ぎ去っていく。こんなむなしい時間を過ごしていていいのかと繰り返し自問し、答えの出ないまま朝が来る。

苦しい思いをしたけど、時間とともにいつの間にか苦痛は去って行った。
依存症者は、待つことができない。時間が問題を解決することがあるのを知らない。信じない。
それは、いまこの瞬間が苦しいからだ。
苦しみから早く逃れたくて、答えを焦る。その答えが気に入らないと、また次の答えを求める。考えや答えが目まぐるしく変わり、まわりを巻き込み、自身を追い込んでいく。
コロコロ病とは、良く言ったものだ。

時間と戦わず、もがかず、雲が流れるがごとく暮らしていきたいものです。

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