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2011年4月30日 (土)

あとになって思い出すこと、問題を直視すること

きょうはホームグループのミーティング。
仲間の話を聞いていると思い出すことが多々ある。

飲んでいたころ、ぼくは外科と内科の入院を数限りなく繰り返していた。
急性膵炎を手術してもらい、九死に一生を得たが、その後も再飲酒しては何度も入院していた。

いまでも思い出すが、ぼくの腹には4本のドレーン・チューブがささっていて、その上にさらしをぐるぐる巻いて退院した。
ドレーン・チューブからは汚い膿がじくじくと何ヶ月も出続けていた。
数日置きに受診して、生理食塩水で洗浄する。上のチューブから看護婦さんが水を入れると、下のチューブから膿が押し出されて出てくる。見ていると気持ちが悪くなってくるんで、ぼくは処置の間、ずっと目をそらしていた。
で、再飲酒して具合が悪くなるたび、それが悪化していた。

今思い返すとつくづくグロい状態だった。よくそんな状態で酒が飲めたものだと思う。
でも、ドレーン・チューブごとさらしに巻いて服を着てしまえば、視界には入らない。
視界に入らないものは「なかったこと」にして、ぼくは飲み続けた。

目に見えないからといって、問題がなくなったわけではない。
むしろ、問題から目をそらすこと、見えないふりをすることで余計に事態は悪化する。

お腹の問題だけじゃなく、当時ぼくはさまざまな問題に首まで浸かっていた。
行き詰まった夫婦関係。職場での厄介者扱い。数々の飲酒にまつわるトラブルと他人への迷惑。
そして何よりも、ぼくの中にはいらだちと絶望、虚無感が吹きすさんでいた。
生きて行くことの意味が、まったく分からなかった。

やっかいなこと、見たくない欠点。まさにそれが、いちばん手を付けるべきことだった。
そのためには、問題を直視するには、勇気がいる。力が必要だ。
その力を、ぼくはAAという共同体でやっと与えられた。
今日のミーティングで、そんなことを思い出しました。

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2011年4月29日 (金)

GWはまったりとスタート

気がついたらいつの間にかGWになっていた。
宿直も入っているが、2連休が2回確保できた。
うれしい。
きのう・きょうは、とりあえず2連休の第一段。
ジョギング、手付かずだった部屋の片づけ、ギターの練習、機材の整理。
やりたいことはいろいろあった。けど、まったくできないで終わりました。はっはっは。

きのうは妻とドライブ。
ドライブ中に、東京の仲間がこちらに来ているという連絡が入り急きょ合流。
ほかの仲間とともに、福島県に回復施設を設立するという。
つい先日退職したばかりだというのに、バイタリティには驚くばかりだ。

グリーンハウス白馬

いいなぁ。
ステップ集中合宿みたいなのより、ぼくだったらこっちがいいかなぁ。
ゆるーい感じで、気が向いたらBB読んだりステップのことを仲間から聞いたり。
もともと構想中だったそうなんだけど、いまは原発の事故で話が一時中断しているという。
ぼくも入所したいッス。つか、仕事に疲れたら週末だけ癒されに行きたいなー。

きょうは午前中に少し部屋の片づけをして、お昼から実家の両親、兄、われわれ夫婦でホテルバイキングに。
バイキングというと、つい山ほど食べてしまう。われながら意地汚いと思うが仕方ない。
テーブルに回ってきたマジシャンから、カードマジックを教わる。
さっそく夜のミーティングで、始まる前に仲間に披露しようと計画するが、時間が取れず不発。
あすはホームグループなので、仲間に見せてみよう。ふふふ。

こんな感じで、やりたいことはまったくできてないんだけど、まったり過ごしています。
昼間は遊んで夜ミーティングってのは、いい命の洗濯になるね。リフレッシュ。

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2011年4月27日 (水)

いそがし&AA第3の男

また仕事が忙しくなってきた。
例の資格取得の件、いよいよ審査会が開かれることに。
きょうは本社にあいさつに行ったり、手続き関係を進めたり。
支社の方も、震災でつぶれた社屋の建て直しの話が進み、せわしない雰囲気。こちらはぼくが何かやるわけではないんだけど、職場全体が浮き足立っている。
いかんね。こういうときこそ落ち着いて行こう。

そう言えば、BBの英語版個人の物語「AA第3の男」を読んだ。
すごくいい話だったな。
後半の数ページに書いてあることは、最近考えていたことの答えになった。
12ステッパー必読です。

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2011年4月25日 (月)

山形GのOSM

きのうは山形GのOSMに参加してきた。
久しぶりに顔を見る仲間もいて、とても楽しかった。

6年半ぶりにAAに復帰した仲間の話を聞いて、グループの一体性について考えた。
カムバックしてきた本人も、よく帰ってきたと思う。いちど離れたメンバーがまたAAに来ることに、相当の葛藤があったことは想像できる。
AAにつなげる手助けをした関係者の働きも、たいへんだっただろう。
そしてAAが存続して、グループがミーティングを開き続けていたことは、何よりもさいわいだった。

個人の回復は、グループの一体性にかかっている。
グループが存続し、ミーティングを開き続けること。AAグループとしての機能を維持し続けること。
それがなければ、ほかのアルコホーリクを手助けすることはできない。
6年半ぶりに帰ってきた仲間を、6年半の間、会場を開け続けた結果、迎えることができた。
すばらしいことだ。

ぼくが初めて参加したAAのセミナーが山形だった。
感慨深いし、いまだに酒をやめはじめたころの自分を思い起こさせてくれる。
良い一日でした。

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2011年4月23日 (土)

リスクと共に暮らす

統計には記述統計と推測統計という、2種類がある。
記述統計は、すでに起こったり分かったりしていることを分析する統計だ。
小学生の何パーセントが虫歯にかかっているとか、自殺者の年次推移や年齢別内訳などがこれに当たる。

一方、今まで起こったことや分かったことを元に、まだ起こっていない事象を推測しようというのが推測統計だ。
あるダイエット法で80%の人が体重減少に成功した、と聞けば、おおよそ自分にも聞くと考えるに違いない。まさか「自分は残りの20%に違いないからやめておこう」とは、あまり思わないだろう。

推測統計は、医学、リスク管理など、あらゆる分野に応用されている。
そして、過去の事象から将来を推測する作業には、一定の誤差が含まれていることを覚悟しなければいけない。過去の事象から未来を完全に予測することは不可能だ。
そして人間を対象にした研究なり調査には、相当の誤差が入る。

例えば、ぼくが職場の豚カツリスク管理委員会を作ったとする。
会議で、豚カツは1週間に何回まで食べても高脂血症にならないか、という問題設定を考えてみる。
ガイドライン策定のため、大量の健康な男女を連れてきて、豚カツ摂取量の階層別にグループ分けした。
その結果、1週間におよそ400グラム以上の豚カツを食べると、半分の人は脂質上昇が見られるという結果になった。
この結果から、さらに安全マージンを多めにとり、健康に食べられる1週間の豚カツ摂取量は250グラムまで、と言うガイドラインを作った。とする。
すべて架空の話だ。

ここで、じゃあ260グラムだったらだいじょうぶなのか、300グラムだったらもう病気確定じゃないのか、と言う反論は、気持ちは分かるが、あまり意味を持たない。
生体の反応は確率であり、結果は必ず分散する。260グラムでも高脂血症になるかも知れないし、500グラムでもならないかも知れない。
ただ、傾向がある以上、どこかで線引きをせざるを得ず、推測統計の結果と「現実」を考慮し、さらに安全マージンを加え、ガイドラインを策定せざるを得ない。

そう、ガイドラインには、現実が加味される。安全マージンを非現実的なくらいに冗長な設定にすれば、安全性は高まる。ただ安全マージンを取れば取るほど日常的な運用は難しくなる。
自動車の車間距離を1キロ、最高時速を5km/hに規定すれば、おそらく追突事故はなくなるだろう。でもそれは非現実的だ。現実の道路状況や自動車の運用状況を勘案しつつ、実用性と安全性の最適なポイントを探るしかない。
そして最終的にリスクを判断し、豚カツを何グラム食べるか、車間距離を何メートル取るかは自分で決めるしかない。
そこには、確率によるリスク管理と言う観点が不可欠だ。

何も難しい話ではない。
われわれは日々自動車を運転している。豚カツをはじめ、色んな食物を食べる。どんなに安全運転を心がけていても一定の確率で事故は発生するし、食物にはさまざまな微量の有害物質が含まれていることを知っている。
でもそれは無視できるほど小さいものとして、日常気にしてはいない。

もし日常のすべてのリスクをゼロにしようと思えば、こんな暮らしになるだろう。
排気ガスや交通事故を恐れて人里を離れ、紫外線の有害作用を恐れて日光を浴びず、農薬の有害作用を恐れて自作の無農薬野菜しか口にせず、通り魔や変質者のリスクを避けるため家族以外のいっさいの人間関係を絶つ。有害コミックや退廃した文化の汚染を防ぐため、聖書と仏典とコーラン以外の本はいっさい読まない。さらに火事や飛行機の墜落から身を守るために、強固な地下シェルターにこもるしかない。それでも運動不足による心疾患リスクや閉所環境での精神的な悪影響のリスクからは逃れられない。

それはもはや健康な生活でも何でもなく、病んだパラノイアでしかないだろう。

ことし、われわれの暮らしに新たなリスクが加わった。
そのリスクをゼロにして暮らすことは、もうできない。その日を境に、われわれの社会は変わった。
100%の安全なんて、どこにもない。最初からなかった。
できることは知識を得、リスクを知り、リスクを管理し、リスクとともに生きることだ。
思えばこの国は、あまりにもゼロリスク神話がまかり通ってきた。ゼロリスクを社会に要求し、達成されている社会だと思って生きてきた。
でもこれからは、ベクレルだのシーベルトだの、聞きなれない言葉と共生していくしかない。
ゼロリスクを信奉してきた人は、リスクを飼い馴らすということに戸惑うだろう。基準値付近で揺れ動く数値に頭を悩ませ、翻弄されるだろう。
ゼロリスク神話に基づく要求を叫んでも、その要求に応えることは、おそらく誰にもできない。
交通事故やがんや通り魔をゼロにできないように。
でも、いずれわれわれは混乱を乗り越え、このリスクを受け入れて行ける。ぼくはそう思っている。

まずは正しい知識を得ること。
十分な説明と理解の上で、あとは自分で判断すること。それは結局、「何を信じ、何を納得して生きるか」と言うことだ。

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2011年4月22日 (金)

福島県放射線健康リスク管理アドバイザー 高村昇先生のお話

2011年04月21日(木)、サンライズもとみやにて、長崎大学大学院医歯薬学総合研究科教授、福島県放射線健康リスク管理アドバイザー高村昇先生の話を聞いてきた。
先生は長崎市のご出身で、生まれも育ちも長崎市。40回以上もチェルノブイリを訪れ、調査や診療を行っているという。
今回、放射線の知識を得て、正しく怖がって欲しい、と言う前置きで講演が始まった。
以下、メモ書きを掲載する。



放射線とは?
エックス線、空港の手荷物検査など、生活のさまざまな場面で放射線は使われている。

放射線には、ヒトの役に立つ側面と、ひとの害になる側面と、両面がある。
ヒトの役に立つという側面・・・診断、放射線治療など。
害になる側面・・・原爆など。長崎では7万人が亡くなった。
(ちなみに爆心地から500mのところに長崎大が建てられた)

良い面か害になる面かは、放射線の線量によって決まる。
ひとは普通に生活していても宇宙線など、自然に放射線を浴びる。地上からの距離によっても線量はちがう。飛行機に乗っているだけである程度被曝する。
また、私たちの体内にも放射線物質は存在する。カリウムは食物、筋肉などに存在し、カリウム39は放射線を出さないが、カリウム40は放射性である。
ふつうに生活しているだけで、日本人なら1.5mSv/yを浴びる。
世界的な平均は2.4mSv/y。岩盤のちがい、標高によってもちがう。インド、ブラジルの一部はもっともっと高い。
レントゲン一回あたり0.05mSv。
CT一回あたり5〜10mSv。

単位の話。
焚き火に例えると分かりやすい。日で暖められた空気をひとは温かいと感じる。焚き火を放射性物質、暖められた空気を放射線と考える。その焚き火のエネルギーの単位がベクレル。
放射性物質からベータ線、ガンマ線などの放射線が出る。
放射線の単位がシーベルト。1ミリは1/1000。
1μSvは1/1000mSv。
放射性物質は、放射線を放出して安定した物質になろうとする。

半減期は、ヨウ素131が8日。セシウム137が30年。
しかしセシウムは土の表面に溜まり川、海に拡散する。梅雨など、日本は雨が多く、いつまでも土には溜まらない。また、表土を取り除くなどで対策は可能。
また、生物学的半減期と言うものがあり、セシウムを摂取しても代謝されて尿として排泄される。
生物学的半減期は2ヶ月。⇔物理学的半減期と区別。

外部被曝⇔内部被曝
内部被曝は、食べ物、水、牛乳などで放射性物質を体内に取り込む。たとえばチェルノブイリでは、汚染された食品を規制せずに市民が食べた結果、甲状腺癌が増えた。とくに牛乳を子どもが飲み、のちに甲状腺癌になった。

日本は厳しい基準で規制している。

外部被曝は高い線量でないと症状が出ない。気をつけるべきは内部被曝。
チェルノブイリでは当時0歳〜5歳の子どもが、後に甲状腺癌に罹病。
40歳以上ではのちの発症率に有意差なし。
放射線感受性と言うものがあり、子ども、胎児は感受性が高い一方、40歳以上はリスクがない。
→よって、まず守るべきは母と子ども。

1mSv:細胞一個の染色体を傷つける単位、と考えると分かりやすい。
人間の体には自己修復機能がある。一度に1ミリSvを浴びても、自己修復機能が働いてほぼ問題ない。
100mSv/回から修復が効かない細胞が出てくる。ただ、大勢のひとが同時に100mSvを浴びても、全員が健康に問題が発生するわけではない。そのうちの何人かに問題が発生する。
少ない線量で長期なら、自己修復が働く。

現在、国の基準値はとても厳しい数字。
ICRPの勧告?によれば、100mSv以下の被曝は、中絶の正当な理由にならない、と定めている。

質問

農地と校庭で基準値がちがう。不安だ。
→農地と校庭は用地としての性格が違う以上、基準値がちがうのはやむを得ない。

ほこりが巻き上がると内部被曝になるのか?→なりうる。あまりほこりが激しい日は外での活動(部活など)は避けた方が良い。現在の規制値は、あくまで外部被曝の線量であり、内部被曝の線量を含んでいない。しかし、現在は厳しい基準であり、あまりセンシティブになる必要はない。

家庭菜園で食べているものはどうなるのか?
→家庭菜園の食品も、マーケットのデータと同じく対応。母と子を守る、と言う観点をもつこと。

※ちなみに、福島とチェルノブイリを同列に扱う報道もあるが、福島の放出した放射性物質の量はチェルノブイリの7%。

いくつかの食品を食べたり、空気を吸ったり、複数の経路で複合的に内部被曝量が高くなるのではないか?
→規制値は、食品群ごとに定められ、複合して摂取しても大丈夫な値に設定されている。かなり安全につくってある。しかも現在は数値も低下しつつある。それぞれの食品などの数値が、基準値を下回っていればだいじょうぶだ。

ストロンチウムが観測されているがだいじょうぶか?
→数値が低いので、現時点ではだいじょうぶ。引き続きモニタリングを行って、数字に気をつけていくこと。

保育所に勤めているが、いつになったら窓を開けたりエアコンをつけたり洗濯ものを干せるようになるのか?
→現時点の本宮ではだいじょうぶ。気になるのなら、洗濯ものや布団類は、部屋に取り込む際にほこりを叩いたり払ったりすること。

ため池に貯めた水はだいじょうぶか?底の方に放射性物質が溜まるのではないか?
→測ってみないと分からない。

(メモここまで)



あえて要点をまとめず、メモをそのまま掲示した。
高村先生の話で安心できたのは、生物学的半減期の話。
体内被曝や食物連鎖による濃縮の話は聞いたことがあったが、生物学的半減期の話は初めてだった。調べてみた限り、高村先生の話は偏っていない、まともで常識的な話だ。
現在の放射線量なら、半減期30年のセシウムも怖くない。
2ヶ月で体内からウォッシュアウトされ、蓄積しない。
相変わらずセンセーショナルな話も見聞きするが、高村先生の話はその不安を吹き飛ばす、正しい知識とデータに基づく、信頼しうる話であった。
先生は県内中を回って講演活動を続けている。頭が下がる。それでもTVや週刊誌のセンセーショナルな話の方が広がりやすいんだから、マスメディアおそるべし。
伝聞情報ではなく、正しい情報って大事だね。

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2011年4月20日 (水)

意思の力は不要か?

AAのプログラムに意思の力は必要ない、などと考えてはいけない。ここはあなたの持っているすべてが要求される。
「12のステップと12の伝統」p.82

AAプログラムでは何度となく、神の意思、と言うフレーズが出てくる。
神さまにお任せ、と言うフレーズもミーティングでよく聞く。
でも、ときにその言葉が間違ったニュアンスで使われているように思うことがある。

ただ座って待っていて、神さまが答えを持ってきてくれるわけじゃない。
おまかせ、と言う言葉を、無気力や行動しないことの言い訳にしてはいけない。

座って何かが起こるのをじっと待ち、ひたすら時が過ぎるのを待っている。
何かが起きるのも、起こらないのも、すべて外側の状況次第。
それでは飲んでいたころの無気力さそのままだ。
自我の暴走を手放し、より良い生き方を求めるためには、意思の力が必要となる。
回復の道の途端に立ったとき、われわれは意思の力を集め、自分から行動を起こしていなかければ、何も変わらなかった。

行動していこう。
何も、極端に変わったことをするわけじゃない。
他人の行動や考えを正したい、と言う気持ちをいったん抑えてみる。
まず自分の怒りからの解放を祈ってみる。
周囲にネガティブな感情をまき散らかさず、感謝と思いやりを心がける。
聖フランチェスコの祈りに、1ミリでも近づこうと努力する。

AAプログラムは大好きだけど、AAメンバーには愛想が尽きた、○○さんや××さんの顔は見るのもイヤだ。もうミーティングに行きたくない、と言う話を時々聞く。
新しい仲間だけではない。酒が止まって数年経つ仲間からも聞く。
それはそれでその人の考えだから、うなずくしかない。
でも、隣人を、目の前の仲間を愛そう、協調して行こう、少なくともそうしようと努力するという考えは、とてもとても大事だ。
どんな高邁な理念の持ち主でも、社会と調和できなくては、回復とは言えない。AAも立派な社会だし、世間一般よりはずいぶん寛容な社会だとぼくは思う。
問題は自分の側にあると気がつけば成長できるが、問題は外側にあると思えば成長はそれまでだ。
そして、問題はやつらにあると言う考えはとても誘惑的で、われわれはつい他人を悪し様に思い、自分を正当化してしまう。
それを変え、自分をイノベートし続けるには、ありったけの意思の力がいる。
そう、意思の力が。
ただ呆としていて何かが変わる、変えてもらえるわけではないのだ。

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2011年4月19日 (火)

東和ロードレースはじめ、県内のレース軒並み中止

東和ロードレースをはじめ、県内の春・夏のレースは軒並み中止のもよう。

ランネット・大会延期・中止情報

開催中止となった大会
6月12日(日) 第6回会津美里ふれあい健康マラソン(福島県)
6月12日(日) 第14回さくら湖マラソン(福島県)
6月19日(日) 第38回川俣ロードレース(福島県)
6月26日(日) 第15回花火の里浅川ロードレース(福島県)
6月26日(日) 第5回もとみやロードレース(福島県)
7月3日(日) 第42回東和ロードレース(福島県)

がーん。
恒例のレース、軒並み中止じゃん。
こんなことなら、ムリしてでも去年の東和ロードレースに出ておけば良かった。
ほかに県内でエントリーできそうなレースはないのか。
調べてみた。

2011年7月 9日 福島県猪苗代町 第6回磐梯高原ウルトラマラソン
2011年 8月 28日 福島県安達郡 第4回安達太良山登山マラソン

きっついのばっかじゃん・・・。
まぁ、なんだかんだ言って去年も棄権ばっかりだったからなぁ。しかし、せっかくやる気が出てきたときに限ってこの状況。
左膝の痛みも残っていて、まだ長くは走れない。
神さまが、当分は近場をトコトコ走ってリハビリしろって言ってるんだね、きっと。

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2011年4月18日 (月)

とらわれ

同僚への囚われが、またまた復活しつつある。
巻き込まれ、囚われていく。相手のささいな言動にいちいち感情が反応する。

いかんねー。
近ごろ、毎日スポンサーと連絡を取ってる。きょう言われたこと。

相手に変化を求めないこと。
変化するかどうかはハイヤーパワーの領域で、ぼくの手から離れている。
相手が変わることを期待すると、そうならなかったとき(たいがいはそうだ)恨みが残る。

その通りだ。
相手に囚われていると、冷静さを失って感情だけが先走ってしまう。
で、あとになって「何だってあの時、あんな判断をしてあんな行動をしたんだろう?」と不思議がることになる。なんのことはない、怒りや恨みに囚われていると、たいがい判断を誤るということだ。

神の意思を知ることと、それを実践する力だけを求めること。
結局それが、自分の頭、自分の判断力を十分に生かせるやり方でもある。

囚われていることを自分の頭だけで解決しようとせず、スポンサーに率直に相談するってのも、だいじだよね。
囚われていることに限って相談したくないもんなー。
うちの奥さんなんか「スポンサーに相談してアドバイスもらったら、別の視点が増えて、選択肢が増えたって喜べばいいじゃない。別にスポンサーの意見をそのまま聞かなくても良いんだから」と言う。
でもねー、アル中さんは人に意見をもらったら、それはそれで悩んじゃうのよ。絶対その通りにしなくっちゃいけないんじゃないかって。
何せビビりで臆病な人種だからね。
まぁ、何ごとも修業です。
ステップを使うのも、スポンサーに相談するのも、どんどん実行して、経験値を上げていかなくっちゃね。

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2011年4月17日 (日)

SuperPopCamでトイカメラ

iPhoneアプリは単価が安いので、「使わないだろうなー」と思いつつ、つい買ってしまうことが多い。
最近iTunesでiPhoneアプリの一覧を見て見たら、100本ばかり並んでいる。使ってないアプリが大半だ。
しかし、「お金を払ったから」「もったいないから」と、つい削除をためらってしまう。
困ったものだが、このままどんどん増えていく一方なのだろう。うーん。

さて、そんな使わないiPhoneアプリの中で、日々頻繁に使っているのがこれ。

SuperPopCam

iPhoneの写真を、トイカメラ風味に変換してくれる。
ギズモードでも紹介されているが、何せリアルタイムで効果を確認できるのは便利だ。
いちど撮ってあとで編集ってのはまだるっこしい。その場でトイカメラ効果を確認しながら撮れるのはすごいうれしい。

うちの中を撮ってみた。

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おお、何だかアート風だ。ゴチャゴチャ散らかってる部屋もゲージツ的に見える。すごいぞ。
もともとトイカメラの味付けって好きなのね。四隅が暗くなっているのやら、フィルムの粗い粒子感や退色したような色合いやら。
iPhoneアプリなら安いし、フィルム代も現像代もかからない。
当分SuperPopCamがマイブームになりそう。
これでばしばしと日常の風景を切り取りまくるのだー。

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2011年4月15日 (金)

MacBook Proのバックアップ

長らく中断していたMacBook Proのバックアップをきょうから再開した。
震災の時、マイMacBook Proはバックアップ用の外付けHDDもろとも机から落下して、ほかの落下物の下に埋まっていたんだよね。
プリンタやら本やら本棚やらの下敷きになって、さらに本棚が覆いかぶさった。もうダメかと思ったんだけど、MacBook Proも外付けHDDも無事に動いています。
イヤよかったよかった。1ヶ月ぶりのtime machine機能によるバックアップ。

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ただ、本体の内蔵HDDに不良セクタが発生したようなので、近々交換を検討中。
こういうときにtime machine機能はありがたいね。
しかし、けっこうな数のプラグインが再アクティベートになるんだよなぁ。。。

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2011年4月14日 (木)

資格申請

きょうは午前中に本社、午後から支社、夜はミーティングと、動きの多い一日だった。
本社は相変わらず緊急態勢のまま。駐車場もゲートを取り払って、出入りが自由になっている。
周囲はほぼ日常モードになっているのとは相反しているが、本社の性格上やむを得ない。
きょうは本社で、ある資格の申請手続きを行ってきた。
一時はあきらめた資格だったけど、こつこつと続けたおかげで、何とか申請までこぎ着けた。
ふつうだったら5,6年で取得できる資格だけど、実に14年。
14年かかったけど、でもあきらめなければどうにかなる。

同期でドロップアウトした者は多い。ぼくも一時期、ほぼドロップアウトしていた。
こんな紙切れだけの資格に意味なんてない、時間も労力も費やしたくない。そう思っていた。
でもある時点から、この資格は、ぼくが飲まないで何かを成し遂げる、その象徴のようになっていた。
うちの社の大半の人間は、先輩の手伝いをして行く中で取得資格を満たしていく。ぼくは自分から人間関係を壊してしまい、本社で頼れる先輩を失った。
ほかのものが簡単に進める行程を、追い越されながらじりじりと自力で進めて行くほかになかった。
こうして申請手続きができる日が来るのは、何だかまだ信じられない気持ちだ。

さて、とは言えまだ第一段階が済んだだけ。これから7月ごろまで、細かい筆記試験のようなものがいろいろある。
がんばりましょう。

あきらめなければ、何とかなる。

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2011年4月13日 (水)

被災マインド

きのうの続きです。

職場環境の悪化で、出勤がしんどくてたまらない。
いまはスポンサーにグチメールを書いて、妻に泣き言を聞いてもらって、何とかバランスを取っています。

前にも書いたけど、うちの職場環境はただいま絶賛被災中。
が、家に帰ればライフラインも住環境も何とかなっている。避難所に暮らしたり住環境を失ったりしているわけではない。

でも、なんて言うのかな、自分も職場の面々も、こころが萎縮してるのね。
みんなイライラしてるし、他人のちょっとした言動にすごく過敏になってる。
ふだん機能していること、ルーチンでやるべきことがゼンゼンできないでいる。
そうすると、ひとそれぞれ、ストレス環境に適応しようと、色んな反応が出てくる。

意味を失ったルーチンワークにひたすらしがみついている人。
誰かを抑圧することに真剣になっている人。
一番多いのは、通常以上に指示待ちパターンに入っているケース。自分の頭で考えることをやめちゃっているパターン。

3.11直後の一週間の、うちの職員の働きぶりはすごかった。あんなに一生懸命に働いているスタッフを見たのは初めてだった。
けど、一月が過ぎて、この環境の及ぼす悪影響がさまざまにスタッフのこころを蝕んでいる。
無力感、無気力さが蔓延している。

ぼく自身、ネガティブな感情があらわになっているスタッフと接することに、嫌気が差してきている。
関わり合いになるのを避けてる。回避的になっている。出勤したくない。
これはこれでこころのバランスを取ろうという無意識の働きなんだろうけど。

いかんね。トーホグ人はまじめ過ぎてイカン。
楽観主義で行こう。楽観主義になりましょう。気楽に行きましょう。

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2011年4月12日 (火)

芸能人の支援

市内の某避難所に、SMAPのメンバーが炊き出しに来たそう。
炊き出しをして、子どもにゲームのプレゼントなどもしたとのこと。
避難所の人たちはすごい喜んだらしいと、けっこう話題になっていた。

きょう本社トップがうちの支所に来て、いっしょに昼ご飯を食べたのね。
その時、彼が言った言葉が印象的だった。

「俺らもがんばって避難所回ってるんだけど、芸能人が来た方がみんな元気になるんだよな」

ちょっとくやしそうだった本社トップ。
そうなんです。
元気になるんです。
芸能人が避難所に来たりすると、点数稼ぎだ偽善だとネットでもネガティブな意見が出るけど、単純にうれしいもん。芸能人来てくれたら。
もし福山雅治あたりが来たら、みんなきゃーきゃーですよ。
よく「偽善ぶって顔売ってないで、黙って献金しろ」みたいな意見が出るけど、カネはカネ、また別の話。
先陣切って避難所回っているうちの本社トップの実感の方が説得力あるもん。

被災してる側って、めっちゃ自己効力感下がってる。「オレたちのことなんて、きっと誰も気にかけてくれないんだ、見捨てられてるんだ、誰も支えてくれないんだ」って、気持ちが下向いちゃってる。
そこに芸能人が来て、忘れてなんかいないですよ、みんな支える気満々ですよ、皆さんに会いに来ましたよって言ってくれたら、スゲーうれしいもん。
炊き出しだのゲームだのじゃなくて、そういう姿勢それ自体がうれしい。
お金も大事だし、支えも大事。
芸能人はその知名度、華やかさが最大の支援なんだから、ヘンに萎縮しないでがんがん避難所に来て欲しいと思うわけなのです。

思うんだけど、行動とオープンマインドって、こういう時だいじだね。
みんな妙に萎縮しちゃってる。
自分も、周りも。何かアクションを起こそうとするのがイカン雰囲気が漂っている。
で、行動を起こそうとする人に批判的になりがち。で、アクションを起こそうとしている方もビビりながらやってるから、批判を浴びるとたちまちシオシオに。
まえにたまちゃんに紹介してもらった、阪神大震災の中井先生の体験記にも書いてあった。
何かをなし得たのは行動を起こした人たちだけだった、と。
指示待ち、承認待ちの人は、何もなし得なかった、と。
スゲーよく分かる。
つか、ビビりが入るから、気持ちが萎縮しちゃって、指示待ち、承認待ちになりやすいのね。
行動して、間違ったらそん時はただちに認めたらいいのよ。オープンマインドに。
乱暴なようだけど、萎縮ムードの時は「まず行動」でちょうどいい。

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2011年4月10日 (日)

今日もミーティング

きょうは市内のAAミーティングに参加。
よそのグループのビジネスは毎回、色んなことに気がつかされる。
同じAAでも、やっぱりグループごとのカラーはちがう。
ざっと報告事項だけで済ませるところもあれば、ひとつひとつ吟味するところもある。
よそのビジネスは、多少もめてもとりあえず気楽に聞いていられる。一歩引いて外側から見てみると、見えることは案外多いものだ。
冷静になるって、大事だね。

さて、それはともかく。毎年6月に開催しているホームグループのイベントは延期になりそう。
会場の都合がつかないようだ。
とりあえず、秋口ごろに延期の模様。
仕方なし。春の東北のイベントは、延期ないし中止のところが多いようだ。

その中で、4月24日の山形GのOSMは予定通り開催される。
すごいね。
ぼくも行く予定。たぶん、東北の各地から多くの仲間が集まるだろう。
今から楽しみです。

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2011年4月 9日 (土)

カート・コヴァーン像が建立?

久しぶりにロックネタです。
ニルヴァーナのカート・コヴァーンの銅像が建立されたそう。

Nirvana : 命日を記念し、カート・コバーン像が完成 / BARKS ニュース

ニルヴァーナのヴォーカリスト、カート・コバーンの没後17周年を記念し、彼のホームタウンであるワシントン州アバディーンに像が建てられた。彼の命日である4月5日に除幕式が行なわれた。

ロッキーの銅像見たいのだったらどうしよう・・・と思ったら、愛用のギター、フェンダーのジャグスタングの銅像のようです。
こんなの。
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カートはレフティだったんですね。
ジャグスタングは、ジャガーとマスタングの合体作。
楽器としての完成度はあまり評価されていないが、カートの使用により一躍有名になったモデル。
ぼくとしては、くねったボディは気に入らないが、ラージヘッドは良い感じ。いちど楽器店で触って見たいッス。
音?音はいいの。ロックだし、歪み入れたらあんまりちがわないし。
そりゃー音のいいギターの方がいいに決まってるけど、ひずませて空間系のエフェクト入れてEQかけてほかの音と混ぜたらもう分かんないし。

話がそれたけど、しかしカートはこう言う偶像化は嫌いなひとだったんじゃないかという気がしないでもない。
まぁ、残されたファンがニルヴァーナの音楽やカートの表現を保ち続ける手段のひとつって思えばいいのでしょう。

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2011年4月 8日 (金)

職場の壁

きのうの地震はすごかった。3.11の再来かと思った。
表に飛び出したら、電柱がぐらぐら揺れていたもんなー。

で、きょう半壊してるうちの職場に出勤したら、さらにヒビが入ってるの。
マジで倒壊するんじゃないかなー。
いちおう立ち入り禁止になっているけれど、建物の構造上、立ち入り禁止エリアを通行しないわけには行かないの。立ち入らざるを得ない立ち入り禁止エリア。
できるだけ通らないようにして、なおかつさっと移動を済ませるようにしているけど。
いまプレハブを建設中で、それが終わってから解体工事。当分、おそらくあと数ヶ月はここを通らないといけない。
どうか倒壊しませんように・・・・ぶるぶるぶる。

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2011年4月 7日 (木)

非常時、ペースとパフォーマンス

放射能だろうが何だろうが、トコトコ走っています。

先日、本社の若手が支社に来た。本社トップは月曜日に全スタッフを集合して定例会を開く。実務半分セレモニー半分の定例会は、本社詰めのスタッフにはすこぶる評判が悪い。今回の震災でも、本社トップはふだんと変わらず定例会を開いた。それはいかがなものか、と言うのが若手の意見だった。

うんうんと聞きながら、本社トップらしいな、と思った。ふだんのペースを崩さない。予定外の業務が入っても、通常ペースをベースに考えていく。これはこれで、ひとつの見識だと思う。

今回、うちの支社は震災のダメージがひどかった。施設の建物が使用不能になったのと同時に、通常通りに業務を行うことがまったく不可能になった。当然、非常時態勢で業務に当たることになる。でも、環境が激変すると、当然のことながらパフォーマンスが低下する。それだけじゃなく、エラーの確率が高まる。ふだんなら何の労苦もなく判断し、次のスタッフに引き継げることも、しばしば停滞し、間違った判断をし、揚げ句の果てに連携が失われ、目的が達成できない。そして、こんな状態では業務が通常通りに流れないと分かっていても、ショックを受け、動揺する。

日常のペースを取り戻すにつれ(あるいは新しい秩序が確立するにつれ)、混乱は収まっていく。新しい秩序には気に入らないこともあるし、通常では考えられないことも許容されてしまう。でも、少し俯瞰的に見てみると、質の低いルールでも、ルールがないよりはましなのである。

つくづく、秩序や日常ペースは大切だと思う。本社トップの真意は分からないが、
通常ペースをベースにしてパフォーマンスを発揮できる状態にしておくことは、賢明な判断だ。いきなり非日常の中に放り込まれて、役割も道具も失って、それでふだん以上の実力を発揮することなんてないのだ。

本社トップは、定例会を開いたあと、あらためて非常事態への対応を事細かに判断したという。ほかのやり方もあるかも知れないが、定例会のおかげでペースを乱さず、判断ミスを回避できたとも言える。トップの判断ミスは結果的に多くの社員を危機に陥れることを考えれば、これで良かったんだと思う。

一方、ほかの社では主要スタッフが自主避難し、激怒したトップが片っ端から首を切ったとも聞く。経緯を見た中堅がさらに逃亡するという悪循環。おろかな話だ。いまの福島県では、他県からの常勤希望者などいるはずもない。中堅どころを失えば会社が傾く。社のトップに登り詰めるほどの者が、冷静に考えれば誰でも分かることが分からなくなる。

ぼくはぼくなりの、通常ペースを守っていこう。いつもどおりの日常を大切に。まずはジョギング。この季節に走らなかったら、いったいいつ走るというのか。

春のジョギングほど心地よいものはないです。

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2011年4月 6日 (水)

フジロックとサマソニに思うこと

フジロック出演アーティスト、第3まで発表になった。

フジロックフェス

知っているアーティストがいない。燃えない。
何だろう、この小粒感。
海外勢だけでなく、国内勢も何とも言えない感じ。サマソニのXジャパン起用とは比べるべくもない。
やっぱり、地震や原発の影響かな。海外アーティストはそう言うのに敏感そうだもんな。まぁ、フジらしいといえばフジらしいラインナップだ。

サマソニだと、ぼくは目当てのアーティストを目指して次々とステージ間を移動する。フェス飯を食べている間も、体力、移動効率やタイムロスをじっと考えている。ステージの途中で次のアーティスト目指して移動することもしばしばだし、2曲くらい見てつまらないと感じたらすかさず移動を開始する。フェス自体は千葉マリンスタジアムと幕張メッセと言う、まさに「ハコ」であり、ステージの収容物でしかない。
まさにショーケースである。

フジは、下手するとステージをほとんど見ないまま半日が過ぎる。オレンジの土手でまったりとし、アヴァロンの草地の斜面で昼寝をし、ところ天国で靴を脱いで川遊びをする。気がつくと遠くから聞き覚えのある曲が聞こえてきて、ああそう言えばこのアーティストを見る予定だったっけ、と思い出す。雨が降れば雨に打たれ、泥にまみれながらみな踊っている。

ロープウェイでヘヴンに登ると、ロックフェスだか何だかもうどうでもいい、ひたすら自由でアーシーな空間が広がっている。遊ぶ子ども。「だるまさんが転んだ」や長縄跳びに打ち興じる大人たち。ギターパンダ。ロックフェスという名の、でっかい休日。

ポピュラーミュージックのショーケースとして巨大化・先鋭化するサマソニと、フェスと言う空間と時間を楽しむフジロック。アーティストのラインナップだけを見て善し悪しを判断することはできない。
とは言え、フジロックもまったくアーティストがふるわないのは寂しい。このままだと、アタリ・ティーネイジ・ライオットとケミブラで燃え尽きるしかないじゃないか。ロック勢とテクノ勢、追加を期待したいところ。ケミスツかPaul Van Dykかハードフロアあたり来ないかな。

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2011年4月 5日 (火)

頭の中で生きていた

ようやく仕事は一段落。本社トップに書類を上げて、あとはチェック待ちだ。
しばらく英語は見たくない。見ないわけには行かないだろうけど、ちょっとの間だけでも英語を離れたい。今回のバタバタで、自分の英語力の低さをあらためて実感した。まぁ、何の勉強もしていないのに語学力が向上するわけもないんだけどね。

きのうはミーティングに行ってきた。市内の公民館や集会場などは、まだ使用不可の状態が続いている。AAに場所を提供してくれる施設にはほんとうに感謝である。

きのうのバースデイは、ケーキなし、(うちのグループ名物の)着ぐるみなし、と言うジミなミーティングだった。それでも電気を消して、ハッピーバースデイを歌うときの暖かい気持ちは変わらない。
問題の分かち合いにせよ、解決の分かち合いにせよ、ひととつながっている感覚、何かを共有している感覚はかけがえがない。 感覚を言葉で説明しようとしても、うまく伝えられない。

飲んでいたころ、ぼくは自分の頭の中に生きてきた。
現実を遠ざけ、頭の中で、自分を捨てた恋人を恨み、恋しがり、世をはかなみ、世間を憎悪していた。アパートの外に出てほかの人々と関わることは、恐怖以外の何ものでもなかった。でも頭の中で自分を正当化するもっともらしい言い訳をこしらえて、ぼくは飲み続けていた。孤独と絶望だけが常に傍らにあった。
分かち合い、他人と関わることで、ぼくは少しずつ変わっていった気がする。AAでは「行動」がキーワードのひとつだ。AAにつながり始めのころ、AAで言う「行動」は、ミーティングに足を運ぶことだけだと思っていた。じっさい当時、仲間にAAの「行動」ってなんですか?と聞くと、たいがい「ミーティングに来続けることだよ」と言う答えが返ってきたものだ。
何だ、ミーティングに来る目的はミーティングに来ることそれ自体かよ、ちっちゃい世界で自己目的化してるんじゃねぇよ、と当時は思ったものだ。
でも、ミーティングに来続けること、分かち合い、他人と関わり続けることは、自分の頭の中で生きてきたやり方を変えることでもある。
現実を遠ざけてきた生き方から、目の前の現実、目の前の仲間と関わる生き方にシフトしていく。生き方や考え方はそんなに簡単には変わらない。来る日も来る日も仲間と関わることで、ぼくはいつの間にか、自分の頭の中から外に出られるようになった気がする。

今気がついた。
当時、ぼくの質問に「ミーティングに来続けることだよ」と答えた先行く仲間たち。
彼らは、ぼくの質問にダイレクトに答えていたんじゃなかった。
ぼくに、「お前さんはちゃんとミーティングに来続けないとイカンよ、さもないと生きていけないよ」と言っていたんだ。彼らの何か含んだような言い回しの真意を、当時のぼくはまったく気がつかなかった。

やれやれ。こんなことに気がつくまで、9年もかかるとはね。

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2011年4月 3日 (日)

日常に戻りつつ

あれほどひどかった給油待ちの車列も、いまはすっかり解消された。
街にはクルマがあふれ、渋滞もいつも通り。暖かくなってきたせいか、暴走族のけたたましいエンジン音も聞こえてくる。
いつの間にか日常が戻ってきている。
とは言え、原発の状況は日に日に悪化している。地元を離れる避難民も相変わらず多い。
ただでさえ行き詰まり感のあったこの街は、このまま過疎化して行くんだろうか。

職場の状況は変わらない。
家に帰ると日常が待っていて、出勤すると災害の非日常が待っている。ふしぎな感覚。
災害など関係なく届く、本社トップからの指示。

3.11以来、色んなことがねじれているような、今までと同じような、ちがうような、おかしな感覚が続いている。現実のような、現実じゃないような、ふわふわした感覚。軽い離人感。
日常が懐かしいね。

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