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2010年12月 7日 (火)

イネーブリング理論の功罪、底つき

国立精神神経センターの松本俊彦先生の話を聞いてきた。
米国MATRIXプログラムを下敷きにしたアディクション・プログラム、SMARPP(スマープ)を開発した先生だ。
SMARPPは、認知行動療法、動機付け面接、随伴性マネージメントをベースに、ワークブックとマニュアルに基づいた、統合的外来治療プログラムなんだそうだ。

話はすごくおもしろくて、刺激的で興味深いものだった。
印象に残った点を二つ。

1.イネーブリング理論の功罪
・「突き放し」をするならば、代わりの支えが必要。
・「底つき」は援助の中で体験するもの。


依存症者がアディクションを続けるには、イネーブラーと言われる「アディクションをお手伝いする人」の存在があることは、この業界に関わる人なら誰でも知っているだろう。
しかし問題なのは「結果的にアディクションのお手伝いになる関わり」であって、関わること自体が問題なのではないはずだ。
イネーブリング理論を強調するあまり、依存症者に関わる事自体が悪いことのようにとらえられ(それは、自分なりに一生懸命本人に関わってきた家族や周囲の人を傷つけ、新たなスティグマを与えることでもある)、関わる事自体を全中止してしまう。
松本先生はこうも言っていた。
悲惨なのは、イネーブラーさえもいなくなること。
イネーブラーがいなくなれば本人が底をついて、そこからV字回復をするなんてのは幻想だ、と。

2.イネーブリングを止めることと「突き放し」はちがう。
・突き放して、独りぼっちにして、放置プレイ。
・そうかと思えば強制介入(強制入院、通報→警察沙汰)、監禁プレイ。

その通りだ。
依存症者の心の底にあるのは、孤独と、そして例えようもない不全感だ。
自分が必要とされている感じがない。学校からも社会からも疎外され、家庭は安らげる場所ではなく、心の許せる友人もいない。
宇宙に投げ出されたような感覚。誰ともつながっていない、ひどく空虚な感覚。独りぼっちだ。
クスリや酒が、唯一心を慰めてくれるものだった。
生きている意味が分からない。生きるのが楽しいとか未来に希望が持てるとか、意味が分からない。生まれてきた事自体が失敗だった。早くこんなみじめな人生を終わらせたい。息をするのさえ苦痛だ。

そんな気持ちを持ったものを突き放したり強制介入したり、おせっかいで冷酷な誰かに「底つき」を突きつけられたら、どうなるだろう。
ただ死ぬだけだ。

現在、米国のアディクション研究では「底つき理論」は完全に否定されているそうだ。
松本先生は、こうも言っていた。

底付きとは、会社をクビになったとか家庭を失ったとか、そう言うことじゃない。ほんとうの底付きとは、仲間の中で得られるものだと思う。仲間の中で、自分を受容してくれる環境の中で、ああ、自分ひとりではもうどうにもならないんだな、自分一人では止められないんだな、こんな自分で良いんだな、と、そう思うことだ、と。
ステップで言うと、最初の3つに該当するだろうか。
ステップ1は自分で踏むしかない、とはよく言われている。
でも、支えがなければ、回復モデルがいなければ、とてもじゃないが怖くて無力を認められるわけがない。
あたたかさと安らぎが感じられる支えの中で、そこではじめて、無力を認める勇気がもらえる。

ぼく自身、近ごろ「底つきって何だろう」と考えていたので、まさにこのワークショップは「ユリイカ!」だった。
もちろん松本先生の話は医療援助者側、サービス・プロバイダ側の話だ。自助グループに早急に当てはめてはいけない。また初期介入の時期と、自助グループにつながってしばらく経ってからの時期とでは、問題の焦点も対処もちがうだろう。
けど、われわれ自助グループも社会資源なのだ。サービスの受益者であると同時に、サービス・プロバイダでもあるのだ。
古い理論にしがみつかず、どんどん新しい考え方にバージョン・アップして行って良いはずだ。

底つき。
自分は家庭や仕事を無くしていないから底が浅いんじゃないか。古い仲間の壮絶な底つきを聞くと、自分は底が浅くて回復できないんじゃないかと不安になる。
よく聞く話だ。けど、問題はそんなことじゃない。
自分一人の力ではどうにもならない。仲間の手を、あるいは信じられる誰かの手を求めたい。
いままで誰かの手を求めれば、そのたびに拒絶され、嘲笑され、傷ついてきた。
誰も信じられなかった。誰ひとり、何ひとつ。
けど、もういっかいだけ手を伸ばしてみよう。だってこれは自分だけではほんとうにもうどうにもならないし、きっと、今度だけは拒絶されないはずだから。
そう言うこころの動きが、底つきなんだと思う。
家庭や資産や地位を失っていたと言うのは、その心の動きが生じた時の、単に外側の風景に過ぎない。
それは派生的な事象であって、底つきそれ自体ではないのである。
そんなことで新しい仲間が悩まないようにフォローして行きたいものです。

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コメント

共感を持って読ませていただきました。松本先生の「ほんとうの底付きとは、仲間の中で得られるものだと思う。」の箇所、自分の体験でもそう思います。自分の場合、久しぶりに兄弟に会い、そのときに兄弟との結びつきを感じ、自分は変われる、という確信を得たのが今思うと底付きでした。

投稿: agu | 2014年12月14日 (日) 09:23

aguさん、こんにちは。
古いエントリーにも関わらずお読みいただき、ありがとうございます。
この記事を書いた4年前は、まだまだ底つき理論はアディクションアプローチの王道でした。けどいまは、あまり底つきという言葉を医療者側から聞かなくなったように感じます。
共感がなければ何をしてもムダなのである、というBBの言葉はやっぱり真実だったのだな、と思います。
あたたかさ、共感、人のつながり、温もり。凍ったアディクトの心を変えるのは、そういうものだと思うんですよね。

投稿: カオル | 2014年12月14日 (日) 11:12

> あたたかさ、共感、人のつながり、温もり。凍ったアディクトの心を変えるのは、そういうものだと思うんですよね。

心からそう思います。底つきというと、行動/状態/体調が一番ひどかったときというイメージになってしまいますよね。
なんだか語感が軽くなってしまいますが、転機/ターニングポイントの方が近いですね。

少しずつこちらのブログを読ませていただいています。キノコ帝国にもハマりました。笑 

投稿: agu | 2014年12月24日 (水) 20:03

aguさん

ありがとうございます。
最近更新頻度が落ちていますが、当ブログをぜひよろしくお願いいたします。
きのこ帝国はマジおすすめです!(^^)!

投稿: カオル | 2014年12月27日 (土) 12:11

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