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2009年5月 3日 (日)

忌野清志郎のこと

最初に見たのは、雑誌「宝島」だった。
80年代初頭の宝島はオシャレでポップで先鋭的で、退屈なメインカルチャーでもドロドロしたアングラでもない、ポップで刺激的なサブカルチャーの象徴だった。
中学生1年生だったぼくは、そこに写る数々の刺激的な写真や記事を何度も何度も読み返した。
そこでひときわ異彩を放っていたのが、RCサクセションだった。
ど派手なメイクと衣装でジャンプする清志郎。腰だめにギターを弾くチャボ。
一度見ただけで、脳裏に焼き付いて離れなかった。

RCが大好きな友達がいた。
ぼくは彼の家に入り浸っては、繰り返しRCの曲を聞いた。
日本のローリング・ストーンズ。日本のキースとミック。
チャボと清志郎を指して、彼はそう説明した。
トランジスタ・ラジオを聞きながら、ぼくはFENやアメリカのロックへのあこがれをどんどん膨らませていった。
ほどなく煙草の味を覚え、ぼくは校舎の屋上に忍び込む方法を学習した。
そして授業を抜け出して、屋上で煙草を吸った。
頭の中では繰り返し、RCのトランジスタ・ラジオが鳴っていた。

い・け・な・いルージュ・マジックでキョージュとからむ清志郎。
サマー・ツアーのじりじりと焦げるような夏の匂い。

大学に入ってからも、RCの曲は、清志郎の声は、いつも頭の中で鳴り続けていた。
大学時代は本当にお金がなくて、いつも腹を空かせていた。
「いいことばかりはありゃしない」を口ずさみながら、空きっ腹を抱えて眠った。
失恋した時、多摩蘭坂とデイドリーム・ビリーバーを歌い続けた。
清志郎がそばにいて歌いかけてくれているような気がした。
そう、チャボのギターと清志郎の歌声は、いつも頭の中に鳴り続けていた。

数年前、清志郎のソロライブを見に行った。
ソロになってからの曲は今ひとつなじみが薄かったが、それでも清志郎は清志郎だった。古い友達に再会したような気がした。
ライブ終了後、サイン会と握手会を開いた。ぼくは都合で参加できなかったけど、誠実な人柄が伝わってくるようだった。
その後、路上ライブまでやったという。どれだけ元気な人なんだろう。

2006年の荒吐。
1日目が清志郎で、2日目にチャボが出た。
チャボが話し始める。
「ゆうべ古い友達が電話かけてきて。こっちは桜が咲いてるぞって、わざわざ電話かけてきてそんなこと言ってんだよ」
目を細めて少し照れたように、はにかんだように話すチャボ。
古い友達ってのは、もちろん清志郎だ。
ああ、RCが解散しても、この人たちの間にはたしかに絆があるんだな。そう思った。
この人たちの絆から、RCの数々の名曲、名演が生まれたんだ。

2006年の荒吐も、2008年の荒吐も、清志郎のステージは最高だった。
ありったけのエモーション。
人の心を震わせる、惹き付けて止まない、最高のマジックだった。
月並みだけど、あの清志郎が空の上に行ってしまったなんて信じられない。
癌なんかで尽きてしまうなんて。

三日月に腰掛けてギターを弾いている清志郎。
いつものメイクで、ど派手な衣装で。

寂しい夜、泣きたい夜。悲しくて悲しくて、つらくて切なくて胸が張り裂けそうな夜。
そんな時はいつも清志郎の歌声がどこからか聞こえてきた。
スロー・バラードのイントロに続いて、いつものあの声が。
清志郎が三日月の上から歌ってくれているんだと思った。

いまも清志郎がお月様に腰掛けて歌っているのが聞こえてくる。
ぼくにはそれがはっきりと聞こえる。あの歌声が。
おやすみ、清志郎。

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