ぼくはぼくのために
仕事をしていても、ジョギングをしていても、食事をしていても、ミーティング会場に座っていても。
清志郎のことばかり考えてしまう。
何とか気持ちを切り替えようと、けさ1時間走った。
けど、自分が走っている感覚がない。走っている自分の体を別の自分が見ている感じ。
仕事をしていても、自分じゃない別の人が仕事をしているみたいだ。
離人感。
こんなに深い喪失体験を味わうなんて、思っても見なかった。
妻は言う。
あなた、最近はRCや清志郎なんてうちじゃゼンゼン聞いてなかったじゃない。
そう。その通り。
ぼくの中で、RCサクセションや忌野清志郎は「通過した」と思っていた。
中学や高校時代に熱心に聞き込んだけど、そこから興味や関心が別方向に向かって、自分はRCを通過した、卒業したんだと思っていた。
でも違った。
ぼくにとって彼の音楽は、彼らの音楽は、一番深いところに根を下ろしていた。
ふだん聞いていようといまいと関係なく、精神的な支えだった。
チャボが腰だめにギターを弾く姿や清志郎が高くジャンプする姿は、ぼくの中でロックの原風景だった。大事な象徴だった。
だからこんなに深い喪失感を感じるんだろう。
ぼくがアルコールにおぼれるようになったのは、20歳のころの失恋がきっかけだった。
その女の子に身も心も奪われていて、だから失恋した時は体が引き裂かれたような痛みを感じた。
その痛みを殺すため、ぼくは酒におぼれていった。
いま、同じ痛みを感じる。当時ほどではないにせよ。
飲まないでこの痛みを感じることができるのは、あるいは幸せなことなんだろう。
でもやっぱり。痛い。体の奥底の何かを根こそぎ奪われたような、深い空虚さ。喪失感。
死者を弔う。
それは死者を死者として位置づけ、その人がいなくなった世界で自分が生きていくための、区切りの儀式なんだと思う。
死者に敬意を払うと同時に、自分が生きていくための。死者を死者の世界に見送り、生者が生者の世界に踏みとどまっていくための。
あす、清志郎とそのファンと共に、最後のジャンプをしてくる。
夜が堕ちてくるその前に、もう一度高くジャンプするよ。
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