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2008年9月 3日 (水)

スカイ・クロラ I kill my father.

ようやく映画「スカイ・クロラ」を見てきた。
「うる星やつら」テレビ放映以来の押井ファンで、「ビューティフルドリーマー」に感銘を受けたものとしては、見ないわけにはいかない。

以下、ネタバレ。

例によって、レプリカントのアイデンティティが主題となっている。
自我を持った人工生命が「自分にとって生きることとは?」と悩むのは、別に目新しい道具立てではない。
フィリップ・k・ディックの一連の小説しかり、ブレードランナーしかり(同じか)、永井豪の「真夜中の戦士」しかり、その他、えーとえーと、とにかくたくさんある。押井作品でも攻殻機動隊を中心に、何度か語られてきた。
スカイ・クロラでも、キルドレと呼ばれる子供たちは無限に戦い、無限に死に、そのたびに記憶を消されては再生され、ショーとしての戦争に駆り出される。
そんな生に意味はあるのか?
過去なんてなく、気がついたら飛行場に赴任した時からの記憶しかない。パイロットの寿命は短い。早晩撃たれて死ぬだろう。自分が誰なのか、自分が戦う意味は、死ぬ意味は何なのか。ショーとしての戦争のために自分たちは何度も何度も戦い、死ぬのか。
そんな生でも、それでも生きていたいと願うか?生きる価値はあると思うか?
押井守はこの作品で、明確に「ある」と答えている。
ラスト、主人公のユーイチは自分が代替可能なコピーであることを知りつつ、絶対に勝てない敵「ティーチャー」に立ち向かっていく。
ティーチャーとユーイチの関係は分からない。唯一「大人の男」であるパイロット「ティーチャー」は、キルドレのオリジナルなのかな、とも思うが。
対戦ゲームでコンピューターの戦闘パターンを知ってしまえばほとんど負けることはない。それと同じように、コピーであるキルドレはオリジナルであるティーチャーに勝てないのだろう。
にもかかわらず、ユーイチは隊列を離脱してティーチャーに戦いを挑む。

ユーイチは逡巡する。
「それでも……昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことが出来る  いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか」と。
そしてその後。「This is my war. I kill my father.」
父を殺して、オリジナルを倒して、自己を確立する。自分がコピーではないこと、一個の自我を持った存在である証を立てようとする。

そしてもちろん、ユーイチはティーチャーに殺される。
目を見張る美しいCG。
ユーイチと同じ戦闘パターンのティーチャーは、ユーイチよりも巧妙に死角に入り、ユーイチの機体を穴だらけにする。コクピットにも直撃が入り、キャノピ一面に血しぶきが飛ぶ。
無残に叩きつぶされ、撃墜される。
空を見上げてユーイチの帰投を待つ基地の面々はやがて一人また一人、踵を返して去っていく。
最後まで待っていた恋人クサナギ(彼女もまたキルドレだ)も、最後に去っていく。
エンドロール。
その後、唐突に物語が再開する。
そのあとの数分間に、この映画の真の意味が、願いが込められている。

これは希望の物語である。
絶対に勝てない敵。絶対に勝てない敵に殺されるために繰り返される生。それでも違う景色に出会えることもある。いつの日かティーチャーを倒せる日が来るかも知れない。少なくとも、未来を信じて前に進むことは絶対に価値がある。そうでなければならないのだ。
圧倒的に絶望的な物語を通して希望を語る。
押井守の語る希望ははかなく、もろく、だからとても美しい。
スカイ・クロラ、見事なり。
ここ数年見た映画の中で、三本の指に入る傑作。
ぼくも希望をもらった。
生きること。信じること。成長しようと努力するのは決して無価値ではないこと。

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