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2006年7月 6日 (木)

DOGVILLEの衝撃

スカパーでDOGVILLEと言う映画を見た。
衝撃。
小学生の時に映画館で「地獄の黙示録」を見て自分の中の何かが変わった、何かが変容した感覚を得た。
今回もそれに匹敵する衝撃だ。

「地獄の黙示録」で描かれていたもの。
人間には底知れない闇の部分があるということ、そもそも何が正しくて何が間違っているか、何が正義で何が悪貨など相対的で便宜的なものに過ぎない。むしろ立派なお題目や大義名分ほどウソ臭く腐臭を放つものはない。ひとの心の中には、だれにも理解できない、誰にも共有できない、決定的な何かがある。決定的な何か。
ひとを焼き殺すナパームの炎を美しいと感じたり、慈悲のためにひとを殺したり、自分に自分を正常だと言い聞かせるためにひとを殺したり。
鳴り響くドアーズの「ジ・エンド」と、戦場のまっただ中で踊るビキニのプレイガール。
コッポラの描いた美しい悪夢。

DOGVILLEには、映像的には何もない。舞台となるアメリカの田舎町「DOGVILLE」。そこは家々がチョークで描かれた「線」に過ぎない。だだっ広いスタジオの床にチョークで線が描かれ、わずかに数枚のドア、ベッド、教会の鐘、トラック、その他いくつかの家具が実在するだけだ。
にも関わらず、DOGVILLEは圧倒的に映像的な作品である。
DOGVILLEは「人間の心理を可視化する」ことに成功した初めての映画かもしれない。

ニコール・キッドマン演じるグレースはギャングに追われて寂れた炭坑の村ドッグビルに逃げ込んでくる。村人のひとり、インテリ気取りのトムは彼女に、かくまう代わりに村人の各戸に労働を提供するよう提案する。村人たちははじめは手伝ってもらう仕事などなく、援助など受け取れない、と言う。
しかし警察の指名手配書が回ってきたりギャングの捜索が頻回になるにつれ、村人たちは負担感を感じる。やがてグレースの労働を当然のことと見なし、より過酷な労働を当然のこととし、そして・・・

チョークで描かれた田舎町。犬さえも、床にチョークで描かれた記号に過ぎない。
はじめは「ただのアバンギャルド趣味」にしか見えなかったこの仕掛けが、あとでたっぷり効いてくる。
観客はこの映画の心理描写から目を背けることができない。
美しい田舎の風景やギャング時代を再現した豪華なセットは出てこない。登場人物たちの繰り広げる心理ドラマ以外に、何も見ることができない。
そして舞台装置の可視性、透明性が、登場人物たちの傲慢さ、ぶん殴りたくなるほどの偽善臭さをよりいっそう引き立てる。

「地獄の黙示録」を通過したあとで何かが決定的に変わったように、DOGVILLEを見たあとで、自分の中の何かが変わったような気がした。
なんだろう。いったいなんなんだろう。
独善的な村人たち。自分の価値観でしか物ごとを見ることができず、相手の価値観を想像できないひとたち。善意を受け取りながらもやがてそれになれ、よりいっそうの善意と援助を当然のこととして要求するひとたち。
底の浅いヒューマニスト、理想主義者のトム。「自分が村の人々に、意識の変革をもたらしてあげる」という独善。
彼らに骨の髄まで貪られ、自我が崩壊するほどずたずたに引き裂かれるグレース。
しかし物語の最後、「グレースこそがもっとも傲慢なのではないか?」という、驚愕のメッセージが伝えられる。
傲慢とは?価値観とは?ひとを赦すとは?ひとをたいせつにするとは?自分らしさとは?
謙虚さとは?自分と他人の境界とは?
AAでも取り上げられるテーマでもあり、人間の本質に関わるテーマだ。
それがこの映画で、ものすごーくネガティブに描かれている。

監督はビョーク主演「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー。
登場人物に対し、本気で腹の立つ映画です。

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