タイムズ・スクエア、ロックな生き方について
中学生のころ、両親や兄妹が寝静まったあとの深夜はワクワクするような時間だった。
足音をしのばせて階下に下りる。
そうっと茶の間の扉を閉め、音が漏れないようにする。
父親の両切りのピースに火をつけ、台所の流しの下から清酒を一杯、茶碗に注ぐ。
テレビをつけ、小林克也の「ベスト・ヒット・USA」や「ラット・パトロール」を見る。
家族が寝静まったあとの、たったひとりのパーティ。
ぼくが唯一、酒を楽しんで飲むことができた時代だ。
ベストヒットUSAから流れる最新鋭のビデオクリップにはいつでも魅了された。
シーナ・イーストン、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ、デビッド・ボウイ、プリンス、プリンスの秘蔵っ子のシーラ・E、「スティル・ライフ」を発表したばかりの脂の乗ったローリング・ストーンズ、レオタード姿で「フィジカル」を歌うオリビア・ニュートン・ジョン、魅惑的なカルチャー・クラブ、デュラン・デュラン・・・数えたらきりがない。
80年代アメリカ。TVから伝わってくるその世界は夢の国、ぼくのあこがれそのものだった。
タイムズ・スクエアは、そんなある日の深夜映画で見た。
冒頭、ロキシー・ミュージックの「セイム・オールド・シーン」が流れ、不良少女が夜の街を歩いていく。ゲイ。ポルノ。ホームレス。暴力。彼女の目にニューヨークのアンダーグラウンドカルチャーが流れては消えていく。曲に合わせ、路地裏で少女はギターを弾き、ギターをガラスに叩きつける。
ニューヨークの空気と夜の繁華街のネオン、ロックンロールと反逆、行き場のない憤りとフラストレーションと不安。そのドキドキするようなヤバイ感覚が数分で伝わってくる。
地方都市のかたすみで劣等感にさいなまされているぼくにとって、それは魔法のように素敵な映像だった。
何のためらいもなく目の前のオトナにむかってギターを叩きつける少女に、例えようもない共感を覚えた。
その映画のタイトルは、一瞬で脳裏に焼き付いた。
「タイムズ・スクエア」。
それ以来、機会あるごとにその映画を探し続けた。ビデオ店、マイナー映画館のリバイバル特集、中古CDショップのワゴンの山。けれど「タイムズ・スクエア」は見つからなかった。
去年、アマゾンでやっと「タイムズ・スクエア」を見つけた。じつに22年ぶりにその映像を見ることができた。
ネット社会って、こういうときはものすごく便利だなと思った。
22年前の記憶と寸分たがわぬ映像に、まず懐かしさを感じる。
登場人物の80年代ファッションが楽しい。肩パット、女の子のやたら太いまゆ毛、ピンクやスカイブルーといったパステルカラーの取り合わせ。そうそう、こう言うのがオシャレだったんだよね。ああ鈴木英人。
そして22年ぶりに再会した主人公二人組は、ありったけのロックンロールだった。
精神病院から逃げ出しバンドを結成する女の子二人組。廃虚の倉庫の片隅に部屋をつくり、ラジオ局を乗っ取ってオリジナル曲をライブ演奏したり(ものすごくカッコいいの。いま見ても)の日々。
で、やがて二人は現実にどう向き合うかで対立し、ケンカ別れする。
そしてタイムズ・スクエア屋上で、ラストライブを決行する・・・。
この映画に描かれているのは夢だ。
絵空事だ。ありもしない絵物語だ。
こんな生き方ができるわけがない。病院を脱走したティーンエイジャーがまともに生きていけるわけがない。せいぜい体を売るかドラッグの売人に成り下がるのが関の山だ。
でもそれがどうした。絵空事で何が悪い?
この映画にはロックが象徴するもの、自由であることのすばらしさ、自分にとっていたいせつなものをたいせつにすることのたいせつさ、に満ちている。
時が流れ、この映画がどれほど過去に押し流されていこうと、胸の高鳴り、ともだちといっしょに走り出す気持ち、挫折、ときめきとあこがれ、ここに描かれた青春の輝きは色あせない。
70になっても80になっても、ぼくはこの映画と、この映画が描こうとしたものに共感する。
これは、ある種の人間にとってはこころを揺さぶられずにはいられない映画です。
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