〜ネット教育、小学校の試み〜
ちょっと前になるのですが、「ネット教育、小学校の試み」と言う見出しの記事が6月13日の朝日新聞に載っていました。
記事を読んだところ、小学校でもネット社会のマナー、いわゆるネチケットを教育する試みが始まっているそうです。
ネチケット。
webや新聞雑誌で読んだことはありますが、ぼくはこの単語をじっさいに会話の中で聞いたことはいちどもありません。何となく気恥ずかしいよね。
「おまえさー。ネチケットまもってるー?」
「イヤー、なかなかコーフンすると守れなくてさー。ネチケット」
うーん気恥ずかしい。
駄洒落ネーミングなのがとってもこまる。
みなさんは使っていますか?
何となく「E電」(知ってる?)に近いセンスを感じますよね。ネチケット。
ま、それはともかく。
記事を読む限り、なかなかおもしろい取り組みのようです。
チャットや掲示板が荒れる前に自分を押さえよう、過激な言葉を発するのをやめよう、ひとを傷つける言葉に自覚的になろう。
でもさー。
学校で「模擬チャット」とかいうの、おかしくない?
それって授業で習うものなの?
「相手を傷つける言葉はいけません」
「はーい、先生!」
「死ね、と言いたいときにはどう表現しますか?」
「はーい!氏ね、でーす!」
「この中坊、と言いたいときには?」
「この厨、でーす!」
冗談はともかく。
じっさいにチャットがからんだ衝撃的な事件が起きたからこういう記事が組まれるんだろうけれど。でも、そういうことを言い出したら「ゲームボーイでの対戦マナー」とか「スポーツをする時にいちばん運動神経の鈍い子を傷つけないマナー」とか、何でもありじゃないのか?
もちろんネットは言葉がすべてだから、ちょっとしたやり取りがエスカレートしやすいと言う特性はあるんだろうけれど。
でも子供なんて、相手をやっつける時は全力でやっつけるからねー。
言葉、表情、態度、ちょっとした動きや視線。
そういったすべてのコミュニケーション要素で思いっきり相手の人格を攻撃する。
子供って、そういうもんじゃない?
ぼくは少年時代、肥満児だった。肥満児で、運動音痴だった。スポーツがからきしダメだった。
高校に入るころにようやく身長の増加が体重の増加に追いついてきて標準的な体形になったけど、小中学校をとおしてみごとな肥満児だった。
小学校。
そこでは運動ができるかできないか、それがほぼ唯一の価値基準だった。
勉強ができるとか雑学に長けているとか洋楽の知識が深いとか物事の解釈がユニークだとかじっくり話すと意外にいいヤツ、とか、そう言うのは意味合いとしてはほぼゼロに近いさまつな付加価値でしかなかった。
運動ができる少年は、その社会ではヒーローだった。
ヒーローであると同時に、王さまだった。どちらかと言うと残酷な王さま。
王の言うことは何でも通った。
みなが集まった時にどんな遊びをするか。
どういう組分けをするか。どこにいくか。いつやめるか。
そこは完全な階級社会だった。
そしてその社会で、ぼくは圧倒的に最下層だった。
体育の時間は常に笑いものだった。
鉄棒なんて、いちども回れたためしがなかった。生まれてこの方、縄飛びの二重飛びもたったの一度もできない。
跳び箱は、たった1段か2段も飛び越せなかった。
そしてもちろん、授業中に跳び箱の上で顔を真っ赤にしている160センチの肥満児はとっても良く目立った。
好きな女子生徒がクラスメイトといっしょに自分を笑うとき、ぼくはほんとうにこの世から消えてしまいたいと思った。
サイアクなことに、先陣を切って運動のできないデブを笑い、サベツしていたのは、担任の教師だった。
ある晴れた日。
その教師が、きょうの体育はドッヂボールの練習をすると宣言した。
いつものようにただ組分けして勝ち負けをつけるのではおもしろくない。きょうはちょっとちがった練習をする。
教師はぼくの名を呼んだ。
○○(ぼく)はコートの中に入りなさい。それ以外のものはコートの外に立ちなさい。
そしてコートの中にいる○○にボールを当てなさい。
○○はふだんから動作が遅いから、機敏にボールをよけるれんしう。
それ以外の全員は、動くマト(ぼく)にうまくボールを当てるれんしう。
明快なルールで、全員が即座に理解した。
そして授業は始まった。
ぼくは四方八方からぶつけられるボールの痛みに耐えながら、ただもうひたすらその時間が一刻も早く終わることだけを祈っていた。
コートの真ん中にいればカッコウのマトになったし、ヘリの方に移動すればここぞとばかりに力任せにボールをぶつけられた。
どんなに機敏に動いたって(動けないけど)、四方から40人近い人数の標的にされてよけられるわけもなかった。避けるのをやめて立ち止まると、教師から叱責が飛んだ。
どこを見ていいか分からなかった。顔を上げると、とっても生き生きした表情で、侮辱の言葉とともにボールを投げる同級生たち。笑顔。笑顔。笑顔。その中には、好きだった女の子ももちろんいた。
つらかったのはボールが痛かったからではなく、とてもとてもとてもとてもとても、とてもみじめで自分が恥ずかしかったからだ。そこから瞬間移動して消えることができたら、ぼくはなんだってしただろう。
あれから26年の歳月が流れたけれど、そのときのことをぼくはつい昨日のように覚えています。
先生、お元気ですか?
話がだいぶそれたけれど、えー、ネチケット。
知識を隅から隅まで教えてどうにかなるものではないんじゃないかと思います。
たいせつなのは想像力。
シネとか厨とか言われて、それがどこまで冗談の範疇で通じるのか。
本気で赤の他人にしねと言われて、自分だったらどう感じるか。
ひとの痛みを感じられるか。
ネットできたない言葉を使ってはいけません、ひとを傷つける言葉を用いてはいけません。
でもそんなことあたりまえのことだし。むしろタテマエを並べれば並べるほど、だれのこころにも届かず、問題の本質から遠ざかっていく。
「ひとを傷つけてはいけません」なんて、知識としてはだれでも知っていること。
それでもおとなもこどもも、それこそあらゆる場面でお互いに傷つけあっている。
ぼくたちは傷つけあっていることに気がついてさえいないのかも知れない。
気がつかないまま、いまこの瞬間ぼくもあなたも、コートの中の肥満児に寄ってたかってボールをぶつけているのかも知れない。
あるいはぶつけられているのかも知れない。
あのときの40人のクラスメイトたちも、誰かを傷つけていると言う意識はまったくなかったのでしょう。
サベツとは、誰かを傷つけるとは、言ってみれば想像力の欠如だ。
相手を尊重する、思いやる、相手の立場になってみる。
少なくとも、そうしてみようと試みる。そういう努力のいっさいをやめたときに、想像力が止まる。停止する。
不用意な言葉で、ふとしたひとことでだれかを傷つける。
そして傷つけられた方が「オマエに傷つけられた」と迫り、相手の良心を苦しめる。
怒りと傷と恨みの連鎖。
どこまで行っても愛なんて生まれやしない。
そういう連鎖からは抜け出したいものです。
自分がどれだけひとを傷つけたか。ひとを傷つけた自分を認め、ゆるせるか。
自分がどれだけひとに傷つけられたか。自分を傷つけたひとを許せるか。理解しようとしたか。
うらみとにくしみの手綱を手放すこと。ゆるすこと。
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