2017年11月 4日 (土)

お久しぶり

どうも、カオルです。
お久しぶりです。
書きたいことはいろいろあるんですが、ブログを書くという習慣が、ややもすると遠ざかりがちです。
これは自分だけではないらしく、SNSの隆盛とともにブログは世界的に下火になっているそうです。
とは言え、SNSは一過性のメディア。過去の記事はあっという間に消えてしまい、検索もできない。
このブログは、自分の記録ではありますが、他の人にも役に立つであろうという信念で、細く長く続けていこうと思います。
どうぞ引き続き、よろしくお願いします。

えー、近況など。
あいかわらずアメリカ東海岸付近にいます。
職場のAAグループは解体寸前です(号泣)。
ほかのグループにはあまり顔を出していません。理由は、言葉の壁と治安です。
AAは基本的に言語を介した交流ですので、ことばが分からないというのは大きなディスアドバンテージです。
AAのスピーチは洋の東西を問わず発音は不明瞭ですし、独特の言い回しがあったり早口だったり、なかなか飲み込めません。
加えて、ミーティング会場はやや治安に不安の残る場所であることが多く、夜の8時スタートのところが多いこともあり、クルマを路駐することに抵抗があります。電車バスはさらにデインジャラスです。

とはいえ、ここでしか体験できないことはきっとたくさんあるはず。
またぼちぼちブログも更新して参りますので、ときどきは遊びにきてね。

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2017年6月27日 (火)

もう一つの自助グループ、スマート・リカバリー

アメリカはAA発祥の国であり、世界最大のメンバー数を誇る。なにせ、アメリカ1国だけで110万人以上、他国の合計を上回っている。
http://www.aa.org/assets/en_US/smf-53_en.pdf
ニューヨークにはゼネラルサービスオフィスもあるし、活動規模も世界最大だろう。
が、近年はAA以外のアディクション自助グループも台頭してきているようだ。
その一つ、スマート・リカバリー (SMART Recovery)のミーティングに参加してきた。

Self Help Addiction Recovery | SMART Recovery®

スマート・リカバリーとは何か?
一言で言えば、認知行動療法をベースにした、特定のアディクションに特化していない自助グループである。
基本的にはテキストやオンラインツールを使って、飲酒欲求や感情に対するセルフマネジメントの方法を学ぶ。ミーティングは、それを強化するために行われる。
核となるのは4点プログラム。
1.依存行動を止めるためのモチベーションを維持する。
2.衝動への対処法を学ぶ。
3.思考や感覚、行動を管理し、問題解決技能を学ぶ。
4.バランスの取れたライフスタイルを維持する。
この4点を、科学的な知識に基づいて学んでいく。宗教ないしスピリチュアリティといった概念は使わない。参加者はもちろんそう言ったものをたいせつにしてもいいけど、プログラム上は必要ない。
SMART(スマート・リカバリー・プログラムの総称)は自己エンパワメントを強調する。

参加希望者はオンライン(スマート・リカバリーHPかAmazon)でテキストを買い、webでサインアップしてオンライントレーニングを受け、同時に全国各地のミーティングに参加して先輩の話を聞き、自分の話をする。
テキストは10ドル弱で、同じくらいの値段のトレーニングDVDもある。

AAとの類似点
・断酒を目標としている。節酒(ハーム・リダクション)は目標としていない。
・ミーティングは体験談ベースで行われる。参加は自由。
AAとの相違点
・ハイヤーパワー概念を用いない。
・認知行動療法に基づいたテキストブックを使う。
・どんな依存でもOK。自分で止めたいと思う気持ちがあれば参加資格あり。
・献金はなし(どうやって運営しているんだろう?)
特徴
・AAやNAその他、ほかの自助グループメンバーであっても構わない。
・ファシリテーターはAAの司会よりも強く介入する(話に分かりにくいところがあったら説明を求める、個人の話のあとに少しやり取りがあるなど)。
・ファシリテーターは依存症者本人だけど、ファシリテーターになるための、何らかのトレーニングを受けている印象。
・プログラムを学習し終わってミーティングに留まり続けるかどうか、要するに卒業するかどうかは本人次第。
・全米にミーティング会場があり、規模は相当大きい印象。AAを受け入れられない人のオルタナティブ(もう一つの選択肢)としては最大手。

ぼくが参加したのは、自宅から近い某クリニックの談話スペースでのミーティングだ。
参加者にはクリニックの受付の人が駐車券を発行するなど、クリニックとの連携があるようだった。
その日のミーティングは夜7時から。
約20畳ほどの会場に椅子が並べられ、15人ほどのメンバーが集まってくる。
やや遅れて会場に着いたファシリテーターをつかまえ、見学をお願いする。本日のメンバー全員が同意すれば見学してもいいよ、と言われる。
メンバーからはもちろん同意が得られ、末席に座る。ミーティングは90分。
ファシリテーターが簡単なあいさつをして、車座に座ったメンバーを順番に指名していく。
メンバーの話は、AAとさほど変わらない。近況。最近感情的になったこと。家族との摩擦。楽しかったこと。酒やクスリを止めて良かったと思えること。などなど。
話の内容がよく分からなかったり脱線しそうになると、ファシリテーターが話を泊めて簡単な質問を投げかけたりする。また、一人ずつ話の終わりにはファシリテーターのコメントがある。
参加者の依存行動はいろいろだ。いちばん多いのはアルコールだが、薬物も多い。中にはまだ止める決心がついていない、と言う人もいる。少しトロンとした目でやや呂律の回らない人もいた。まだ薬の影響下にあるのだろうか。それでもファシリテーターは退席を求めたりはしないし、ムリに断酒断薬を勧めたりもしない。
予定時間も半ばを過ぎたところで、ある若者に順番が回った。
彼が言うには、自分はまだ高校生だという。だが、クスリによって学業や家族関係にヒビが入ってきた。何とかしないといけないとは思うが、まあ何とかなるだろう、と言うような話だった。
今ひとつまとまりがない。話の落としどころがよく分からない。
すかさずファシリテーターが質問する。何とかする、とは?
まあ、クスリの使いすぎってわけでもないし、ちょっと失敗しただけだと思う。
と言うことは、クスリを止めるつもりは?
ない。上手に付き合えば、これからもクスリを楽しめる。

他の参加者が数名、さっと手を挙げる。場の空気が熱くなってくる。議論だろうか。説教だろうか。
だが、他の参加者が話しはじめたのは、どれもみな自身の体験談だった。

―自分でクスリをコントロールできると思ってても、それは自分が認めなかっただけで、結局はコントロールなんてできなかった。傷が浅いうちになんとかできていれば良かったと、いまだに後悔している。
―この年寄りの話を、悪い見本として使ってくれ。自分はクスリと酒で仕事も家族も失うまで、ぜったいに自分の問題を認められなかった。スマート・リカバリーは良いプログラムだ。すぐに止めるかどうか決めなくてもいいから、また来週来てくれ。

話が説教じみてきたり押しつけがましくなってくると、ファシリテーターが上手にブレーキをかける。
意見を述べたのは二人、それも手短にまとめてもらい、その高校生の順番をさっと終える。この辺、絶妙のタイミングである。多少のフィードバックは必要でも、大人の説教なんて聞かされたらきっと二度とミーティングには来なくなるだろうから。

その高校生は、身なりも話し方も中流以上の家庭の雰囲気だった。腕にはApple Watchが光っている。すぐにクスリを止めるつもりはないにせよ、よくミーティングに来たものだと思う。たいしたものだ。

時間が来ると、ミーティングは「はい、じゃ時間なので」という感じであっさり終わった。
メンバー離れた様子で椅子を片付け、帰って行く。この辺はほかの自助グループと何も変わらない。

終了後、ファシリテーターの方と少し話をした。
彼はもともとアルコールの問題があった。最初はAAに参加していたのだが、家族が厳格なカソリックだったという。AAプログラムはどうしても家族に対するネガティブなイメージがつきまとい、うまく入り込めなかった。なのでスマート・リカバリーを選んだ。いまはもう何年も酒をやめ、こうしてスマート・リカバリーのファシリテーターも行っている。
年齢は50代半ばだろうか。穏やかな口調で話す彼は、なかなかの好人物だった。

ぼくの印象としては、かなり好感触だった。
もちろんぼく自身はAAメンバーだし、ほかの自助グループに鞍替えするつもりは毛頭ない。
でも、依存症から回復したいと思っている人間にとって、選択肢は複数あった方が良いと思う。
ファシリテーターの彼のように、どうしてもスピリチュアリティに関する部分が受け入れられない人もいる。「自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれる」という考えよりも、「飲酒欲求に対する対処行動を学ぶ」というやり方の方が受け入れやすい人も多いだろう。
スマート・リカバリーは、日本の多くのアディクション医療機関で行っている集団療法プログラムの、拡大版だという気がした。
また、AAやNAとスマート・リカバリーを掛け持ちで参加している人もいる、とも聞いた。
スマート・リカバリーはそれはまったくOKだし、むしろ喜ばしいと思っている。ただ、掛け持ちをやり始めた人の多くは、最終的にはどちらかを選ぶようになる、とも言っていた。まあ、日本でもAAと断酒会、両方行っている人もいるから、それと似たような感じなのだろう。

スマート・リカバリーはアメリカ以外にもカナダ、インド、デンマーク、香港、イギリス、マレーシア、タイ、南アフリカ、メキシコ、ロシア、オーストラリア、ウズベキスタン、スペイン、スウェーデンなど、世界の各国でミーティングを行っている。彼らによれば、世界で2番目に大きい依存症の自助グループであるという(the 2nd largest recovery support group in the world for addiction recovery)。

いずれ日本にも支部ができるのだろうか。
アルコールから薬物、摂食障害からギャンブルまで、スマート・リカバリーは何でもありだ。うまくいけば良い受け皿になるような気がする。反面、運営やファシリテーターはたいへんだろうなとも思う。
いずれにせよ、スマート・リカバリーという新しいムーブメントに期待したい。

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2017年6月25日 (日)

自分を超えた大きな力なんて信じない

ぼくが主に参加しているミーティングは通常6,7人の小さなグループで、ここ1年できちんとつながっているメンバーは2名程度だ。
ニューカマーは、もちろん来る。来るけれど、定期的にミーティングに参加する仲間は少ない。
先日、あるニューカマーがやってきた。
その日はビッグブックの読み合わせで、ぼくたちは「私たち不可知論者は」を読んでいた。
ニューカマーはすらすらとBBを読み上げ、ぼくは「さすがアメリカ人、英語がうまい」と感心しながら聞いていた。

(ちなみにぼくは、知らない単語は適当にムニャムニャとごまかしながら読んでいる。渡米して以来、英語力はさっぱりだが、ごまかす度胸はだけは身についた)

順番が回ってきたときに、彼女はこう言った。

すばらしい内容だと思う。書いてある内容は、どれももっともだ。
ただ私は、自分を超えた大きな力が自分を変えるなどという話は、信じることができない。
それが依存症を治すだなんて言う話は受け入れられないし、どうかと思う。

言うまでもなくアメリカはキリスト教が浸透している。ウィキペディアによれば、2015年現在アメリカ人の75%がクリスチャンだ。白人に限って言えば、ほぼ全員が何らかの形でキリスト教との関わりがあると思う。
Christianity in the United States - Wikipedia
だけど、それと「自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれる」ことを「信じる」気になるのとは、やはり隔たりがあるのだろう。

そう言えば昔、誰かが言っていた。アル中がハイヤーパワー概念を嫌うのは、宗教のあるなしとは関係がない。アル中はアル中だから、自分以外のものを信じることができないのだ、と。
そうなのかも知れない。

AAプログラムを受け入れられるかどうかとキリスト教の素養のあるなしとは、きっと関係がない。むしろクリスチャンだからこそ、AAのハイヤーパワー概念を受け入れられない人もいるだろう。
結局のところ、ステップを受け入れられるかどうかは、宗教を超えて、自分を変える決心ができるかどうかなのだと思う。

ニューカマーにとって、AAプログラムを受け入れるべき理由は、山ほどある。医者が勧めた。回復者が大勢いる。科学的疫学的にも効果が証明されている。長い歴史があり、特定の宗教観を押しつけるようなところではないことが分かっている。
反対に、AAプログラムを受け入れない理由も、探せばいくらでもある。こんな宗教じみた集まりには出たくない。他人の経験談を聞いて自分の話をするだけなら、家族や友人で間に合っている。ミーティングに参加する時間がない。そもそもAA自体が信じられない。
そう言った理由の中から何を選び、何を選ばないのかは、やはり本人次第だ。でも、できることならば、一度は試してみて欲しいと思う。

それにしても、「自分を超えた大きな力なんて信じない」とはっきりミーティングで言えるのは、さすがアメリカだ。職場や地域のコミュニティに参加して感じるのは、「自分の意見をはっきり言う」ことはきわめて当たり前、むしろ自分の意見を述べることが大人の責任であり、意思表示すべき場面で意思表示しないことは、どちらかと言えばあまり良くないこと、という考え方だ。
どんな場面でも、真逆の意見が出るのはごく普通だ。でもぶつからない。意見を交換する場面で意見を述べるのは当たり前だろう?という感じ。
だから自分とちがう意見が出ても、別にどうと言うことはない。感情的な対立は生じない。
日本だったら、会議で「場の空気」とちがう意見を言うのは相当に覚悟の要ることだ。
「ハイヤーパワーなんて信じない」とAAミーティングで言っても、完全にOKなのである。ほめられもしない代わりに、誰もぎょっとしない。
こういう風通しの良さは、いいね。

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2017年4月30日 (日)

プリンタくん、最後の授業

フランツ。席に着きなさい。

きょうはセンセからお話があります。よく聞くように。とくに三列目、あー、キヤノンくん。
キヤノンくんは、世界でナンバーワンのプリンタ会社です。や、もちろんカメラも作っている。印刷一般とか、大きな仕事もしている、あー、でも世の中ではプリンタを作っている大きな会社と言えば、誰もがキャノンくんの名前を挙げるでしょう。
あ、いいの。いいのいいの。謙遜しなくていいの。センセはそれに、責めるつもりとか、そーゆうーのはいっさいないから。

でね、きょう言いたいのはね、世界一の会社なんだから、それなりの誇りと、あと、なんつーの、キョージ?キョージであってる?キンジとも言うかな?プライド、そう、プライドを持ってほしいの。
たとえばね、たとえばの話なんだけど、キヤノンくん、世界中でおんなじプリンタを、ちょっぴーっとだけ型番を変えて売ってるじゃない?
たとえば日本で売っているインクジェット複合機PIXUS MG7530を、アメリカではMG7520という名前で売っているわけじゃない?
え?国によって電源とか規格がビミョーに違うから、同じ型番で出すわけにはいかない?いいのいいの。それはいいの。センセはそこを問題にしてるんじゃないの。
でね、電源まわりとかそーゆーのをのぞけば、ほぼ同じ機種じゃない?
ソフトウェアドライバも、本体の設定画面も、何から何まで同じじゃない?
それなのにね、インクタンクを非共通設定にしちゃうのはどうなのかなって、そう、ちょっとだけ、ちょーっとだけ、センセは悲しい気持ちになるのね。
いいの。それはいいの。責めてるんじゃないの。

でもきょうキヤノンくんに分かってもらいたいのはね。
日本からたーくさんたーくさん、MG7530の替えインクをアメリカに持っていったのね。
で、同じ機種の同じインクだから、とうぜんソケットにはちゃんとハマるのね。スポッて。
それなのに、ソフトウェア的に「このインクは使えません。ちゃんと適合したのを入れてください」って、それをはじいちゃう。
それがね、悲しいの。3セットも4セットも持参したインクタンクが、まるで使えない。ホントはちゃんと使えるはずなのに、ソフトウェアではじいている。
そこがね、ちょーっとだけ、いじわるなんじゃないかなーって、おもーの。ひとのね。も少しね。気持ちってものをね。

あれ?どうしたのキヤノンくん?
え?勝手な思い込みで人にセッキョーすんな?こっちにも都合ってもんが?
キヤノンくん、ヤ、そういう口調は良くない。センセにそーゆーのは良くないと思うぞ。
あー、やめなさい!インクジェットをその辺に噴霧するのはやめなさい!
最近の顔料系は雨でもにじまないくっきり印刷なんだから。取れないんだから。
話を聞きなさい。それからセンセの顔にインクを微粒子噴霧するのはやめなさい。
キヤノンくん?キヤノンくんッッ?!

…フランスばんざい!

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2017年4月25日 (火)

ジョハン・ハリの「アディクションからコネクションへ」ささやかな疑問と反論

イギリスのジャーナリスト、ジョハン・ハリ氏の「アディクションからコネクション」をテーマにしたビデオが、ここのところ流行っている。
もともとは、彼がTEDで2015年に彼が話したものが、分かりやすいアニメ仕立てのビデオになってYouTubeに出回り、話題になっているようだ。

ジョハン・ハリ: 「依存症」―間違いだらけの常識 | TED Talk | TED.com


骨子を整理してみる。
・いままで、薬物依存症は麻薬を大量に反復摂取することで発生するとされてきた。
・しかし、病院で疼痛緩和のための医療用麻薬を摂取しても依存症にはならない。
・なぜか?
・ある心理学者が「ラット・パーク」という実験をした。孤独な環境で麻薬を投与されたラットは依存になる。しかし、仲間やアクティビティが豊富な「ネズミ公園」に入ったラットは、麻薬を好まなくなる。
・依存症は孤独の病気だ。つながりがないと、人は他の快楽を探そうとする。
・現代、人はますます孤独になっている。その中でスマホやその他、さまざまなものに依存しつつある。
・依存は、個人の問題ではなく、社会の孤独の問題である。
・アディクションからコネクションへ。ひととのつながりが解決への手がかりだ。

文字起こしではないので、ぼくの主観がある程度入った要約である。
結論は、正しい。ぼくも共感する。
ぼく自身、孤独におぼれ、汚れたボロアパートにこもり、人との付き合いを遠ざけ、何年も酒を飲み続けた。
AAに来て仲間を得、プログラムを行い、酒をやめることができた。
孤独は誰にとっても大きな問題だし、アディクトにつながりを呼びかけ、社会との絆を訴えるジョハン・ハリ氏の結論はぼくも大いに賛成する。

しかし、ぼくは彼の主張にいささかの疑問を感じる。
一言で言えば、問題を簡略化しすぎている。その上、原因と結果を混同しているように見える。
上のビデオをはじめて見たとき、ぼくも感動した。
しかし2回目に見たとき、小さな疑問を感じた。

彼が論拠にしているラット・パーク実験は初めて聞いたけど、これほど画期的な研究なのになぜ今まで依存症業界で知られていなかったんだろう?
ぼくはアディクション関連の話題はネットでなるべくフォローしていたつもりだけど、このラット・パーク実験は知らなかった。

調べてみた。
カナダの心理学者、ブルース.K.アレクサンダー氏が1980年に発表した論文だ。
ラットパーク - Wikipedia
Rat Park - Wikipedia
上のウィキペディア、日本語版と英語版で大きな違いがある。日本語版にはたいせつなポイントが抜けている。

アレクサンダー氏のラット・パーク実験を再現しようとした研究は、いずれも失敗している。
再現に失敗した研究のひとつでは、ラット・パークと独りぽっちの、「両方の」ケージのラットとも麻薬摂取が減っていた。麻薬に溺れるネズミとそうでないネズミとでは、遺伝的要素のちがいが関与しているのではないか、と結論づけている。

アレクサンダー氏がラット・パーク実験を行ったのは1970年代の終わり。まだ依存症の科学がいまほど進歩していなかったころだ。それに比べ、今はさまざまな研究が進み、多くのことが分かっている。
アレクサンダー氏の仮説では、孤独という「環境要因」が依存症の原因であるという。
しかしその後の多くの研究で、依存症の原因は「遺伝的な要素」と「環境要因」の掛け合わせであるとされ、現在はこれが定説とされている。

Module 2: Etiology and Natural History of Alcoholism

アルコール依存症に限って言えば、遺伝要素が50%から60%と言われている。
そういった遺伝要因を持つひとにストレスや飲酒習慣などの環境要因が加わって、アルコール依存症が発症する。
遺伝は、何も親がアルコール依存症だとか大酒飲みだとかに限らない。
たとえば、お酒を飲んだときの反応性のちがいは遺伝する。お酒を飲んでもあまりグタッとならず、どんどん飲めちゃって、酔い覚めの不快さも少ない。そう言う体質はそうでない人に比べて、長じてアルコール依存症になりやすい。この特性は多くの研究でくり返し実証されている。

Subjective response to alcohol - Wikipedia

アルコール依存症は、遺伝が半分、環境が半分。

ゆううつな話だけど、これが今の科学界のコンセンサスだろう。
そして環境要因も孤独だけじゃなく、大量飲酒、大量飲酒せざるを得ない職場や家庭の環境、幼児期のトラウマ、酒へのアクセスのしやすさ、ストレス、色んな要素があると思う。

ぼくは孤独とアルコール依存症について、自分自身の体験としてこのブログに何度も書いてきた。
しかし、孤独が依存症の唯一の原因であり、孤独を解消すれば依存症が治ると結論づけるジョハン・ハリ氏の主張は、少々乱暴じゃないかという気がするのだ。
少なくとも方法論的に、1980年以降に達成されたあらゆる依存症科学の成果をスルーして、「ラット・パーク実験から孤独が依存症の本質」と結論づけるのは、フェアじゃない。
もちろん、過去に埋もれた優れた科学研究を掘り起こすのもアリだ。だとしてもそれは、その後の研究と対比した上で優位性を語るべきだろう。

「孤独が依存症の唯一の原因であり解決」説(長いので、以後はジョハン・ハリ氏説と書く)が危ういと思う点は、ほかにもある。
アディクトには、特段孤独じゃない人もいる。ぼくがクリニックに通っていたときにも大勢いた。
「自分は会社の重役で部下にも同僚にも恵まれ、関係もいい。友人づきあいもある。家庭も壊れていない。ただときどき飲み過ぎて仕事を休み、肝臓を壊しただけだ。飲み会だって今もじゃんじゃん行っている」
そんな話をクリニックの待合室で何度も聞いた。
孤独が原因であり解決なら、彼らは依存症ではないのだろうか。
また、対人恐怖やうつ、不安障害があって思うように人と接することができない仲間も見てきた。
ひどい暴力にさらされてきて、他人とまともに目をあわせることもできないアディクトもいる。
「孤独の解消こそが鍵」という見方は、人と接する力が十分ではない人にとって酷なのではないだろうか。
また、飲んでいるアル中がこのセオリーを都合良く書き換えて「オレが酒を飲むのは孤独だからだ。オレを孤独な気持ちにさせている家族、上司、周囲が悪いんだ」という自己正当化の詭弁に用いられないだろうか。
もし孤独を解消すればそれだけで依存症が治るのなら、治っていない(使い続けている)アディクトは、まわりが彼を孤独にしているからだ、周囲の対応が悪いからだ、と言う理屈が成り立ってしまう。
そして結果的に、アディクトの家族や関係者を傷つけてしまう可能性がある。

やっかいなことにアディクトはまわりをだまし、自分をだます。酒を飲みたいため、薬を使いため、もっともらしいウソをこしらえ、挙げ句の果てに自分でそれを信じ込んでしまう。
ぼくも酒を飲み続けたいがために親を責め、生い立ちを呪い、元妻や元上司の無理解を嘆いた。
自分が飲まなくてはいけないのは、彼らがストレスを与えているからだと訴え、自分でそのもっともらしいウソを信じ込んだ。
周囲に理解してもらえない自分は孤独だと、常に思っていた。
そんなアディクトの自己憐憫を、ジョハン・ハリ氏説は結果的にあと押ししてしまいやしないだろうか。そして、本人と同じかそれ以上に苦しんでいる家族を、さらに傷つけてしまわないだろうか。たとえば、こんな風に。

「主人の酒を何とかして止められないものでしょうか」
「依存症は孤独の病気です。彼が飲み続けるのは、孤独だからです」
「そんな…私たち家族は主人のためにできるだけのことをしてきました。私は主人のために仕事を辞め、つきっきりで世話をしてきました。厳しくしてはよけいに飲むと思い、彼を理解しよう、やさしくしようと努めてきました。それでも効果はなかったんです」
「それでも結果的に、彼は孤独だったのです。だから飲み続けたのです。孤独感を埋めればお酒は止まるのです」

この時代、孤独をまったくの他人事だと思える人は少ない。
誰もがどこかに孤独を抱えている。だから依存症は孤独の病気で、つながりの欠如が原因であり、人とつながることで解決する、と言う説は万人に訴えるし、受け入れられやすい。
くどいようだが、ぼくも孤独を解消しようという部分は賛成だ。
でも上に書いたとおり、ジョハン・ハリ氏説はラット・パーク実験以外のセオリーをスルーしているし、孤独というキーワードでover generalizationしている。

依存症は孤独な病気だ。
だから孤独からいかに脱出するかは、とても大きなテーマだ。
でも、孤独を解決すれば依存症が解決する、そんな単純でイノセントな話じゃない。
アディクションを解決するってのは、依存症が壊したものを、医療や自助グループやプログラムの手助けを得ながら、自分の手で直していく。
考えの歪み、自己憐憫、壊れた人間関係、失った仕事、家庭。酒で失ったものを、酒をやめて修理し、取り返していく。
それが回復だと思う。
孤独な環境が変われば、誰かに変えてもらえば依存症が解決するなんて、そんなもんじゃないと思う。
そう言えばわれらがビル・Wの物語も、ジョハン・ハリ氏説には当てはまらないよね。

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2017年4月21日 (金)

巨大ブリトーと格闘しながら思うこと

きょうの昼食はブリトーであった。

いや、そう言うことではない。そう言うことを言いたいのではない。
順を追って話そう。

ここ1年ほど、ランチを食べる習慣がない。
理由はふたつある。
一。外食が高くて量が多い。
職場のカフェテリアで食べると、だいたい10ドルから15ドル。日々の昼飯に千円以上というのは、ちょっとサイフに厳しい。
オマケに、やたらと量が多い。うまく言えないんだけど、どのランチもカツ丼大盛りくらいのボリュームがある。食べようと思えば食べられないことはないんだけど、毎日のお昼ご飯にその量を食べるのは明らかにオーバーカロリーだし、午後に眠くなる。
二。職場のランチグループに混ざりたくない。
じゃあお弁当か何かを持ってきて食べれば、とも思うんだが、ぼくの職場には若い職員たちのランチグループがある。やっかいなことに、ぼくのデスクのすぐそばだ。
一度だけグループに混ぜてもらったが、会話がまったく聞き取れなかった。どこの国でも、若者たちが早口でおしゃべりに興じるのは共通である。共通であるんだけど、そこに言葉の不自由な外国人が一人だけ混じるのはどう考えてもムリだ。だいたい日本でも職場の若者ランチグループなんて怖くては入れないのに、異国でできるわけがない。
まったく聞き取れないマシンガン英語が頭上で飛び交うのを聞きながら、ひたすら硬直した笑顔で昼休みが終わるのを待ち続けた。ええ、一回でやめました。

そういうわけで、昼休みはランチを取らずに仕事を続けている。英語の読み書きが他の人よりものろいので、昼休みを返上しても仕事は遅い。アメリカ人が1時間で終わる仕事が1日かけても終わらなかったりすると、泣きたいような気持ちになるが、まあそれはまた別の話。

で。きょうはたまたま、朝食を食べずに出勤した。
夜も予定が入っている。帰宅は9時過ぎになるだろうし、それまで何も食べないわけにはいかない。
と言うことで、深く考えずにカフェテリアに行き、目についたブースで料理を頼んだ。

出てきたのは、巨大なブリトーであった。


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ペーパートレイに乗った、白いブリトー。
長さは18センチくらいだろうか。太さはだいたい、一般的なコーヒーのタンブラーくらい。
全体に、ヤマザキのロールケーキを一回り大きくしたくらいのサイズである。

食べましたよ。ええ。食べましたとも。がんばりました。全力を尽くしました。
後半は失速気味でしたが、手を休めずに食べきりました。
値段は、コーラとセットで10ドル50セント。

いつも思うのだけれども、アメリカの外食業界はなぜ値段と量を半分にしないのか。こんなメガ盛りみたいな量をどこでも出してくるのはどうなのか。
この辺のことをアメリカの人に聞くと、だいたいいつも同じ答が返ってくる。
「誰かとシェアして食べればいいのよ」あるいは「コンテイナーを頼んで、余った分を持ち帰ればいいのよ」である。
しかしですね。職場で手の空いたときにさっと食堂に行ってランチを食べるのに、シェアして食べる相手を見つけるのはたいへんですよ。ていうか、ランチをシェアして食べるほど仲のよい人は職場にいないわけですよ。
それから、持ち帰ればいいって言われても、ランチの残りを持参して午後の会議に参加したくないわけですよ。だってブリトーですよ。においだって会議室に充満するわけですよ。
そして何よりも、巨大ブリトー1本とコーラがランチって、なんかいろいろな意味でまちがっている気がするわけですよ。ブリトーは三分の一でいいから、その分、こんにゃくの煮物の小鉢とかミニサラダとかミニ冷やしとろろそばとか杏仁豆腐とか、そう言うものを付けてほしいわけですよ。

と言うことで、案の定午後には眠くなり、会議はまったく頭に入らなかった。
何か自分の名前を呼ばれた気がするが、深く考えないでおこう。

ちなみにカフェテリア、まわりのアメリカ人はみんなもりもりとメガ盛りランチを食べていました。
そりゃー肥満と心筋梗塞が増えるワケですよ。

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2017年4月18日 (火)

恐怖と言う名の壁で

きょうのミーティング、ある仲間がこんなことを言っていた。

ぼくは自分で恐怖という壁を作り、その中に閉じこもっていた。
自分のまわりの世界はこわいことばかり、不安なことばかり。だから外の世界に出ないように、関わりを持たないように、自分の中にこもっていた。
でも結局のところ、恐怖の世界なんてなかった。
自分が世界をそのように見、そのように作っていただけだった。

同じようなことを、どこかの書物で読んだように思う。
とどのつまり、自分の世界、自分の周囲をどう感じ、どう受け取るかは自分のあり方しだいなのだ。
この世は絶望と恐怖がすべてだと思えば、そのように見える。
希望と良心が人々の間にあり、それを感じることができると思えば、そのようになる。
神は死んだと思えば神は死んでいるし、神はここにあると思えば神はここにある。

こころがへこんでいるとき、ぼくたちは外側に過敏になりがちだ。
自分の外側、特にネガティブなこと、自分の気に入らないこと、自分に害をなすように思えるものごとや人に過敏になる。そのことで頭がいっぱいになる。イヤな人、イヤなことのことが頭から離れず、この先自分には何もいいことが起きないような気持ちになってくる。
元凶を呪い、我と我が身の不幸をあわれみ、ネガティブな感情でこころが溺れそうになる。

でも、そうじゃない。
イヤな人、イヤなできごと、気に入らない状況は、われわれの周囲にずっと続いてきた。
そういったことと無縁で一生を終えた人がいただろうか。
もし「イヤなことや気に入らない人と、一生出会わない人生」を望むのなら、その願いが実現することは決してないだろう。
生きて、歳を取って、自分のしあわせを見つけていくと言うことは、自分の周囲の面倒ごととどう折り合いをつけてハッピーに生きていくか、どうポジティブさを持ち続けるかと言うことだ。
さもなければ絶望して、壁を作ってその中で生きていくしかない。

さいわいぼくたちにはAAプログラムと、それを使って問題を解決してきた無数の生き字引がいる。
壁を壊すのは、もちろん誰にとってもたいへんな努力が要る。
知らない人、予測がつかない状況にコミットしていくのはほんとうにこわい。しんどい。おっかない。
時には予感が的中して、面倒ごとがさらに悪化したりする。もう二度と他人なんて信用するかと、絶望的な気持ちになることだってある。
それでもぼくはやっぱり、人と関わっていき、自分の周囲と調和していきたいと思う。
自分の住む世界を、恐怖と不安で定義するなんてまっぴらごめんだ。
自分の壁は、自分の手で壊せる。そのための道具だってあるのだから。

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2017年4月 2日 (日)

恐ろしきかな縦列駐車

縦列駐車がこわい。
アメリカはクルマ社会である。銀行とかスーパーマーケットとか、たいがいの場所には駐車場が用意してあるが、都市部ではそうも行かない。あえて駐車場の少ない中心部に来るまで出かけなければならないこともときどきある。
そこで問題になるのは、縦列駐車である。
今のところ、まだ縦列駐車の技術を習得していない。や、やればできないこともなくはないが、切り返しだのやり直しだの、やたら時間がかかる。道路の流れをせき止めて縦列駐車のやり直しを何度もやっていると、後ろから容赦のないクラクション攻撃を浴びる。なかなかにストレスである。
できれば縦列駐車はしたくない。多少不便でも、縦列駐車をしなくちゃいけない状況なら最初からバスか徒歩を選ぶ。

縦列駐車に気が乗らない理由はもうひとつある。それは、前後のクルマである。後先考えずに、やたら車間を詰めて駐めてくる。
写真を見てほしい。あり得ないほどのすき間でびっしりと縦列駐車が並んでいる。
うまいドライバーは、キュキュッと数回切り返して魔法のように脱出できる。が、へたなドライバーも多い。
どうなるか?
もちろん、前後のクルマにぶつけて脱出するんである。

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クルマを傷つけたくない日本人としては、こういう状況はストレスなのである。つらいのである。避けたいのである。
中には前後のバンパーに厚いゴムパッドをつけて(そういうグッズが売っているんです)、縦列駐車のぶつけ攻撃に備えている人もいる。

それから、道路沿いのパーキングメーターはほとんどが25セント硬貨対応である。が、たまたま25セントを切らしていたりすると支払えなくなる。
自分はやったことがないが、ほとんどのパーキングメーターにはカメラが取り付けてあって、支払いが足りないドライバーの住所に、あとで罰金の支払い状が送られてくる。
アメリカはカード社会なので、ふだん現金を使う機会はほとんどない。何も考えずにクルマで出かけて25セントを持ち合わせておらず駐車できない、あるいは駐車したあとで支払いができないという事態も容易に発生する。

まあ、そうは言ってもやはりクルマは便利だ。
ライブハウスに出かけるときなど、終演後に疲れて電車で帰ってくるのはしんどい。
ガソリン代も安いし、電車は遅れがちだし、ついついクルマで出かけてしまうのである。
しかしそれにしても縦列駐車は(最初に戻る)

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2017年3月28日 (火)

休日の午後はコーヒーを

アメリカはコーヒー大国だ。お茶と言えばほぼコーヒーしかない。緑茶、紅茶、中国茶のたぐいはほとんど流行っていない。たまにバーガーショップなどで紅茶が置いてあるが、うっかり頼むと異様に甘い紅茶フレーバーの砂糖水が出てくる。ほとんど炭酸飲料のあつかいだ。お茶と言えばコーヒーなのである。
で、コーヒーがまたピンキリなのである。渡米して半年ほどして、わが人生最大級のまずいコーヒーを体験した。とあるサンドイッチショップでふとコーヒーを頼んだら、なぜここまでと言うくらいひどい代物が出てきた。これがよく推理小説などで出てくる、泥水と例えられるアメリカのコーヒーかと、妙に感動したくらいである。

一方で、ものすごく美味しいコーヒーにもありつける。インディペンデント系のコーヒーショップも多く、その大半は豆から焙煎から店の雰囲気から、ものすごく凝っている。
ぼくがよく行くのはそのひとつ、Vと言うコーヒーショップだ。車で40分と遠いのが玉に瑕だが、行くだけの価値がある。
アメリカのコーヒーはとても安くて、レギュラーサイズで2ドル前後というところが多い。が、Vの最上級コーヒーは5ドル。2倍半。でもそれだけの価値がある。
オーダーを受けてから一杯ずつ目の前で淹れてくれるし、量も大ぶりのマグカップにたっぷりと入れてくれる。店員さんもとても愛想がいい。ぼくのたどたどしい英語でもにっこり笑って茶目っ気たっぷりに返事してくれる。チェーン店の店員さんが英語のおぼつかない客に冷たいのとは対照的だ。

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アメリカのコーヒーショップの多くは電源コンセントが豊富にあり、無料Wi-Fiを提供している。勉強している人、仕事をしている人も多い。けどスノッブな印象はなく、パソコンに黙々と向かっている人もいれば友だちと楽しくおしゃべりしている人、コーヒーを飲んで物思いにふけっている人、それぞれが好きなことをしている。店が広くて席数が多いせいか、長時間いても変な肩身の狭さは感じない。
まあ、仕事や勉強の人もだいたい2,3時間で帰って行くようだ。さすがにまる一日コーヒー一杯で粘っている人はいない印象だ。

と言うわけで、淹れ立てコーヒーを飲み、アサイーのシャーベットを食べ、仕事の資料などを読みつつ周りの人々を観察していると、なんとなく休日の午後が終わる。
午後の光が差し込み、表に誰かが駐めたピックアップトラックの濃いブルーに反射している。
落ち着くひとときです。

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2017年3月26日 (日)

回復は素晴らしい — 元Keaneのボーカリスト、トム・チャプリンの圧巻ライブ

キーン(Keane)と言うバンドをご存じだろうか。2000年代の初めごろにイギリスからデビューし、ボーカルの美しい歌声とキャッチーでセンチメンタルなサウンドで一世を風靡したバンドである。
方向性はちがうものの、美しいファルセットボイスとポジティブでやさしい曲世界は、コールドプレイとよく比較されていた。日本のバンドで例えるならば、スピッツあたりだろうか。

が、コールドプレイがヒット曲をかっ飛ばしてスタジアムクラスのバンドに成長したのに比べ、キーンはいつのころからか活動を聞かなくなった。
散発的に入ってくるネット情報によれば、ボーカルのトム・チャプリン(Tom Chaplin)が深刻な薬物依存に陥り、バンドは無期限停止に突入したという。
ぼくは彼らの(というか、トム・チャプリンの)音楽が大好きだったので、その後も彼らの曲はプレイリストに常に入っていた。ただ、彼らの新曲が聞けないのは残念でならなかった。

唐突に、そのトム・チャプリンがぼくの住んでいるあたりでソロコンサートを開くという情報が入ってきた。急いでチケットを手配した。なにせ、キーンのトム・チャプリンである。活動停止中とは言え、一時期はコールドプレイと肩を並べたバンドである。チケットはすぐに売りきれるに決まっている。
が。
案に相違して、チケットは売りきれなかった。それどころか、ふだんは全席指定のそのコンサートホールは、完全自由席だった。ぼくが到着したときは客は5分の入りで、最前席付近も空席があった。そして、二階席はクローズドだった。
恐ろしきは時の流れである。かつての超人気バンドも、いまや閑古鳥か。
きっとクスリの問題もちゃんと解決していないんだろうな。昔の原田真二(古っ!)を彷彿とさせる愛らしいルックスも、きっと衰えちゃっているんだろうな。声も出なくて、ファルセットを駆使した昔の曲もやらないんだろうな。

そんな暗い想像をして、ちょっと帰りたい気分になりながらぼくは彼が現れるのを待った。
ちなみに周囲は7割方が女性である。ぼくの隣は、30代の中国人女性3人組だった。楽しそうにキーンの話をしている。きっと青春時代にキーンの音楽にひたっていたんだろう。ああ、もうすぐ出てくるのはヨロヨロの元トム・チャプリンに決まっているのに。

客電が落ち、バンドが現れた。ステージにはエレクトリックピアノが置いてある。てっきりキーンと同じようにトム・チャプリンはピアノを弾き語りすると思っていたのだが、そこにはバンドメンバーが座った。
曲が始まり、ボーカリストが現れた。
あれ?誰だこの元気のいい色男は?
ぼくが知っているトム・チャプリンは、線が細く、前髪を垂らし、うつむき加減でピアノを弾く男であった。が、いま目の前にいるのは胸を張ってハンドマイクで歌い、ステージ狭しと動き回るエネルギッシュな男である。髪は短く、スキニーなジーンズとTシャツ、筋肉質で引き締まり、そして体中からエネルギーがあふれている。
キーンのボーカリストの繊細なイメージはなく、引き締まった身体からあふれ出てくる声量いっぱいの歌声。
隣に座っていた妻から、この人がボーカルなの?と聞かれるが、確信を持って答えられない。誰なんだこの男は?
だが、曲が2曲目に進んだあたりで、ようやく確信した。この男は、まちがいなくトム・チャプリンだ。こんなに歌がうまい男はほかにいない。こんなに高音域とファルセットをやすやすと操れる男はトム・チャプリン以外にはいない。何よりも、このポジティブでやさしい音楽は、まちがいなくキーンの楽曲を作ってきた男のものである。

こいつ、回復しやがった…。

バンドの演奏もとてもいい。タイトだけどタイトすぎず、ドライブしすぎない。メンバーのアイコンタクトやちょっとした仕草から、仲が良さそうなのが見て取れる。
だが何よりも、トム・チャプリンが圧巻だった。ひとつ。キーン時代よりさらに歌がうまくなっている。ふたつ。体中にエネルギーが満ちている。みっつ。客のヤジに笑って応えたり、ライブをとても楽しんでいる。

ライブ中盤で、少し長いMCが入った。
バンドのメンバーはいったん袖にはけ、トム・チャプリン一人が中央のピアノの前に座った。
そこで彼は、自分のアディクションについて語った。
自分がクスリに溺れていたこと。オーバードーズで死にかけ、妻が取りすがって涙を流したこと。クスリをやめる決心をし、リハビリ施設に入ったこと。そしていまはクスリをやめて1年になること。今回のソロアルバムが、自分のアディクションと回復についての個人的な体験をもとにしていること。
そしてピアノの前で彼はこう言った。
「回復は素晴らしい。ほんとうに、素晴らしい」

割れんばかりの拍手。

ソロコーナーを経て、またバンドが入り後半が始まる。
大半がソロの曲だが、ところどころでキーンの曲が混じる。本編最後の曲はキーンの名曲「クリスタル・ボール」。まわりはみんなサビを歌っている。隣の中国人女性たちも歌っている。自分も歌いたいがなにせキーが高くて声が出ない。
そしてアンコールは、これまたキーンの名曲、Everybody's Changing。
最初から最後までトム・チャプリンは歌い続け、動き続け、ライブは終わった。

以前にナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーのところでも書いたが、アディクションから回復したアーティストには独特の何かがある。単に明るくなったとか体力がついたとか、そう言うことではない。
精神的なタフさ、強靱さを感じるのだ。
こう言っちゃあ何だが、アディクションとはぶっちゃけ「負け」である。
そりゃそうだ、大成功を約束されたバンドをつぶし、死にかけて奥さんに本気で愛想を尽かされかけ、いまだに中規模のコンサートホールすら満員にできない。経済的にも人気的にも、勝ち組コールドプレイに遠くおよばない。
だが、それがどうした。それが何だというのだ。
彼の体中から、回復のよろこびがあふれてくる。音楽を奏で、歌を歌うよろこびがあふれてくる。
そこにはアディクションで自分の人生をいちど失いかけ、それをまた取り戻した男ならではの強靱さ、タフネスがみなぎっている。
たぶん、キーンがあのまま成功路線をひた走っていたら、こういう風にはならなかっただろう。トム・チャプリンはいまだにピアノの後ろで繊細な歌と演奏を続けていただろう。
回復は素晴らしい。そう、力強く彼が言うとおり。回復は素晴らしい。いっかい負けてそこから這い上がってきたものは、それをやったものだけが持つ輝きがある。

家に帰ってからキーンの曲をもう一度聴き直した。デビュー当時からエンジェルボイスと表現された歌声。
が、明らかに、誰の耳にも明白に、きょうのライブの方が歌がうまくなっていた。歌唱力もさることながら、エモーションを表現する力がすごいのだ。圧巻としか言いようがない。
そして、ほんの少しだけ、回復は素晴らしいと公言できるミュージシャンが日本にいないことをさびしく思う。
彼が12ステップグループに入っているかどうかは知らない。回復したミュージシャンのインタビューを読むと、リハビリ施設に入所したあとは通院や定期的なメディカルチェックアップだけで何とかしているという話も良く聞く。それはそれでかまわない。
でも、依存症からの回復というすばらしい体験を、トム・チャプリンにはぜひ伝え続けてほしいと思うのだ。それは伝えるに値するし、彼の回復の姿は、大勢のファンと回復途上のアディクトに勇気を当たるのだから。
2017年の上半期は、イギリスを中心にツアーをするようだ。いくつかの会場はソールドアウトが出ている。よろこばしいことである。
願わくば彼の音楽が世に伝わり、多くの人の耳に触れて欲しいと思う。

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2017年3月25日 (土)

インセンティブ・サリアンスとミルクにウィスキーを垂らしたジムという男の話

アルコール依存症という病気について調べてみると、ビッグブックに書かれている内容と共通する点が多いことに気がつく。
少し前からインセンティブ・サリアンス (incentive salience)と言う言葉をよく見かけるようになった。
正確な日本語訳を知らないのだが、「報酬刺激への過敏な反応性」というあたりだろうか。
依存症に限って言えば、アルコホリクは飲酒刺激に対する反応性が過敏だ(あるいは過敏だった、ある程度のソブラエティが得られるまでは)。

インセンティブ・サリアンスは、例えてみれば「グラグラにゆるんだ引き金」みたいなものだろう。
ふつうの人にしてみれば引き金を引くに至らないようなちょっとした刺激で、依存症の鉄砲はいともかんたんに暴発してしまう。
科学者によれば、これは依存症の渇望のうちwanting(依存物質がほしい、必要だという欲求)に関連しているという。
(関連して良く出てくる言葉で、likingとwantingの二つがある。likingは快楽のためにそれを求めるという感覚、wantingは必要だからそれを求めるという感覚、だそうだ。酒で言えば、飲んで気持ちよくなりたいというのがlikingで、不愉快さや嫌な気持ちを避けるために飲みたいというのがwanting)

ある論文から引用してみる。

この種のwantingはしばしば報酬に関連した刺激、または鮮明な報酬物質のイメージによって引き起こされる。ふつうの人のwantingは、自覚している特定のゴールに結びついている。しかしインセンティブ・サリアンスのwantingは特定のゴールへの結びつきが弱く、報酬刺激に強く結びついている。その刺激は、報酬物質を魅力的に見せ、それを手に入れ、使いたいという強い欲求に変わる。

Liking, wanting, and the incentive-sensitization theory of addiction. - PubMed - NCBI

要するに、飲酒に関する刺激を受けると、魅力的だな、飲んだら気持ちいいだろうなという欲求が高まり、それがどういう結果をもたらすかはうまく考えられなくなると言うことだ。
また上に挙げた論文によれば、依存が進めばwantingの感覚は、ドパミンシステムを介して強まっていくという。

この話を読んだときにぼくが思い出したのは、ビッグブックに書いてあるジムの話だ。
AAメンバーなら誰でも知っているこの哀れな(そしてわれわれの大半が共感できる)男は、酒のために仕事も家族も失いかけ、今度飲んだらすべてを失って精神科病院に逆戻りすることが分かっていた。
にもかかわらず、「ミルクにウィスキーをちょっと垂らしても害はないだろうな」という思いつきが頭に浮かび、その瞬間、それがどういう結果をもたらすかという考察はすべてわきに押しやられた。結果、ジムは酔っぱらい、またしても再発の道を歩き出した。自分が依存症であり、こんど飲めばどういう結果になるのか正確に分かっていたにもかかわらず。

BBではこれを「狂気」と描写している。そのとおり。そして2017年現在の依存症の科学に照らして言えば、ジムがおちいった罠の正体はインセンティブ・サリアンスだろう。
ジムのグラグラになった飲酒の引き金は、「お腹もいっぱいだし、ミルクにウィスキーを垂らしても大丈夫なんじゃないか」というふとした考えによって、あっけなく引かれてしまった。
きっとwantingが押し寄せたとき、彼の頭の中では関連したドパミン活性が高まって、結果を合理的に類推することができなくなっていたんだろう。
それを狂気と呼ぶのは、正常ではないという意味では正しい。ただ、実際に脳の中でwantingやら渇望やらが生じているときに、それを意志の力でコントロールするのは無理だろうとも思う。
BBでは、最初の一杯に対する防御はハイヤーパワーだけがもたらすという。ハイヤーパワーのことを科学がどう解釈しているのかは知らない。だが、BBにせよ科学にせよ、少なくとも「自分の力ではどうしようもない」と言うことだけはたしかだ。

上に挙げた論文には、後段になって怖いことが書いてある。
コカイン、覚せい剤、ヘロイン、アルコール、ニコチンなどの薬物乱用により過敏化された(sensiteized)ドパミンシステムは永続的に続く。中脳辺縁系の過敏化は上記薬物のくり返し大量使用により発生し、いちどそうなれば、おそらく半永久的に残る。

上記の説は、人によっては受け入れられないかも知れない。じっさい自分も含め、多くのAAメンバーはそうかんたんには再飲酒しない。ジムのような経験を外食するたびに繰り返していたら、命がいくつあっても足りない。ソブラエティが長引くにつれて、再飲酒の引き金はそうやすやすとは引かれないようになってくる。ありがたいことに。

だがその反面、引き金の軽さ(インセンティブ・サリアンス)が残るという上記の説が正しいんじゃないかとも、感覚的に感じる。
われわれが再飲酒せずに済んでいるのは、AAプログラムを身につけたからであり、仲間との支えがあるからであり、飲酒刺激がやってきたときの対応策をいろいろと学んできたからである。つまり、引き金に触らない方法、引き金にカバーを掛ける方法、引き金にかけた指をゆるめる方法を身につけてきたからであって、引き金の軽さそれ自体は変わっていないような気もする。
うまく逃げる賢さを学んだのであって、酒を克服する強さを手に入れたわけではないのだ。

そう考えると、われわれは常に用心する必要があるし、「依存症は過去のこと。あんなひどい状態にはもう二度と戻るわけがない」と考えるのもまちがいだろう。もちろん、解決方法がAAでなくてもかまわない。AAをきっかけに飲酒問題を解決し、いまはミーティングから離れてしあわせに暮らしている元メンバーを何人も知っている。彼らが彼らなりの方法でインセンティブ・サリアンスの罠をうまく回避して、その人らしく生きているのなら、それは僥倖である。
ただ、問題は常に残っている。科学者が言うように過敏化された引き金が半永久的に残るのであれば、備えを続けるのが当然だ。そう言う意味では、プログラムを続け、仲間と支えあい続けるのはごく自然なことだ。まさに、人を助けることで自分も助かる。自助グループの自助グループたる本質の部分だろう。

それにしても、酒をやめ続けることで何が変わり、何が変わらないんだろう。
やめ初めのころよりも気持ちは安定した。飲んでいたころ、やめ初めのころのような感情のぶれは少なくなってきた。また、激しい飲酒欲求にさいなまされて苦しむこともなくなった。
でも、たぶんインセンティブ・サリアンスは残り続けるし、何らかの依存症的な特性は残り続けているんだろうと思う。それはたとえば「一度飲み始めたら元に戻る」という肉体的な特性かも知れないし、依存症的な思考のゆがみみたいなものなのかも知れない。
いずれにせよ、科学は進み続けているものの、まだまだ未知の領域は多い。変わらない部分を何とかしようとするより、自分にできること、気づきを得て自分を変えられることに集中した方が良さそうだ。

それにしても、ジムはその後どうなったんだろうね。無事に酒をやめられたんだろうか。

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2017年2月 7日 (火)

Women's march - 多様性と民主主義 -

少し前になるが、米国新大統領が就任した翌日、2017年1月21日。ワシントンDCでの大規模な市民行進に参加してきた。

Women's March on Washington

ある女性の呼びかけがきっかけで、全米、ひいては全世界中での同時開催になったこの集会。
日本では「反大統領集会」と報道されているようだが、少しちがう。
この集会の主張、意味を、当日あの場所にいたひとりとして伝えておこうと思う。

前日の就任式は、近辺の地下鉄は閑散としていた。余裕で座席に座れ、混雑もない。翌日のWomen’s Marchも同じだろうと高をくくっていた。が。
駅の構内からして、ただならない人出である。電車に乗り込むと、あり得ないほどの人混み。日本の通勤電車並みだ。
乗客はみな一様に、この集会の参加者であることを示すピンクのニット帽をかぶり、手には思い思いのプラカードを持っている。
男女比は、6:4くらい。女性の方がやや多いが、女性ばかりというわけではない。人種は白人が7割、残りがアフリカ系アメリカ人、中東、アジアンと言うところだろうか。
雰囲気は明るく、平和的だ。コンサートに向かう人たちの集まりという感じで、見知らぬ同士が談笑している。
行進のスタート地点近くの駅に着く。ピンクのニット帽をかぶった参加者で、東京駅並みの人混み。
あまりの人混みに、メイン会場には近づけず、目的地がどこなのかもハッキリ分からない。
右を見ても左を見ても、プラカードを掲げた大勢の人たち。
主張はさまざまだ。
「賃金を上げろ」
「移民、避難民を排除するな。私たちは彼らを歓迎する」
「女性の権利を守れ」
「LGBTQに権利を」
「多様性を守れ」
「温暖化対策を守れ」
「オバマケアに触らないで」
そしてもちろん、新大統領をこき下ろすプラカードも。

予定では、メイン会場で2時間ほど代表者のスピーチがあり、それから行進が始まるはずだった。
が、スピーカーの方々がみな興奮して話が延びまくる。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」で有名なマイケル・ムーア監督も、異様に力を入れて(長々と)スピーチをする。
2時間の予定が3時間を過ぎ、シンガーのアリシア・キーズの演奏が終わったあたりからまわりがじれてきた。
We want march! We want march!の大合唱が始まり、メイン会場の行事が終了していないにも関わらず行進が始まる。
個人的にはマドンナのパフォーマンスが見たかったのだが、まわりに押され、自分も人波に飲み込まれる。

大通りに出ると、首都を埋め尽くす勢いの、大量のピンク帽である。
これだけのデモだと反対派とのいざこざがあるのではないかと心配したが、非常に平和的だった。
ちなみに、大統領に対するプラカードやシュプレヒコールも、揶揄はあっても「死ね」だとか、人格を否定するような文言はない。この辺はとても安心できる要素だった。

大勢のピンク帽にもまれ、山ほどのシュプレヒコールを聞き、プラカードの文言を読んだ。
彼らは、単に新しい大統領とそのやり方に反対しているのではない。
堕胎をふくめた女性の権利、LGBTQをはじめとするマイノリティの権利、環境問題、移民の強制排除、色んな問題が混じり合っている。
でも、根っこのところでは、アメリカの国民性そのものである「多様性」と「民主主義」が脅かされつつある。それに対する抗議であり意思表示だと、ぼくはとらえた。

アメリカは多様性の社会である。
それは、日本人が日本で使う多様性という言葉と、少し意味がちがう。
もともと今のアメリカ合衆国は、ヨーロッパからの移民が作った。フランス、イギリス、オランダ、ヨーロッパ各地のさまざまな他民族が集まって建国し、そこにアフリカ系アメリカ人が加わり、南北戦争があり、いまのアメリカ合衆国が生まれた。
多民族国家としてはじまったアメリカという国は、最初から「ちがう人たち」の寄り合い所なのである。
生まれも文化も価値観もちがう人たちが寄り集まってできた国アメリカ、そこでは「自分と他人はちがう」と言うこと自体が価値あることだとされている。
現に、アメリカの教育場面では、とにかく「人とちがうアイディアを発想し、ちがう角度からの意見を積極的に述べること」がよしとされている。
「他人と同じであること」は、アメリカではネガティブなことなのだ。この国では「空気を読んで周囲に同調すること」には、なんの価値も置かれない。どんな問題に対しても賛成なら賛成、反対なら反対、別意見なら別意見と、誰でもしっかり意思表示する。他人の発言をなぞるだけのひと、独自の意見を持たないひと、発言を求められてなんの意見も表明できないひとは「何も考えてない人」と見なされるである。
そういう多様性が重視され、ひととちがうことが良いこととされ、色んな意見をわあわあと述べ合って問題解決を図るのが伝統とされる国で、新大統領のやり方は反感を招いた。
それは彼のやり方が、多様性を否定し、反対意見との対話を拒んでいるようにしか見えないからである。
多様性と民主主義、対話の否定は、アメリカ人のアイデンティティの根幹に関わる問題である。だからあれほど大勢の人たちが、この抗議集会に参加したのだと思う。
もちろん地球温暖化の否定、性の多様性の否定、移民の強制排除、特定の宗教の背番号制など、国際協調や人権を否定するような個々の問題も大きい。
しかしこの反対運動のうねりは、米国のアイデンティティに根ざしているのだとぼくは思う。

それにしても、新大統領の矢継ぎ早の新政策には驚かされる。
今のところ暴力的な事態は起きていないが、このまま不満が高まっていけば目に見える形での衝突が生じないとも限らない。
閣僚もまだはっきり決まっておらず、個々の政策が実務レベルで機能しているようには思えない。
早く混乱が収まってくれるのを願うばかりである。


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2017年1月28日 (土)

できないことを認める

異国に暮らしていると、「できないこと」に直面してばかりだ。
例えばいま、上司にミーティングキャンセルのメールを書いた。このメールを書くのに1時間かかった。
1時間も何をしていたのかと言えば、業務進捗状況の確認に15分、自分の感情と折り合いをつけるのに40分。メール書きは5分だ。
なにせ、上司からの課題が遅れに遅れている。すでに数ヶ月。とうに仕上がっていなければならない。しかし、そのためには大量の書類を読み、分からないところがあれば知っていそうな人に問合せ、書類の草稿をまとめ、また訂正という作業を繰り返す必要がある。
これを英語でやるというのは、非常につらい。
つらい上に、アリが這うほどの速度でしか進まない。そしてできた英文の文書は、自分で読んでもいやになるほどクオリティが低い。
日本にいて、日本語で、日本人の同僚に同じことをやるのは造作もないことだ。ちょっと、ここ分かんないんだけど、知っていたら教えてくれないかな?いま詰まっちゃってるんだけど、どうしたらいいかな。ちょっとこれ、読んでみてもらえる?
しかしいまは人にものをたずねるにも、質問事項をまとめ、英語の言い回しを考え、その上で話を持って行かなければならない。頭に浮かんだことをそのまま口に出すということができない。
そして往々にして、そうやって求めた返事も、何を言っているのかよく分からない。
会話の質が低く、聞き漏らしが多い。母語なら当然の、考えながら話す、聞きながら考えるということができないからである。

昨年末から、フィンランドから別の担当者が来た。
フィンランドでは、かなりの人が英語を自由に使えるらしい。
彼は、ぼくが1年ちょっとかかってやってきたことを難なく数ヶ月で達成し、さらにその上を行っている。
彼は英語の文書が苦もなく大量に読め、大量に書け、周囲と込み入った会話ができる。
ぼくはその脇で、ひたすら黙って辞書を引きながら込み入った文章を解読している。
全体会議では流れについていくのがやっとで、意見など言うヒマなどはない。あるいは、意見を頭の中で英語に直している間に、あっという間に話題は飛び去って行ってしまう。

いま、ぼくはこの職場環境で「いちばん貢献していない人」である。
そして、それを解決する見通しが見えていない人である。認めざるを得ない。
自己憐憫に陥るものかと思いつつも、気がつくとまわりと自分を比べている。
無力である。
そして、無力を認めるというのは、こんなにもきついものなのかと思う。
期せずして、酒をやめたばかりのころを思い出す。

無力を認めるには、代わりになる何かが必要だ。
AAでは、アルコールに対する無力を認めれば自由に生きられる、アルコールなしの新しい生き方が手に入ると言う光が見えた。それは、AAにつながりつづけている仲間の姿から感じることができた。そして、彼らの助けの手があった。
ただ単に無力を認めろと言っても、認められるわけがない。その代わりになる希望、酒をやめたあとにある光が見えなければ、とてもできるわけがない。
「無力を認める」のと「解決がある」ことは、同時に示されなければならない。
どんなに進歩しても、酒をやめたあとの希望、酒を手放すに値すると思える生き方、笑顔、よろこびを医学は提供しない。それはやはり、自助グループと仲間だけが見せることができるのだ。

と、AAのありがたみを再確認したところで、きょうも孤立無援の職場でがんばるわけです。
12のステップとハイヤーパワーがあれば、きっとだいじょうぶ。

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2017年1月25日 (水)

献金のおつり

きのうのミーティングでのこと。
参加者は7名ほど。
当グループは献金箱がないため、ミーティング終了後に係の人に直接献金を手渡す仕組みだ。
ぼくは細かいお金がなかったので、5ドル札を手渡した。
「ちょっと待って」
そう言って献金係の彼女は、ぼくにⅠドル札を3枚返した。
ううむー。
AAにつながって十数年。献金で「お釣り」をもらったのは生まれて初めてだぞ。
色んな国のミーティングに出てきたけれど、どこもお釣りはなかったな。
なかなか得がたい経験でした。

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2017年1月24日 (火)

新大統領就任式、取り残された人たちの声

2017年1月20日、大統領の就任式を見てきた。
会場はワシントンDCの中心地、国会議事堂とその前に広がる広大な敷地、ナショナル・モールである。
チケットを持ってれば国会議事堂でオバマやトランプを間近に見れるのだが、市民権がないとチケットが取りにくい。
と言うことで、ナショナル・モールの広大な緑地帯で就任式を見た。

ワシントンDC市内は何重にもフェンスが張られ、すべての交差点を軍が警備している。
Isisもテロ予告しているし、まあ当然の措置だろう。

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歩行者の導線を制限しているため、最寄り駅からナショナル・モールへは、大きく迂回路を通らなければならない。そしてチェックポイントで手荷物検査を受ける。
手荷物検査は厳しいと言えば厳しく、甘いと言えば甘い。
すべてのバッグは徹底的に検査される。デジカメは係員の前で撮影して見せて、偽装品でないことを証明しなくてはいけない。スマホ、タブレットも同様。小包の類いは、爆弾の可能性があるため持ち込み厳禁。
その一方で、ポケットの中身などはチェックされなかった。これで大丈夫なのかと思う。
まあ、大統領やVIPからは遠いからなのかも知れないが。
チェックポイントを通過して会場に入ると、中はガラガラ。思った以上に人がいない。
が、これはチェックポイントの荷物検査が厳重なこともあるだろう。事実、ぼくと妻は1時間以上行列に並んでやっと会場に入れた。
ぼくたちよりあとに並んだ人たちは、式の半分以上進んでからようやく中に入れたと思う。

巨大スクリーンに、前大統領の顔が浮かんだ。
いくつかの引き継ぎの儀式のあと、新しい大統領のスピーチがはじまる。
ゆっくりと話し、単語も分かりやすい。画面下には字幕も出る。おかげで内容がよく分かった。
会場にいるのは、ほとんどが新大統領の支持者だ。みなおそろいの赤いキャップをかぶり、思い思いのアメリカ国旗をモチーフにした服を着ている。

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スピーチが進む。
いままでアメリカの主体はワシントンだった。ワシントンDCの少ない人たちが国の意志決定をしてきた。それをいま、あなたたちに返すことを私は約束する。
沸き上がる歓声。
これからはアメリカが第一だ。なぜ自国の富を、ほかの国にまっさきに分け与えないといけないのか?私はアメリカのしあわせを優先する。
こぶしを突き上げ、USAコールを繰り返す支持者たち。

ここにいると、自分の立ち位置を考えざるを得ない。
新大統領のスピーチは、もちろん保護主義的であり、一国主義であり、前大統領の国際協調路線とは意を異にする。
しかし、この大統領を支持する人たちは、アメリカの国際活動の割を食って自分たちが損をしていると、腹を立てている。
富が余っているならほかの国に分けるのもいいけど、自分たちが職を失い、世帯収入が下がり、あるいは収入の伸びから取り残され(アメリカはここ10年で物価も賃金も上がっている)、以前ならできた仕事も移民に取られている。なぜなのか?政治は俺たちを見捨てるのか?
彼らの叫びは、ぼくにはそう聞こえる。

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客席がひときわ大きな歓声を上げたのは、新大統領がアメリカ各地の名前を挙げたときだ。
ネブラスカ、デトロイト。どちらもラストベルト、つまりかつては工業地として繁栄し、いまは衰退した地域である。
新大統領が予想を覆して得票したのも、ラストベルト地帯だ。
これらの地域は衰退の波に呑まれ、貧困と失業にあえいでいる。かつてはアメリカの繁栄の象徴だったのに、いまは企業が工場を移転し、広がる廃工場の風景の中にたたずんでいる。
しかしそう言う人たちの不満の声は、ともすれば人種差別と揶揄される。
アメリカには色んな人種が混在している。中でも「中産階級未満の白人」は事情が特殊だ。
彼らは白人であるがゆえに、人種がらみの不満が言えない。不満を言えば、白人による差別ととらえられてしまう。
デトロイトなどは特に、かつては自動車工場で繁栄していたにも関わらず、いまは米国有数の犯罪都市だ。日本に自国の自動車産業がつぶされた、あるいは移民に仕事を奪われたと感じるのも致し方ない面がある。
新大統領は、この層の支持を得た。
ネブラスカやデトロイトのような地域、ここの人たちを自分は見捨てないと、彼は声を強めた。

ぼくは日本人で、アメリカに車を売っている国から来ている。
ぼくから見れば、むちゃくちゃな保護貿易をしかけたり、相手のおごりで国境に壁を作れと言ったり、特定の宗教の信者に背番号を義務づけるような公約はとても受け入れがたい。多くのリベラル層からも、新大統領はすこぶる評判が悪い。
しかし彼を支持する人たちの声なき声、彼の政策に怒りとともに大きくうなづく人々。星条旗を身にまとい、新大統領に熱い視線を投げかける人々。
そこにぼくは、アメリカの光と影を見たように思う。

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2017年1月 2日 (月)

米国アマゾン返品UPS drop off

米国は返品大国である。レシートがあれば、たいがいのお店で返品が効くし、1,2回使った程度なら問題なく返品可能だ。
洋服店などに行くとレジのほかに返品専用のカウンターがあって、ひんぱんに返品の客が受け付けている。通販も同様で、最大手アマゾンも気軽に返品を受け付けている。
が、外国人には返品発送の手順がよく分からない。どこでどう発送すれば良いのか?送料はどれくらい?お金はどう返ってくる?
今回、米Amazonの返品してみた。

返品したブツは、Line 6のワイアレスシステムだ。
到着して気がついた。これはギター側の送信機(トランスミッター)だけだ。受信機がないとなんの役にも立たない。受信機の単品販売はしていないのになぜ送信機だけは単体で売っているのか、意味不明だが、よく調べずに購入したのは自分である。
さいわい、段ボールは開いたものの、中の商品には手をつけていない。十分に返品可能である。
Amazonのアカウントサービスのタブから返品を試みた。
アカウントサービスのタブからrefundを選択、返品の理由をチョイス。さらに進めると発送ラベルの印刷ページにたどり着いた。
それを印刷して切り貼りし、段ボールに貼り付ける。

切り貼りする箇所は3つ。
・宛名ラベルを切り取って発送する箱に張る。
・リチウム電池が入っている旨を記載したラベルも箱に張る。
・バーコードのついたラベルを、箱の中に入れる。
そしてこれをUPSに持って行く。

発送方法の追加説明
・ほかの追跡ラベルが箱に貼っていないことを確認。危険物以外の発送であれば、危険物入りのラベルをかんぜんにはがすか覆うかすること。
・発送ラベルをきちんと小包に貼ること。以前の発送ラベルは完全にはがすか覆うこと。
・小包をUPSに持って行く。最寄りのUPS所在地はwww.ups.comでdrop off ロケーションを見つける。
・Amazon返品には、品物をもともとの製造者のパッケージに入れる必要がある。もしもとの箱が使えないなら、輸送は損が生じないよう、クッションを入れた段ボールに入れること。

さて、問題はUPSの手続きだ。UPSのサイトで調べると、UPSの受付は有人営業所と無人受付の2種類があるらしいことが判明した。有人の営業所は数が少なく、無人受付はあちこちにある。
drop offというのは無人受付のことで、上記Amazonの文章は「無人受付でOK」と読める。
ここで疑問が発生。
・ラベルを貼って無人受付に置いてくればそれでいいのか?送料は?
・着払いか元払いか、どこでその指定を行うのか?

UPSのウェブサイトでアカウントも作った。web上でクレジットカード決済の上、元払いで発送できることも知った。しかし、これをやると、Amazonの発送ラベルのほかにもう一通、自分で作成した発送ラベルを作ってしまうことになる。ひとつの小包にラベルを2枚貼るのはどう考えても不自然だ。だいたい、Amazonからはそう言った指示はない。

こういうときに自分で余計な気を回すと、たいがい不正解になる。Amazonが「ラベルを印刷して箱に貼り、UPSのdrop offに持って行け」というのなら、そのとおりにするのが正解である。深読みは禁物だ。

さて、UPS無人受付に行ってみた。
建物と建物の狭いすき間に、その無人受付は存在した。
それは受付などというものではなく、単なる「ポスト」であった。


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ポストのハンドルをつかんで手前に引き、発送物をスロットに入れる。ハンドルを戻すと、発送物が滑り落ちていく音がする。
割れ物あつかいとか上下指定とかは、いっさい効かない。封筒やはがきと同等のあつかいである。
これがアメリカの宅配便集荷か…。

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投函してから二日後、Amazonからメールが届いた。荷物が無事到着したので、Amazonギフトカードで返金するという。
金額を確認すると、商品代金+税金。ありがたく頂戴しよう。

と言うわけで、アメリカ国内からのAmazonの返品手続きの紹介でした。

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2016年11月29日 (火)

サンクスギビング明けのミーティング

サンクスギビングデイは一大連休シーズンだ。公的には祭日は一日だけだが、多くの人が一週間ほどの休みを取る。だいたいは家族と旅行に行ったり、家族親戚の家を訪れたりするようだ。
そういうわけで、サンクスギビング前後のミーティングは人が少ない。
きょうはぼくとJだけだった。
二人ミーティングをやるような気分も盛り上がらず、ぽつぽつと話をする。
サンクスギビングデーの由来。ブラックフライデーの狂乱ショッピング。
Jは、サンクスギビングデーは感謝、協働、分かち合いの日だという。
ヨーロッパからアメリカに渡った人々がインディアンに助けられ、暮らしを立てることができるようになった。感謝の意を込めて、収穫物をインディアンたちと分かち合ったのが始まりだという。
だから分かち合うことのたいせつさを知る日なのだと。
だが多くのアメリカ人には、ターキーを食べてショッピングをする日になってしまった。
自分は家族とターキーを食べて、静かに過ごした。

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コロラドに生まれ、近くの山でスキーをして育ったJは、現代のアメリカに上手くなじめていない印象だ。
皮肉なことに、サンクスギビングデーはJのような精神主義的な考えとは逆の、物質主義的な、消費社会の象徴的な側面が大きくなってしまったように思う。
サンクスギビングデーの翌日はブラックフライデー。国中のショッピングセンターが年に一度の大幅値引きをし、買い物客が殺到する日だ。開店時間は年々早まり、いまや夜中の0時、日付が変わると同時に28時間の突貫営業に入るところもある。
ぼくも物見遊山で行ってみたけど、あまりの混雑に、クルマを駐めることさえできずに帰ってきた。
Jは、そんな消費社会をクレイジーだという。
消費行動は、満足するということがない。ひとつを手に入れれば、もっと多くのものが欲しくなる。
消費しきれないほどたくさんのモノに囲まれて暮らすのがしあわせなんだろうか?
おれはそう言うものに荷担したくない、と彼はいう。
ブラックフライデーもきらいだし、クレジットカードもきらいだ。あれは借金なんだと言うことをみんな忘れている。なぜ感謝と分かち合いの日に、そんなものに振り回されなくっちゃいけないんだ。と。

ぼくは興味深く彼の話を聞く。
いうまでもなく、現代の消費主義社会はアメリカが作り出したものだ。それをアメリカに生まれて育った人がどう見ているのか、かねてより興味があった。
Jのように、過剰な消費行動に疑問を持っている人がいるのだということに、ちょっと驚いた。
もちろん多様性の国アメリカでは、人の数だけ考え方がある。Jのような精神主義的な考えの人もいれば、家族で元気いっぱいにブラックフライデーのショッピングモールに突入していく人たちもいる。
どちらが良いとか悪いとかじゃない。要は自分次第、自分がどの考えを支持し、基準とするかがたいせつなのだ。

ふだんのミーティングもたいせつだけど、対話で人の考えを知るのもいいね。
それにしても、祭日の本来の意味が失われて消費社会のイベントと化していくのは、日本のクリスマスによく似ているなと思いましたよ。
Happy Thanksgiving day to you.

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2016年9月13日 (火)

またまた久しぶりに

またまた久しぶりの更新になってしまいました。
なんとか元気でやっています。みなさんは、元気ですか?

早いもので、いつの間にか夏が終わりかけている。
先々週まではひどい暑さだったんだけど、先週くらいから朝晩が涼しくなり、駅のプラットフォームにセミの遺骸が目立つようになってきた。今週からはぐっと気温が下がり、通勤する人々も長袖がちらほら。
秋なのである。

AAの方は、あいかわらず週1ペース。3人ほどのメンバーが、いまは5人前後まで増えた。ミーティング会場も、地下室→野外(公園のベンチ)→会議室、と、転々とした。ちなみに今日のミーティングはまたまた野外だった。まあ、野外もいいんだけどね。そばを通行人がよくとおる以外は。
ミーティングのテーマは、ほとんどフリートークだ。今週は自己憐憫と神の意志に沿うこと、についての話が多かった。
先日、誰かがこんなことを言った。「孤独はわたしたちのまわりに透明な壁を作り、ほかの人たちから孤立させてしまう」と。
誰かが自分を孤独にさせるのではない、自分が自分で孤独を作り、他の人との間に壁を作り、孤独に追い込んでしまう。
考えてみたら、自分もそうだった。壁があると感じたときは、往々にしてその壁は自分が作っていた。
いまもそうだ。
あいかわらず英語に関しては劣等感が強くて(というよりは恐怖感、おそれかな)、なかなか他の人に話しかけられない。アメリカは自分が困ったときに「まわりが察してくれる」ということは100%ないので、何かがあったときは自分からまわりに働きかけていかないといけない。英語で。これがつらい。
で、「なにか困ったこと」は、しょっちゅう起こるんである。
クレジットカードによく分からない引き落としが発生する。スマホがある日突然つながらなくなる。同僚にプロジェクトの進捗状況をメールで問いあわせたけどまったく返事をよこさないので、直談判に行く。
身振り手振りを交えてつたない英語で用件を話すが、たいがい「ふん?」みたいな対応をされる。ガックリ落ち込んで、我が身の英語力のつたなさを呪う。
しかし考えてみたら、萎縮する必要はないのである。萎縮してビビればビビるほどに話は伝わらなくなり、コミュニケーションは行き詰まり、劣等感はさらに深まっていく。

ここでひとつ、思い切って断言しよう。
アメリカ人は、テンションが高い人が好きである。
とくに何もなくても、2割増しくらいのテンションで「ハーイ!」と会話を切り出すと、とりあえず何とかなる。ような気がする。
わざとらしいくらいの笑顔で、相手の目をしっかり見て、はきはきと切り出すといい。
疲れるんだけどね。

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と言うことで、日々を仕事の壁、習慣の壁、言葉の壁に苦しみながら過ごしている。
アメリカ人はおしゃべりが大好きで、放っておくとずーっとおしゃべりをしている。そういう国で言葉が不自由だというのは、なかなか忸怩たるものがある。

けど、壁なんてしょせん、自分が作っているのである。ミーティングで仲間が言ったとおりだ。
壁なんてあると思えばあるし、ないと思えばない。「ぼくの言っていることが分からない?じゃああとでメールしてね」くらいの勢いでいいのである。
少なくとも、自己憐憫におちいって立ちすくんでいたら、一歩も進まない。
アメリカは助けを求める人には誰かしら助け船を出す。だったらどんどんコミュニケーションを求めれば良いのである。

そんな感じで、ミーティングで気づきをもらい、日常生活で疲れ果て、また気づきをもらい、のくり返し。
考えてみたら、日本でやっていたのと同じだね。
そんな感じで、なんとかしぶとく生きのびています。

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2016年7月12日 (火)

ローン・ウルフ型とローン・パック型のテロ

ここんところ、物騒な事件が相次いでいる。
フロリダ州オーランドではナイトクラブで50人以上がテロの犠牲になった。ルイジアナとミネアポリスでは警官が丸腰の市民を射殺し、それに怒った若者が警官7名を射殺し、立て続けに血なまぐさい事件が続いた。
日本大使館からも、在外邦人向けの注意喚起メールが届いている。いわく、週末に人の集まる場所に近寄るな、デモを見かけたら興味本位で近寄らず、身の安全を確保せよ。
ニュースを見ていて思うのは、銃による事件は非常に唐突だと言うことだ。
平和な日常のある瞬間、突然銃撃が始まり、あっという間にまわりが死んでいく。同僚が死に、友人が死ぬ。楽しいドライブの最中に、となりの恋人が突然に血まみれの死体に変る。二度と戻ることはない。
そういうことが日常的に起こりうるのだということを、一連の事件は見せつけた。

きょうの朝刊で、となりの州でテロを企てた男が逮捕されたというニュースを読んだ。
犯人は、テロのターゲットとなる建築物を撮影していたところを捕まったという。この男は、Twitterでイスラム国への共感や、テロを思わせる発言をしていて当局から目をつけられていたそうだ。
先日同様に逮捕された男の、どうやらシンパらしい。二人組、いわゆるローン・パック(孤立部隊)型だろう。

昨今のテロリズム事情は、悪化しているように思う。
皮肉なことに、イスラム国の本体が弱体化するとともに、オーランドの事件のようなローン・ウルフ(一匹狼)型、あるいはローン・パック型のテロは増えている。
彼らは組織化されず、イスラム国との直接の関連もない。なにせ一人ないし数名程度なので意志決定は早く、活動を事前に察知することも困難だ。

組織化されていない、イスラム国への共感を示す、一人か二人のテロ活動。防ぎようがないと思う。

テロとの戦い、と言う言葉をはじめて聞いたのは、ジョージ・ブッシュ政権の時だろうか。ぼくが最初にこの言葉を聞いたとき、かすかな疑問をおぼえた。われわれはテロリストとそうでない人を、いったいどのように区別するのだろうか。
たとえ銃を持たなくとも、潜在的なシンパ、例えばテロリストに自分名義の携帯電話を貸す人はテロリストだろうか。それを黙認する家族もテロリストだろうか。
あるいはまだなんの行動も起こしていないけど、こころの中でアメリカや西側諸国にはげしい嫌悪感を感じている人は、潜在的テロリストだろうか。

テロリスト、テログループ、イスラム国、そういった人や集団は、われわれとはちがう、狂気の集団。奴らをやっつければ悪は消え、世界は平和になる。そんなカリカチュアライズされたイメージを、テロとの戦いという単純な言葉の影に感じる。背景にあるのは、非常に単純な善悪観、二分法だ。ハリウッド映画、たとえばエアフォースワンのように「悪いテロリスト」と「それ以外の善意の人たち」がはっきりと別れていれば、こんなに楽なことはない。
でも現実には、テロリストとそうでない人との境目は非常にあいまいだ。悪人をやっつければ世界に平和が訪れるというのは、アメリカという超大国がずっと昔から持っていて、そしてずっと失敗し続けているマインドセットだ。幻想と言ってもいいだろう。

今回逮捕されたローンウルフ型の犯人は、アメリカ人だ。彼の先祖は中東の出身かも知れない。名前も先祖にあやかって中東風の名前がついている。でも、アメリカで生まれ、アメリカの市民権を持つものはすべてアメリカ人だ。もし犯人の父母が中東出身だからと言う理由で、彼をアメリカ人ではないと断じれば、アメリカはアイデンティティを失うだろう。この国ではネイティブ・アメリカン以外の人間は、すべて移民か移民の子孫なのだから。
つまり、イスラム国やテロとの戦いは、どこか遠くにいる悪いテロリストが攻撃してくるのではなく、いまやアメリカ人がアメリカ国内でアメリカ人に銃を向け、引き金を引く。そういうものすごく分かりにくく、あやふやな戦いに変質してしまった。
潜在的テロリストとは、アメリカ中に散在している「こころの中でイスラム国への共感を抱いている者」「こころの中でアメリカを憎悪している者」たちだ。そんなものを一人残らずあぶり出すことが可能なのだろうか。
テロとの戦いとは、いまや内戦ですらない、「人の心のありよう」という、観念的で内面的な問題になってしまった。

今回、となりの州で未遂犯が捕まった事件は、Twitterのつぶやきが決め手だった。しかし、不用意なTwitter使用が逮捕につながると報道された以上、同じ手は通用しないだろう。残りのローン・ウルフたちは黙って銃を手に入れ、現場を選定し、引き金を引くだろう。
アメリカはどうするんだろうか。
最適解は分かりきっている。銃を規制すること。そして中東出身者やイスラム教徒への風当たりや弾圧がないように呼びかけること。調和と平和の方針を強く打ち出すこと。
でもおそらく、銃による大量殺人が起こるにつれ、銃の購入は増えるだろう。そして某大統領候補のように、イスラム教徒排斥を公言する人も増えるだろう。
疎外され、不当に差別されていると感じれば、それは怒りにつながる。アメリカ社会に対する不満や怒りが募り、そこに簡単に自動小銃が入手できる環境が加われば、あっという間にローン・ウルフ型テロリストのできあがりだ。

なんとなくなんだけど、オーランド事件の犯人や今回となりの州で捕まった犯人は、崇高な理念を持っているようには思えない。イスラム国へのシンパシーなんてのは後付けで、結局は社会に対するフラストレーションが犯行の直接の原因ではないだろうかと思う。
アメリカに来て感じるのは、この国の独特のコミュニケーションスタイルだ。
この国では、みずからコミュニケーションを求めるものにはみな応えてくれる。しかし、コミュニケーションを求めない人、コミュニケーションが不得手な人、内向的で人に話しかけられない人には冷たい。
いや、冷たいというのとはちょっとちがうな。
自分からアクションを起こさない人、人に話しかけない人には「誰も気がつかない」のである。そこにその人がいること自体が忘れられ、あたかも存在しないかのようにあつかわれる。もちろん、誰も悪気はない。悪気はないんだけど、黙っているだけで誰かが気にかけてくれる、などということはあり得ない。
そういう社会にあっては、積極的に人と関わるのが苦手な人は、あっという間に社会からこぼれ落ちて行ってしまう。人が生きていくためにはなにがしかのアイデンティティが必要だ。そしてイスラム国は、周囲を憎む者にその怒りの正当性を与え、イスラム原理主義(ですらないのだけど)という新しいアイデンティティを与える。そして、テロリストが生まれていく。
突き詰めるところ、オウム真理教に惹かれていった若者たちと共通した心理なのではないだろうか。
だとしたら、銃規制とともに、テロリスト予備軍へのサポーティブな働きかけが必要だと思う。
ちゃんと仕事があり、話し合える家族や友人がいて、社会に参加している実感が持てれば、人混みに向けて銃を撃つなどと言うことはなくなるのではないかと思う。
甘い?そうかも知れない。しかし少なくとも、イスラム教を弾圧したり、イスラム風の名前を持つ者を白眼視すれば、今後ますますローン・ウルフたちは増えていくだろう。そして安価で軽くて精度が高い銃の販売は、次の大量殺戮を引き起こすだろう。
平和的な解決策が執られることを願ってやまない。

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2016年5月14日 (土)

アメリカの食べ物

たまには食べ物の話題など。
アメリカに来る前はこう思っていた。
「アメリカの食べ物がまずいなんて、昔の話。これだけグローバル化が進んでる時代なんだから、どこでも美味しいものが食べられるだろう」
去年シアトルに出張したときも、食べ物がまずいという印象はまったくなかった。ホテルの食事もレストランも、美味しかった。世界は確実にグローバル化しているのである。

だが、いざ生活をしてみると現実が見えてくる。
まず第一に、外食代は高い。前にも書いたかも知れないけど、ちょっと軽く食事をするだけで13ドルくらいする。それにチップと税金が上乗せだ。

第二に、日本のような「定食」がない。せいぜいマクドナルドのセットメニューくらいだ。
席に着く店でメインディッシュにコーラにサラダなんて頼んだら、余裕で30ドルは行く。夫婦二人で60ドル。とても気軽に行けない。
安い店を探すと、必然的に中華かピザ、ハンバーガーなどに行き着く。あとはベーグルとか、どこにでもあるチポトレ(メキシカンの店)か。和食は高くて食べられない。
ああ、大戸屋がなつかしい。吉野家、松屋、サイゼリヤ、デニーズ。

第三に、コンビニがない。
いや、あるのはあるんだけど、品ぞろえが悪い。日本のような優秀なコンビニスイーツなど望むべくもない。オレオクッキーとかコーラとか激甘ドーナツとか、そんなんばっかりである。やれやれである。
シアトル滞在中の印象は、あくまで旅行者だったからなのだろう。
いざ住んでみると、アメリカの食生活のバリエーションの少なさに驚く。

だが、そんなアメリカでも美味しいものはもちろんある。
筆頭がハンバーガー、ホットドッグだ。これはもう、アメリカの国民食と言っていいだろう。
どこで食べても、外れがない。いまの流行りは値段が高く、ハイクオリティなもの。
写真は、うちの近くの某有名ホットドッグ。厳密に言えばチリドッグか。

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ぷりぷりのソーセージに、挽肉たっぷりアツアツのチリソース。付け合わせのチップスもさくさくしていてとてもうまい。
値段は4ドルくらい。大きさ的にはもうひとつ食べられそうなくらいだけど、重たい食事はちょっと、というときにうってつけだ。

写真二つ目は、ニューヨークに行ったときに食べたファイブナプキンバーガー。

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写真で見るとよく分からないが、お皿もフレンチフライも、そしてもちろんバーガーも巨大。
でも肉汁たっぷりで、ボリューム満点。上のバンズが重ねてないのは、自分で好みのケチャップやマスタードをかけて食え、と言うことなんだろう。
ちなみにファイブナプキンの由来は、食べるときに肉汁がこぼれすぎて、ナプキンが5枚必要になるから、出そう。なるほど。
好きなだけ塩こしょう、ケチャップとマスタードをかけてかぶりつく。肉汁がマスタードとともに流れ落ちる。手がべたべたになるけど気にしない。

郷に入れば郷に従え。
よその国にケチをつけても始まらない。安くて美味しいものを探しに行きましょう。

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2016年5月13日 (金)

チケットマスター、アメリカの音楽興行システム

アメリカで楽しみにしていたことのひとつが、音楽ライブである。
安い、日本では滅多に見れないアーティストが見れる、ライブハウスがたくさんあって有名ミュージシャンも小さな箱でやってくれる。などの日本にはないメリットがある。
事前情報を得てワクワクしていた。
じっさい、こちらにきて何度かライブハウスに足を運び、アメリカのライブの良さを堪能している。さすがロックの本場だ。

きょうは音楽とは少しちがうこと、アメリカの音楽興行業界のことを書きたい。
アメリカの二大音楽興行業者と言えば、TicketmasterとLive Nationだ。
ほとんどのライブが、この二つのどちらかを通じてチケットを売っている。オンラインを通じて購入を行う。
アマチュアバンドのライブでもほぼ同じ。この二社のどちらかを通じてチケットを発売し、完売しなければ当日窓口で発売する。この二社、日本で言えばチケットぴあとローソンチケット、あるいはイープラスと言ったところか。
が、この両社、どうもダフ屋とつるんでいるようなのである。

先日、ブルース・スプリングスティーンのツアーが発表になった。うちの近くにもツアーが来る。
チケット発売日、開始時間と同時にパソコン2台態勢でチケットマスターのHPにアクセスした。
2時間近くリロードを繰り返すも、結局ゲットできず。完売。まあ、人気のライブだから仕方がない。
と思ったら、ソールドアウトする前から、続々とダフ屋(Scalper)のサイトにチケットが出品されているではないか。
それも、あきらかに個人のレベルではない。100枚単位、それも一列丸ごととか、1ブロック丸ごととかの単位で転売されている。
あり得ない。あきらかに、発売元とダフ屋とがぐるになっているとしか考えられない。
最終的には、たとえば転売サイトStubhubでは、スプリングスティーンのチケットがニューヨークでは軒並み5,000ドル(55万円)、最高7,100ドル(77万円)まで上がった。元値はせいぜい150ドルと言ったところである。

New York targets ticketers after Springsteen prices soar

瞬間ソールドアウト。同時にダフ屋サイトで数百枚、数千枚の転売。同じ現象は、有名シンガーのAdelでも起きた。こちらは2,000ドル(22万円)。
Ticketmaster cracks down on scalpers for Adele, Springsteen concerts | Toronto Star

チケットマスターは以前にもダフ屋とぐるになっている疑いでFBIの捜査を受けているが、状況は改善していない。

さらに先日。
また別のライブのチケットを取るため、チケットマスターに発売と同時にアクセスしたら、Tickets Nowという転売サイトに飛ばされた。
また瞬間ソールドアウトだから、自動的に転売サイトにリダイレクトされたんだろう。転売価格がそう高くなかった(元値が70ドルくらい、転売99ドル)ので、そのまま購入。
転売屋から買うのは気が進まないが、ぐずぐずしていると、転売サイトの価格もどんどんはね上がる。
が、数日後に別のサイトに行ったら、なんとチケットはまだ余っていた。それもかなりの数である。つまり、チケットマスターはまだ席が残っているにもかかわらず、転売サイトにリダイレクトを飛ばしたのである。
(チケットマスターが興行を仕切る場合、そのライブは全席がチケットマスターの管轄だ。あるいは複数の興行会社が仕切っている場合でも、お互いのシートを融通しあっているようである。日本のように複数の興行会社がそれぞれにちがうブロックの席を握っていると言うことはない)
買い直そうかと思ったが、転売サイトは返品が効かない。TIckets nowで自分が転売するという手もあるが、ダフ屋に手を貸すなんてまっぴらである。

ちなみにチケットマスターは、自分でもリセール代行をやっている。ライブに行けなくなったファンのチケットを代行販売していると言うのが名目のようだ。
それにしたってずいぶん高い。ライブに行けなくなったファンのシートを買い上げて二次販売するのなら、元値プラスいくばくかの手数料、くらいが妥当だと思うのだが。

ダフ屋問題にはさすがにアメリカ人も黙っていないようで、「チケットマスターとライブネイションはダフ屋行為をやめろ!」というfacebookのサイトもできている。まあ、誰だってそう思うだろう。

Ticketmaster and Live Nation need to END scalping NOW!

まあしかし、FBIの捜査を受けても改善しなかったんだから、苦情程度で治るわけがない。ほんとうに行きたいライブは我慢してダフ屋から高額で買うか、さもなくばあきらめる、というのがアメリカの実状である。
こういう状況を体験すると、日本はまだ健全だと痛感する。チケットぴあが転売業者とぐるになって人気ライブのチケットを数百枚単位で横流ししたりしたら、きっと会社がつぶれるくらいの大問題になるだろう。

何でもお金次第のアメリカ。有名アーティストでも40ドルくらいで見れるのに、スプリングスティーンのライブはダフ屋で買わないと見れないアメリカ。

ちなみにアーティスト側にも動きがあるようだ。Adelはチケット購入時のクレジットカードと写真付きID(運転免許証やパスポート)を持参、照合するシステムを導入した。たいへんな手間である。お金も人手もかかるだろう。それでも断行するところに、彼女の強い意志が見える。
しかしほかのアーティストの動きは鈍い。きのうきょうの問題ではないはずなのだが、おおっぴらに声を上げる人は少ない。音楽業界全体の、何か表に出しづらい事情などもからんでいるのだろうか。アーティスト側も相応のキックバックをもらっているとか。勘ぐりすぎかな。
日本では優先チケットの横流しがばれたらファンクラブ会員権剥奪など、相応に厳しい処分が取られているようだ。
カオル個人の意見としては、程度にもよるだろうけど、個人間の売買は多少目をつぶってもいいと思う。
けど、瞬間ソールドアウト→同時にダフ屋サイトで数千枚発売、これはダメでしょう。
しかしどうも音楽興行業界の考えはちがうらしい。「自由市場」(アメリカの大好きな「自由」「民主主義」)の原則が左右するのだから、アーティストが価格をコントロールしようとするのはおかしい、と言う理屈だ。
自由市場って、アメリカ人はみんな株やトレーディングのように、最初から転売利益を得ることが目的でチケットをゲットしているのだろうか?音楽興行業界のCSRはどうなっているのか?

アデルは1週間に300万枚以上のアルバムを売り上げることができる、世界で最もビッグなポップスターの一人であるにも関わらず、このようなチケットの販売方法についてコントロールできる部分はほんの少しに限られている。「画期的な解決策はないんだ」と、See Ticketsのウィルムシャーストは語る。「会場には様々な契約上の関係があり複雑だ。厄介な世界なんだよ」。
中略)
再販業者らは、アデルの戦略について、チケットセールスにおける自由市場を操作しようとしていることが問題だと指摘する。需要が多ければ供給は減り、価格は高騰する。アデルのチームが、どんなに50ドル~150ドルという定価のままの価格範囲を順守しようともだ。「そのような目標が市場のなかで達成されることはないだろう」と、StubHub社長のスコット・カトラーは語る。

アデルとダフ屋の総力戦、その内幕 | Rolling Stone(ローリングストーン) 日本版

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2016年5月11日 (水)

回復の定義とは? "What Is Recovery?"

おもしろいサイトを発見。
回復の定義を決めちゃおうっていうサイト、その名も”What Is Recovery?” (回復ってなんだ?)。

http://whatisrecovery.argintranet.org


トップページにはこう書いてある。
「アルコール・薬物問題の回復には、今日に至るまで一致した見解がありませんでした。ある人は薬物・アルコールを完璧に絶つことと言い、別の人はちがうといった具合です。私たちが知っているほとんどのことは科学者や有識者から得た知識で、回復者からではありません。”What Is Recovery?”プロジェクトは実際に回復を経験し、いま回復を生きている人からの知見をもとに回復を定義する試みです」

と言うことで、回復の定義がはっきりしていないことにもやっとした思いを抱えているのはぼくだけではないようだ。
このサイトは、実際の回復者の意見を得るために、Webベースの調査と電話調査をやっている。
まだ結論は出ていないものの、現在はこんな意見が出ているそうだ。

・回復とは、自分に正直になること。
・回復とは、かつてのように酒やドラッグを使わずに人生を楽しめること。
・回復とは、社会、家族、自分自身の向上などのために貢献できること。
・回復とは、人が頼るような存在になること。
・回復とは、与えられたものを別の人に贈ること。
・回復とは、自分の時間とエネルギーを費やす活動の中で、信念と価値観を一貫させるために努力し続けること。

などなど。
いまのところ、大別すると5つの領域に意見が寄せられているそうだ。

http://argintranet.org/whatisrecovery/?q=node/6

1.断酒・断薬に関して
2.回復の必須条件
3.「豊かな」回復
4.回復の霊性
5.共通性の低いもの

うーん、おもしろそう。
1.の断酒・断薬については、「酒を飲まない」「処方薬を乱用しない」「処方薬以外は使わない(売薬を使わない)」が88%- 94%で一致している。
逆に共通性の低いものとしては、「心身が健康で、霊性・宗教に問題がないこと(65%)」「タバコを吸わない(65%)」「宗教を持つ63%)」「問題にならない程度の飲酒・薬物使用(43%)」があげられている。うーん、たしかにAAメンバーでタバコを吸っている人は多い。アメリカでも多い。禁煙を回復の条件にしてしまうと、かなりの人が非回復者に分類されてしまいそうだ(笑)。
ちなみにこの試みをやっているのは、カリフォルニアの公衆衛生研究所 (Public Health Institute)。
Lee Ann Kaskutasと言う先生がやっておられるらしい。
いまのところまだ中間報告しか出ていないけど、おもしろい試みなので、ぜひ結果をまとめて欲しい。
意外なのは、感情のソブラエティに関する項目が入っていないこと。まあ、感情の安定性みたいなものを定義し出すと切りがないからね。ぼくも日によって気分がグラグラして安定していないし。

ちなみにぼくも回復の定義を考えてみました。
酒をやめ続けていること、は前提条件みたいなものだと思うので、あえて回復の条件には入れませんでした。

1.ケンカしても仲直りできること。
2.ごめんなさいが言えるひと。
3.こころがしなやかなこと。信念と柔軟性の両方を持っていること。
4.家族を泣かせない。
5.たまには親孝行。
6.くじけてもよし。へこたれてもよし。泣き言、グチもよし。でもまた立ち上がれること。

うーん…仕事中に30分も頭を抱えて、この程度しか思いつかなかった…スケールちっちぇ…がーん。。。

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2016年4月22日 (金)

車内百景

アメリカは自由の国である。
どれくらい自由かと言うと、電車に乗るだけでごきげんにエキサイティングな人たちに会える、そのくらい自由である。
きょうは、アメリカの電車の中で出会った自由な人たちについて書き記したい。

1.車内で爪を切る人
ある日の午後、電車に乗っていると後ろの席からパチン、パチンと言う音が聞こえてきた。後ろを振り返る。おばさんが一人、背中を丸め、淡々と爪を切っていた。もちろん爪はその辺に飛ばしっぱなしである。自分の服に飛んでこないことを祈りつつ、目的地に着くのを祈るのであった。

2.車内で懸垂をする人
ぼくの住む地域の電車は、基本的につり革というものがない。代わりに、電車の天井付近に金属の棒が設置してある。電車の背も低いため、基本的に立っている人はこの棒か、ドア付近に設置してある垂直の棒につかまる。天井の棒は、もちろんかっこうの懸垂棒である。きょうも調子に乗った若者が仲間とともに懸垂を繰り返す。がんばれ。アメリカ人は太りやすいから、今のうちに運動の習慣を付けるんだぞ。

3.スマホのスピーカーで音楽鑑賞をする人
日本では昔から「ヘッドフォンの音漏れ」が話題になっていた。音漏れしない構造のヘッドフォンも開発されてきた。しかしここはアメリカ。ヘッドフォンどころか、スマホの内蔵スピーカーから堂々と音を出して音楽鑑賞をしている人がいる。10回電車に乗ると、1回くらいは出会う。
もちろん、うるさい。スピーカーから音楽鑑賞をする方はクラシックやアンビエントミュージックなんて聞かない。ビートの効いたEDMかヒップホップである。
あまりうるさい時は注意しようかと思わないでもないが、ここはアメリカ。先日も電車内で射殺事件があったばかりである。
ちなみにその射殺事件、若者が若者を撃ったんだけど、理由が「目が合ったから」であった。
目撃者によれば
「お前、さっきからオレのこと見てるけどオレのこと知っているのか?あ?」
「え?なに?何のこと?」
「バーン」
といういきさつだったそうだ。目が合っただけで撃たれるご時世、若者の音楽鑑賞の邪魔などしようものなら、どんな目に遭うか分からない。駅に着くまでの数十分を騒音に耐えて命が長らえるなら、こんなにたやすいことはない。
と言うことで、ひたすら耐えるのみ。まあ、タクシーに乗ったってラジオが流れてるもんね。

4.ラッパー乗務員
次の駅の案内や車内の注意事項は基本的に乗務員がマイクで放送する。が、どうもちゃんとしたマニュアルがないようなのである。一定の共通パターンはあるものの、乗務員によってアナウンスはバラバラだ。中にはノリノリのラップ調で車内案内をしてくれる乗務員もいる。これは楽しい。
が。
最初の数駅のラップで興奮しすぎてしまい、だんだんテンションが下がってくる乗務員もいる。
駅が経過するごとにラップのテンションが下がり、ついには次の駅の案内すら投げやりになってしまう。
だから最初に飛ばしすぎるなと言ったろうが!
乗客の心が一つになる瞬間である。

5.ラッパー構内アナウンス
乗務員に較べて、駅の構内アナウンスはあまりファンキーなことはない。決まった文句を読み上げるだけである。が、ここはアメリカ。
先日、電車を待っているとどこからともなくゴキゲンなビートが聞こえてきた。駅の構内スピーカーからであった。良く聞くと、音楽ではなく口ドラム、いわゆるヒューマンビートボックスだ。
どうも駅員が練習中で、スピーカーのスイッチを切り忘れたらしい。
電車が来るまで、口ドラムはずっと続いていた。ひたむきな練習を繰り返している様子がダイレクトに伝わってきた。何ごとも練習が大事だよね。うん。

6.車内でサキソフォーンを吹く人
これはイベントの帰り。車内でサキソフォーンを吹く人に出会った。ミュージシャンらしい人がまわりの乗客に請われて、サキソフォーンを吹き出した。
上手い。さすがである。しかし、近くでロックコンサートとアイスホッケーの試合が終わったばかりの時間帯。車内は立っている人もたくさんいる。この状況でソプラノサックスを吹くのはどうなのか。
演奏をリクエストした人たちは手を叩いてよろこんでいるが、ほかの人たちは割とクール。と言うかムッとしている。
さすがに空気を察したのか、途中で楽器をしまうサックスおじさん。何とも言えない沈黙が車内を支配する。

7.番外編 駅および電車そのもの
電車が時間通りに来ないのはまあふつうなんだけど、どこの駅でもエスカレーターがしょっちゅう故障している。そのたびに止まったエスカレーターを、えっちらおっちら登らなくてはならない。駅によってはものすごーく深い地下にプラットホームがあるため、地上に出るころには太ももがぱんぱんになっている。
故障のアナウンスなんて、もちろんない。「ご迷惑をおかけします」なんて台詞ももちろんない。エスカレーターに差しかかったら、単に動いていないだけ。
それでも誰も文句を言わない。みな淡々と止まったエスカレーターを登りはじめる。大人の対応だと思う。あるいは「そういうものだ」と最初から思っているからか。期待がない分、失望もないのかも知れない。

そんな大人の対応のアメリカ市民であるが、電車のドアが開かないときはさすがに少し感情がぶれるようだ。
駅に電車が到着する。でもドアが開かない。じっと待っているうちに、電車は次の駅を目指して発車する。こういうことがしばしばある。
ドアの前で待っていた乗客の顔が失望に歪み「オゥ…」「ダムン」などの言葉がもれる。中には軽くドアを蹴る乗客もいる。
それでも大半はあきらめて(あきらめるしかないんだけど)次の駅で降りて折り返しの電車に乗る。
こう言う体験を何度かすると、電車が駅に着いてドアが開くかどうか、すごくドキドキする。
しばしの沈黙の後にドアが開くと、それだけでこころの底から「良かった」と思える。
電車のドアが開くだけで安堵の気持ちが湧いてくると言うのは、良いことなのか悪いことなのか。

そして言うまでもなく、しょっちゅう運行は乱れる。都市部の電車にもかかわらず、「次の便は25分後」なんて案内が電光掲示板に出ていたりする。あきらめてベンチに座ると、2分後に電車が来たりする。メチャメチャ。
日本の鉄道会社がこんなことをやったら叩かれそうだけど、ここではこんな状態がずっと続いている。いままでもそうだったし、これからもきっとそのままだろう。
適当でも何とかなるという、一つの証拠にはなる。のかな。

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2016年4月19日 (火)

欠点を最小化する

相変わらず英語のスキルが上がらない。
仕事は何とかこなしているものの、AAミーティングや雑談では、集中して聞いていないと文脈がつかめない。集中力がとぎれると、いきなり会話について行けなくなる。
このままヒアリングが良くならなかったらどうしよう。そう思う反面、最近は「自分はこの国では外国人なんだから、フルセンテンス聞き取れなくて当たり前」とも思えるようになってきた。
まあ、開き直りですね。「おお、なにやら異国の人が異国の言葉でペラペラしゃべっておるな。よしよし」
という感じ。

英語ならではの面白さもある。
きょうのミーティングでは、「性格上の欠点をminimizeする」という表現が出てきた。BBにも載っているのかも知れないが、合理的な表現にハッとさせられた。
minimize、つまり「最小化する」と言うこと。
日本でも「性格上の欠点を取りのぞく」とか「少なくする」「減らす」という表現はよく聞くが、最小化という言葉はよりぴったりくる気がする。
われわれはAAプログラムで自我を収縮することができる。欠点を少なく、小さくすることはできる。でも完全にゼロにはできない。
最小化、という言葉は、少なくする、減らす、と言う言葉よりも的確だ。少なくする/減らすのは、あくまで方向性の表現であるのに対し、最小化と言う言葉は、目標水準を表現している。
目標、つまり「最も可能な限り小さい状態」をめざすこと。

AAプログラムのほかの要素と同様、最小化がどの地点なのかは、人によってちがう。わずかな進歩で満足するしかない場合もあるだろう。でも、それがその人の最小化の状態を目指しているのであれば、それでいいんだと思う。
完璧を目指すのではない。人と較べてもしょうがない。「自分にとっての最小」を目標にすること。

さて、ぼくの性格上の欠点は最小化されているんだろうか。
分からない。
アメリカに来てから落ち込んだり自己憐憫を感じる回数は多くなった。そのたびに、答を探し回っている。
まだまだ回復途上と言うことなんでしょう。

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2016年4月 7日 (木)

4人ミーティング

またまた久しぶりの更新。
今回は、ミーティングについて。
いつも二人ミーティングを繰り返しているマイホームグループだが、先日なんと、合計4人という快挙を成し遂げた。イェーイ!
しかし、二人ミーティングに慣れた身には、何かと調子が狂う。いつもBBの個人の物語の読み合わせをしているんだけど、案配が分からず一人で半分以上読んでしまう。
逆に、自分の話はキンチョーしてすぐに終わってしまう。
慣れている人はいいんだけど、初対面の人にはどうしても「不正確な発音や文法で、ちゃんと聞き取ってもらえていないんじゃないだろうか」という不安がつきまとう。
さらに、どうしても初対面の仲間の話は聞き取りにくい。
ミーティングでの話がつぶやき調になるのはどこの国も変らないようだ。で、モゴモゴしたつぶやき口調は、聞き取りが非常に厳しい。
また通常の二人ミーティングでは、相方がぼくに気兼ねしてゆっくりはっきりしゃべってくれる。難しい単語も避けてくれる。感謝である。
が、米国人4人のミーティングとなると、超スピードになって聞き取り率ががた落ちする。
ネイティブ同志の短く鋭いコミュニケーションは、ほとんど聞き取れない。

とは言え、人数が多いのはやはりうれしい。
このまま4人で定着してくれることを祈るばかりだ。聞き取りも、いずれ慣れるだろう。
肝心なのは中身なんだから、コミュニケーションばかりに気を回しすぎても仕方がない。
それにしても、米国版の個人の物語は非常におもしろい。女性のネイティブアメリカン、ゲイ、肝移植など、バラエティに富んでいる。
マイノリティならではの苦労もあるんだけど、葛藤を乗り越え、最終的には回復の道を歩き出す。
個人の物語のバリエーションが多いのは、とても良いことだと思う。社会全体で見れば、アルコール依存症というだけでマイノリティだ。そこからさらにマイノリティを生み出してはならない、どんな仲間もドロップアウトさせてはならないという、そういう意志を感じる。
各章とも短くて読みやすい。ミーティングでも使いやすい。
何よりも、ビッグブック本文にくらべたら格段に読みやすい、現代の平文で書いてあるのがうれしいです。

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